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人なんて信用するに値しない。それは家族であれそうなのだから、それ以上に他人である人間なんか信用することなんてできやしない。それは恐らく、物心がつき始めた頃から変わりはしない。すべては延長線上で起こっている出来事でしかなく、それはひとつの常識として俺の中に刻まれている。だからこそと人に希望を、期待を抱くこともあったけれど、それさえも愚行のひとつとして数えられるほどに滑稽で、恥ずかしいものだ。
どれだけ人と関わり合っても、その裏腹が見えることはない。不安が拭えることはない。わかっている、誰も同じ気持ちを共有することができないと、裏では何を考えているのかを把握できないと。だからこそ俺は疑心を抱えることで自分という存在を成立させて、今までの振舞いを継続してきた。例えそれが稚拙な行いで、人から見ても丸わかりであるような透けた行動だったとしても、俺はそうするしかできなかった。
俺は、人が嫌いだ。
人が嫌いだった。嫌いになった。嫌いになってしまった。好きであるという感情を忘れようとした。人思うたびにどうしようもないほどの不快感を覚えるようになった。
他人の考えを想像しても、それは結局俺がそうあってほしい気持ちを妄想するのと変わらない。それと似通ったものを他人が演じていたとしても、似通っているだけで本物ではない。偽物なんだ、すべてが。
不快感は形になる。胃液を吐き零す衝動がいつまでも自分を襲い続ける。人前では仮面を被ることを選択した。それ故にそこに自分が存在している実感を持つことができない。仮面は自分であるはずなのに、どこか遠くにいる登場人物であるように感じた。それは自分自身ではないように感じた。それは自分自身であるはずなのに、自分自身の振舞いでないように感じた。その心の中でのすれ違いは、より自分に対して俯瞰を持たせるようにしてくる。考えれば考えるほどに自分とは何なのか、俺とはどれなのかがわからなくなってくる。人の求めている行動をすればいいと思った。その求めている行動をどこから知ればいいのだろう。他人のことなんてわかりはしないのに、俺は何をすればよかったのだろう。だから信用できないと切り捨てて、上辺だけで行動を繰り返している。他人を心の中でエミュレーションして、その想像が間違ってないことを祈りながら、勝手に求められている行動を憶測で判断し、その上で行動によって塗りつぶしていく。
さて、どれが本物だろうか。偽物なのだろうか。何もわかりはしない。そうしている自分に対して気持ち悪さを覚える。何かを求める他人に対して気持ち悪さを覚える。両親が俺に求めた行動に対して吐き気を覚えてしまう。知らずか知っていてか、俺の本質を拒絶するような言葉を吐いてくる。そんな人間たちの前で俺は平然を装えるだろうか。考えるだけで反吐が出る。そのたびに自分の情けなさを痛感して仕方がない。
何度も、何度も。それはいつまでも繰り返される。
ああ、人なんて信用できない。割り切ってしまった、もう既に割り切ってしまったのだ。その上で関わる人間を考えても仕方がない。きっと最初からすべてを切り離すように考えていた俺の振舞いに正しいものは何もなく、それが本物かどうかの区別さえつきようがない。そうすることしか俺にはできなかったから。
ああ、朝がやってくる。見たくもない朝がやってくる。考えたくもない時間がやってくる。
こうして夢でさえ悪夢を投影してくるのに、それ以上にひどい現実がやってくるなんて、心の底から信じたくはなかった。
◇
上辺だけの睡眠をとっていた。夢のように見ていた景色はいつかの自分の心象であったように感じた。それを踏まえたうえで、伊万里と話した明日である今日のことを、俺はやり過ごせるような気はしなかった。
家族との関係でさえ上辺だった。それが健全な者へと映し出されたのは、俺の自傷行為が彼らに発覚してからだった。中学の受験期に俺が不登校になってしまったところから、それは本物であるようにすり替えられた。どこまでも根底には偽物でしか存在し得ないはずなのに、彼らはそれを然も本物であるかのように振る舞った。俺はそれを心の底から信じたかった。信じたかったが、それもとうに嘘だと知らしめられてしまうことになった。
伊万里にこれ以上迷惑をかけることはしたくない。だから早々に決着をつけなければいけないことを理解している。でも、考えれば考えるたびに心の中で蔓延っている嫌悪感は形になって、嗚咽が衝動として喉から飛び出てくる。うぅ、と悶えた苦しみを声にしてあげた後、その声で誰かに迷惑をかけていないだろうか、不安を覚えてしまう。そんな不安から俺はようやく目を開けた。
知らない天井だった。知らない天井、というか、あまり見知っていない天井だった。昨日から知り始めたものに変わりはなかった。
木造りであることを示すように、木材の断面が天井に張り付けられている。その暖かみは室内の空気を絆すようにして、相応の熱気を肌に覚えてしまう自分がいた。
寝苦しかった感覚があった。ワイシャツのボタンを緩めていたはずなのに、それでも首を絞められるのと同等の感覚があった。うぅ、と再びもがくような声を出した後、その苦しい感覚の正体を確かめようとして静かに起き上がろうとする。
──重み。
「え」
一瞬、何が起きているのかを理解できなくて、俺は何度か瞬きを繰り返していく。重みの正体を理解した後に、まじかよ、と声には出せない独り言を心の中で呟いてみる。
……伊万里の、足が、首にのっかっている。というか身体全体に彼女の片足がかかっている。
(寝相が悪い、ってやつなのか……?)
そんな言葉にしようもない疑問を心の中で呟いた後、俺はそれを横にそうっとどかすようにした。