空中庭園、グレイレイヴンの控え室。朝に一度開いたっきりの扉は、そのまま静かに昼を迎えようとしていた。湯気を立てていたマグカップの漆黒は適温を大きく下回って久しく、飾り気の無いデスクにはこの数日で築かれたファイルや書類の山脈があった。それは使用者の勤勉な勤務態度により徐々にその高さを下げつつあったが、反比例するように灰皿には吸い殻が山なりに積み上げられていた。グレイレイヴンの指揮官であるショウは、眼前をモニターに照らされながらキーボードをひたすらに叩き続けている。灰皿の縁に掛けられた吸い差しは、隣で行われている懸命なデスクワークに反して穏やかに紫煙を揺らしていた。
時報が休憩時間を知らせる。ショウはモニターの時計を軽く一瞥すると、途中だった報告書を手早くまとめた。強張った背を大きく伸ばし、肩を回すと関節から軽快な音が二度三度鳴る。灰皿の吸い差しを咥えると、大きく息を吸い込んで、ゆっくりと煙を吐き出した。椅子の背凭れに全体重を掛ければ、音も立たずリクライニングに受け止められる。そうして空調によって霧散する紫煙の残滓を無表情で見上げていると、デスクに置いていた端末が僅かに震えた。ショウは目を閉じ、息を吐き、数秒待ってから椅子を回し手探りで端末を取る。そうして届いたメッセージに目を通すと、その内容に体を起こした。もう何度かメッセージを読み直す。それから手にしていた吸い差しを灰皿に押し付けると、控え室の扉は朝振りに仕事をした。
◇ ◇ ◇
メッセージの送り主は、世界政府芸術協会のレオニーだった。彼女は私の姿を認めると、手を上げて挨拶する。
「いつもの事ながら、要請に応えてくれてありがとう、グレイレイヴン指揮官。なんだか、いつも以上に疲れてそうだね?」
「最近は地上任務が多かったから、その間に事務仕事がね……」
こちらの顔色を見たレオニーは、自身にも覚えがあるのか訳知り顔で繰り返し頷いて見せる。
「こなしてもこなしても積み上がる仕事……。だからって手を抜くなんて出来ないし、クオリティを求めれば今度は時間が足りない……。先を見れば気の遠くなる仕事よね……」
「それもやるべき事だもの。お互い、頑張りましょ」
こればっかりは人間も構造体も変わらない話題らしかった。疲労からの悲壮感を漂わせた私達は、互いを労うように緩い笑顔を交わす。
「それで、私はどうして呼ばれたのかしら?」
「ああ、そうだった。早速本題に入ろうか。今回は、正にあなたみたいな人が適任なの」
レオニーはそう言うと、立っていた場所から数歩横にずれた。目の前に現れたのは、構造体が使っている休眠ポッドのような物だった。『ような物』と形容したのは、見慣れたそれとは細かな箇所が幾分か違っているからだ。ガラス窓の中を少し遠目から見るが、構造体に接続するケーブルの類は無く、本当に寝るだけの空間になっていそうだった。
「これは?」
「スターオブライフと芸術協会の共同制作、の試作品。自分の心身の健康を宇宙の彼方に放り投げて作戦に従事する指揮官や技官の多さに、睡眠だけでも質の良いものを取ってもらおうと、スターオブライフ側から提案されたものなの」
地球奪還作戦に参加している軍人は、みな心身に疲労を抱えている。戦闘部隊は地上で侵蝕体を相手に命を懸け、支援部隊は前線を支える為に新技術を日夜研究し続けているのだから当然だろう。健全な精神と肉体を保つ為には、適度な休息が必要不可欠だ。過度な疲労状態では生産性も激減する。しかし、それを分かっていながら破綻した労働状態に見て見ぬふりをするワーカーホリックが少なからず存在する。そして替えの利かない有用な人材であればある程、それは顕著になる。
「これにはカウンセリング等に使われる、医療用のAIが搭載されていてね。人間の睡眠時に深層心理を分析、短時間で良質な睡眠を提供すると同時に、分析結果に合わせたVR空間を展開してストレスの軽減を狙ってくれる。分かりやすく言うなら、人間用の休眠ポッドってところね」
「つまり、好きな夢を見て仮眠出来るってこと?」
「その理解で概ね大丈夫! どんなVRになるかは診断次第だけど」
「なるほど。それなら確かに、私が適任ね」
思わず苦笑いを零すと、レオニーは誤魔化すように咳払いをする。
「今回は、私が担当したVR部分のテストをしてほしいの。AIの診断とVRの連携は問題無いのか、破綻無く展開が出来るのか。あなたがテストしてる間に、私がこっちで観測してみるから」
「それだけなら、私じゃなくてもいいんじゃない?」
「もちろん、他の対象者にも協力は仰いでるわ。ただ、より深度の深い……有り体に言うなら疲労し切ってる人ね。そういう人のサンプルが不足してるの。……本末転倒だけど。念の為アシモフにも頼んでみたけど、門前払いだったわ。予想通りではあったけどね」
確かに、アシモフ君程に忙殺されている人間はそう多くない。無理に名を上げるなら、それこそ議長や長官各位が該当するだろうか。しかしそうした人々はその多忙さ故に、こういったテストに参加しないだろう。他の者より多忙かつ頼みやすい存在として、グレイレイヴン指揮官はまさに適任だ。
レオニーは溜め息と肩を落としたが、頭を振って直ぐに立ち直る。ポッドを開き、自身はモニタリングの為に席に着いた。
「さて、前説はこのくらいにして。準備が出来たら早速始めましょうか! まあ、準備と言っても力を抜いて横になってもらうだけなんだけど」
近付いてポッドの中を覗いてみる。枕とブランケットがあるだけの、簡素な内装だ。良く見ると、枕の頭上辺りに何かヘッドギアのような物が付いている。横になったら装着するものなのだろう。腰掛ければ、程良い硬さのマットレスが体重を受けて軽く沈み込む。
「どんな夢を見る人が多いのか、統計はあるの?」
「もちろん、任意のアンケートは実施してるわ。千差万別ではあるけど、強いて言うなら幼少期の夢を見る人が多いみたい。あとは、鳥や魚になる人もいるわ。これは実際に地上に降りる指揮官達に多い傾向ね」
足を上げて完全にポッドに乗り込めば、ガラス窓は完全に遮光され、常夜灯のような仄明るい間接照明だけになった。どこかに設置されているのであろう、スピーカーからレオニーの声が響く。
『こちらから観測出来るのは、あなたのバイタルデータと各種計器のステータスだけ。その他の個人情報は完全に保護されるから、安心してテストに集中してね』
「了解」
幼少期の夢、と言われてもはっきりと思い出せる記憶はそう多くない。それだけ今の私は童心から大きく離れてしまった。考え込んで何とか思い出そうとしてみるが、あの頃は良く童話を読んでいた気がしていた程度だ。そもそも、最近は起きてからも覚えているような鮮明な夢を見ていない。
足を伸ばして、枕に頭を乗せる。頭上のヘッドギアが下りてくると、機械的な音声ガイドが聞こえてきた。
[今からあなたの精神分析・診断を開始します。目を閉じ、深呼吸をゆっくりと繰り返してください]
ガイドのとおりに目を閉じ、深呼吸をする。程良い暗さと、手触りの良い寝具。数日間で溜まっていた疲労も手伝って、徐々に意識と感覚が遠のいていく。そういえば、こうしてゆっくりと横になるのはいつ振りだろうか……。
[対象の睡眠導入を確認。それでは、おやすみなさい……]
◆ ◆ ◆
「要するに、疲労困憊の人間でテストしたら目を覚まさなくなったって?」
ロランは、休眠ポッドを前に薄ら笑みを浮かべている。その中で眠っているのは、紛れも無いグレイレイヴン指揮官のショウ、その人だった。
ロランに世界芸術協会への出頭命令が下ったのは数分前の事。こういった事は、授格者の管理者を兼ねているショウを介するのが常だった。ある種の異常事態にあからさまな好奇心を顔に浮かべ、胸中に確かな警戒心を隠しながら命令通りに向かえば、そこには深い眠りに就いたショウがいたのだ。
レオニーはキーボードを凄まじい速度で叩きながら、視線も上げずに口を開く。
「目を覚まさなくなったっていうのは正確性に欠けるね。正しくは休眠時間が算出されなかったの」
ショウがテストに入ってから、AIの診断が下されたところまでは順調だった。診断結果から休眠時間が弾き出される筈だったが、レオニーが観測していたモニターには文字化けの羅列だけが現れた。何度やり直しても、結果は変わらない。予想外の事態に、レオニーは即座にVRシステムの緊急シャットダウンを敢行した。しかしそのコマンドは実行されず、そのままショウの意識はVRの中に入ってしまった。こうなってしまっては、強制シャットダウンの行使は使用者の神経系に悪影響を及ぼす。だからと言って、いつ目を覚ますとも分からない状況で静観が出来る訳も無い。レオニーはアシモフとも協議を行い、立案されたのが構造体との意識接続を利用した救助方法だった。
外部からのサポートの下、今のショウと深層リンクを行えば彼女が迷い込んだVR空間に入り込める。そこでショウの意識を見つけ出し、覚醒まで導く。
「まあ、私としてはどっちでも変わらないから、どうでもいいけど。そういう事なら私よりも適任で、やりたがる面子はごまんといるんじゃないかな?」
「適任だけなら確かに、お前の言う通りだ。だが、どいつもこいつもショウを見つけられなかった」
急ピッチで進む作業で返答が難しくなったレオニーから、アシモフが説明を代わった。ロランをこの場に連れてきたのは、アシモフの案だった。
「見つけられなかった?」
「そうだ。『VR空間には入り込めたが、そこにショウの意識はいなかった』 それが、救助作戦に参加した構造体達からの報告だった」
「そもそもの計画が破綻している可能性は?」
「無いとは言い切れない。前例が無いからな。だが、理論上は問題は無い筈だ」
「突貫工事ではあったけど、こっちのサポートも問題無いよ!」
アシモフの言葉にやや被せて、打鍵音に紛れないようレオニーが声を張り上げる。
「ふぅん。私に声が掛かったのは、苦肉の策って事か。随分と後が無いんだね」
「お前は、奴が関わっている構造体達とは立ち位置が違う。その差異は、何かしらの変数になり得る。仮に同じ結果になったとしても、有用なデータが取れる可能性は大いにあるから無駄では無い」
アシモフはショウの眠る休眠ポッドを横目に、ノックをするように軽く叩く。
「お前には、グレイレイヴン指揮官との深層リンクし、意識を探し出して覚醒させてもらう。これは要請では無く命令だ」
「いいよ、元々断れるようなものでも無いだろう?」
「よっしゃ! 対授格者の深層リンク用プロテクトコード完成! 私ってば凄い!」
声を上げて勢いよく諸手を上げたレオニーは、椅子を鳴らして立ち上がるとリンクポッドのカバーを開ける。
「ここから接続すればショウのVR空間に入れる。逐次モニタリングは欠かさないから、問題があればこっちでリンクを切断出来る。あなたはショウの捜索に集中して」
ロランはリンクポッドに乗り込む。カバーが下ろされれば、各種接続が始まる。意識海にアナウンスが響くと同時に、普段の意識接続よりも深く呑まれそうな感覚に襲われる。
「とても真面目で律儀なグレイレイヴンに貸しを作ったら、一体何が返ってくるのか……。楽しみにしていようか」
目を閉じた呟きは、誰の耳にも届かなかった。その内に、ロランの意識は完全な闇に沈んだ。
● ● ●
全身を包む浮遊感が、背中から消えていく。手足から伝わる感覚が完全に戻って来てから、ロランはようやく目を開けた。変わらずリンクポッドの中にいるらしい。片手でカバーを押し開け、ポッドから抜け出す。周囲を見渡すが、辺りに人影は無い程度で深層リンクを始める前と風景が変わらない。しかし接続ステータスは正常で、リンク状況は良好。つまり、既にショウの夢の中に入り込んでいるという事になる。一目では現実と見分けがつかない程度には精巧な夢だった。
「さて、みんなの憧れの人はどんな夢を見ているのかな」
部屋を出たロランはひとまず通路を進む。早速、夢ならではの違和感を見つけた。通路や並んだ扉、窓の外の宇宙の景色など、空間そのもののディティールは現実とほとんど遜色は無かった。しかし大半の扉は開かないか、開いても中は全てが白に染まり、床も壁も天井も無かった。覗き込んでも白く塗りつぶされた空間があるだけで何も見えない。精巧に見える廊下も、ある程度まで進むと急に寝惚けたように輪郭が揺らぎ始める。そこから先に進もうとしても、不思議と足が空回ってしまう。
「人間は日中の記憶を夢で整理する……。ああ、今回はVRか。でも似たようなものだろう。つまり、彼女が進んだ事の無い道や入った事の無い部屋には夢の中でも進めないし、入れないって事かな」
ロランは比較的はっきりとした通路を選んでいく。足を進めながら、この先にあるであろう部屋に目星を付けていた。部屋の配置も完璧ならば、その部屋は間違いなく存在している。
ロランは描写が確かな廊下を選んで進んでいく。数ある扉を通り過ぎていき、やがて一つの扉の前で足を止めた。そこは、グレイレイヴン小隊に割り当てられた控え室だった。長年使用してきたからだろう、扉の質感も横に付いた端末までも、その精巧さは今までに見てきた物とは比べ物にならない。
端末に触れれば、小さな音を立てて扉が開く。ロランの想定通り、控え室はまるで現実のような再現度だった。人の気配が全く無い事以外は、実際のものとなんら変わらない。
「確かに、指揮官の姿は無いね。どこに隠れているんだろう?」
ロランは躊躇わず踏み入ると、室内には目もくれず進む。もう一度足を止めたのは、ショウがいつも使っているデスクを目の前にした時だった。デスクの上には積み上がった書類と、備え付けの情報端末と、吸い殻が山のように聳える灰皿がある。しかし、言ってしまえば目につくのはそれだけだ。ショウの姿はどこにも無い。
「とても丁寧で、整ってるね。まるで本人の気質のようだ。でも……、面白くないな」
ロランは徐にデスクに付いた椅子に座る。長い間、同じ人間が座り続けた座面はロランには据わりの悪いものだった。背凭れに体重を掛け、足を組み、爪先で床を弾いてくるくると回る。
「さあ、考えるんだロラン。品行方正で謹厳実直で、極めてつまらない人間が、最も面白くなるタイミングって何だろう?」
そうして何度か回った後、両足で椅子を止めた。立ち上がり見下ろすのは、正に仕事の最中といった様子の机上だ。
「簡単な事だ。その仮面が剥がされた時だよ」
ロランは片足をデスクの縁に掛けると、そのまま力を込めて蹴り飛ばした。デスクは倒れて跳ね、積み上がっていた書類は空中に舞い上がる。もう一度デスクを蹴り飛ばす。ここまで派手に荒らしているというのに、何の音もしなかった。ロランは構わずに、どんどん部屋を滅茶苦茶にしていく。音も無く崩されていく部屋には、徐々にノイズが走り始めた。
「さて、英雄の仮面の下には、どんな顔が隠れているんだろうね?」
視界の全てがノイズに覆われる。倒れたデスクも、散らばった書類も姿を消した。ロランは口元に笑みを浮かべて、その様子を見守った。
徐々にノイズが止んでいく。やがて、その下から現れたのは、とある洋室だった。ロランは首を巡らせて室内を観察する。足元には先程蹴飛ばしたデスクは無くなっていた。それどころか、家具と言えるような物は何も置かれていなかい。寄木のような凝ったデザインのフローリングに、毛足の長い絨毯が敷かれている。落ち着いた赤い意匠の壁は、高級感と年季を感じさせた。
「随分と立派な屋敷だね。この感じからして、黄金時代の代物かな」
背丈よりも大きな窓から外は見えず、鍵を開ける事も出来ない。窓と反対側にある重厚な扉は、金メッキのドアノブを回せば簡単に開いた。
廊下に出れば、照明も何も無い筈の空間は仄明るく、視界を保っていた。ロランは軽く探索をしてみたが、先程まで見えていた空中庭園と構造は同じらしい。ただ、開かなかった部屋があった場所には絵画が飾られ、進めなかった通路は行き止まりになっている。
「さっきと構造が変わらないのなら、目指すべきは一か所だけだよね」
ロランは迷う事無く足を進める。長い廊下には、何の気配も無い。ただ、ロランの足音が響くだけだった。
最初よりもずっと短い時間で辿り着いたのは、大きな両開き扉の部屋だった。空中庭園の地図で言うなら、世界芸術協会の一室。つまり、ロランがショウの夢に入り込んだ探索の開始地点だ。扉のレバーハンドルを軽く引く。鍵は掛かっていないようで、そのまま力を込めれば蝶番が軋みながら扉が開いた。僅かに開いた隙間から素早く視線を巡らせる。それから滑り込むように中に入り、後ろ手に扉を閉める。扉から受けた印象のままに、中はとても広い。雰囲気や意匠は最初に見たものと印象は変わらない。あって然るべきの調度品の類も存在しない。唯一あるのは部屋の中央、天蓋の下りた一際大きな寝台だけであった。丁度、ショウが眠っていた休眠ポッドがあった場所だ。ロランは、足音を殺して寝台に近寄った。天蓋が下りているとはいえ、紗のように繊細なそれは中の様子が透けて見えた。人影が丸まっているようだ。その人物に見当は付いていたが、ロランは敢えて天蓋に手を掛ける。
開かれた天蓋の中。そこには、一人の少女がシーツを被って眠っていた。白いレースのワンピースを着ている。緩い癖のついた黒髪は、丸まった少女の背を覆ってなお余りがある。大きく柔らかな寝台に沈み込んだ小さな体は、身動ぎの一つもしていない。寝息は耳を澄ましても聞こえないが、規則的に上下する肩が少女はビスクドールでは無いと証明していた。
見知った姿よりかなり幼いが、目が閉じていてもその横顔には確かに見覚えのある面影が宿っている。この少女こそが、この夢の主であるグレイレイヴン指揮官のショウで間違い無かった。
ロランはここまで来た目的を果たそうと、幼いショウに手を伸ばす。しかし、その手は肩を触る前に動きを止めた。
ロランの視線は、彼女の目元に向けられていた。丸く白い肌に不釣り合いな、濃い隈が浮かんでいる。普段のショウにもある、よく見慣れたものだ。ロランは暫く、宙で止めたままの手を持て余していた。そしてその内に手を返し、指の背でショウの目元を軽く撫ぜた。
「……あーあ。こんな無防備に眠り込んじゃって」
ロランは静かに天蓋を再び下ろした。床に座り込むと、そのまま寝台に背を預けて目を閉じる。
● ● ●
何かが聞こえた気がする。遠くから聞こえるそれは、水の中のようにくぐもって良く分からなかった。浮いているように体中がそわそわする。落ち着かない感覚に包まれているとその内に、背中から何かに降りたようだった。
身動ぎをすれば、柔らかい布が手に触れた。あまりの気怠さに、重い瞼の奥が少し痛んだ。それでも意識はどんどんはっきりしてくる。
「ん、んぅ……」
どうにかして起きたくて声を出してみると、声なのか怪しい掠れた音が喉から捻り出された。狭い場所にいるのか、声はそこまで響かなかった。重い瞼で少しずつ瞬きを繰り返して、漸く目を開けることが出来た。ぼやけて見えたのは、知らない天井だった。両手をついて起き上がれば、肩から真っ白なシーツが落ちた。手の平で目を擦って周りを見てみる。どうやら今まで、大きなベッドで眠っていたらしい。ベッドの周りは、外が薄っすら透けて見える真っ白な何枚かの布に囲まれていた。まるでお伽話のお姫様が使っているベッドだ。布の合わせ目から外を覗けそうだった。広いベッドを膝立ちで動く。よく利くスプリングに揺られながら布に手を掛けて、そっと開いてみた。少し眩む視界で、金と赤の色違いと目が合った。
「ひっ」
人がいた。びっくりして尻もちをついた拍子に、布から手を放してしまう。再び布で閉じたベッドの上で胸を押さえると、心臓が跳ねているのを手の平で感じた。
「Hola. 小さなお嬢さん。ご機嫌は如何かな?」
外から声を掛けられた。男の人だ。絵本を読み聞かせているような声だと思った。あの人は誰だろう、ずっとここにいたのだろうか。ずっとここにいたのだとしたら、私が起きるまで待っていたのだろうか。
もう一度、外を覗いてみる。今度は布を手放してしまわないように、両手でしっかりと握り締める。色違いの瞳は、さっきと変わらず私を見ていた。普通とは違う色をした左目が少し怖くて、そっちは見ないようにした。
「お、おにいちゃん、だれ……?」
「名乗る程の者でもないよ。ここに紛れ込んだだけの、ただの道化さ」
男の人はそう言うと、ミュージカルの役者のように頭を下げた。動きに合わせて、結ばれた長い銀色の髪がさらりと揺れる。
「……ピエロさん?」
「ふふ、ああ、それでいいよ」
私の言葉に、ピエロさんは頭を上げると小さく笑った。
「随分眠っていたみたいだけど、満足したかな?」
そう聞かれると、瞬きを返してしまう。そんなに寝ていたのだろうか。でも寝足りない時の瞼の重さは無いし、会話をしたから頭もすっきりしている。という事は満足はしたのだろう。小さく頷いて返事をする。
「ここはどこ?」
「ここは、あんたの夢の中さ」
「でもわたし、おきてるよ」
「夢から覚めた先も夢だった、なんて話は定番だよね。何も珍しくない」
いまいち状況が理解出来ずに首を傾げる私に、ピエロさんは天気の話をするように軽い調子で返してくる。
「今の状況を正しく把握するのは、今はどうでもいい事だよ。重要なのは、ここがあんたの夢で、あんたは今起きているって事」
「そうだと、なにがあるの?」
「この世界は、あんたの思い通りになるって事さ」
どうにも納得出来なくて眉間に力が篭る私を見て、ピエロさんは小さく笑った。
「難しく考える事は何も無いよ。折角の機会なんだ、外を散歩してみたら?」
「おきなくていいの?」
私の言葉に、今度はピエロさんが瞬きを返してくる。と思えば、難しい顔で腕を組んで、私の目の前をゆっくりと行ったり来たりし始めた。何かを探すように、指先でこめかみを軽く叩いている。
「……実のところ、まだ分かってないんだ。どうやってこの夢から覚めればいいのか」
「えっ」
ピエロさんからの思わぬ言葉に声が飛び出てしまう。
「来るまでに使った道が無くなっていてね。どうしようか悩んでいたところに、あんたを見つけたって訳さ」
夢からの覚め方が分からない? だって私はもう起きているのだ。起きているのに、どうやって更に起きればいいのだろう。
混乱する私を見て、ピエロさんは一歩だけ距離を詰めてきた。
「ここから出る手段を探すって意味でも、探索してみる価値はあると思うよ」
それから腰を曲げて、下からそっと手の平を差し出してくる。私の答えを待っているのだろうか、そこからぴくりとも動かない。
正直なところ、私は起きてから今までずっと、混乱しっぱなしだった。今更な話ではあるが、この人を本当に信用しても良いのだろうか。だって本当の名前すら知らない。知らない人についていってはいけないのは、耳に胼胝が出来るくらい言い聞かされ続けた事だ。誰だって知ってる。知ってるが、それでも、とも思ってしまう気持ちもある。どうしてかは分からないが、一目見た時から悪い人では無いと思った。
どちらにせよ、ここでじっとしていても夢から覚める事は出来ない。だったら、この手を取ってみても良いのかもしれない。だってここは夢なのだ。普段ならしない事をしたって誰からも叱られない。
差し出された手に、私はそっと自分の手を乗せた。
◆ ◆ ◆
ピエロさんの手を取ってベッドから降り、大きな部屋から出た。廊下には大きな甲冑や、鮮やかな絵画や、よく分からない凄そうな壺がたくさん飾られていた。それらを見上げていると、何だかお腹の底がそわそわとして落ち着かない。先を歩く影を踏みながら、目の前で揺れる固い上着を少しだけ握り締めた。
それから、豪華な廊下を数十分歩いている。先が見えない程に真っ直ぐ伸びた廊下には、外が見える窓も入れそうな扉も見当たらない。ただひたすら、甲冑と絵画と壺が並んでいるだけだ。夢の中だからなのか疲れは感じないが、変り映えの無い景色に退屈になってきた。足下を奥から手前に流れていく床の木目を眺めていると、上から声が降ってきた。
「お嬢さん、ここに見覚えはあるのかな」
「え? あ、えと、ないかも。たぶん」
質問に慌てて周りを見渡す。改めて見ても、豪華な廊下だと思う。逆に言えば、それだけだ。こういった場所に訪れた記憶も無いし、見た事も……。
「……?」
「どうかしたのかな」
脳裏に、何かの光景がうっすらと過った気がした。もしかして、私はここを見た覚えがあるのだろうか? でもどこで? ここに来た事が無いのは本当だと思う。だって今の今まで歩き続けてても、何も思わなかった。だとしたら、この不思議な感覚は一体……。
足を止めて、目の前の風景をじっと見つめる。針に糸を通そうとして通らないような、もどかしい感覚に思わず眉間に力が入る。いつの間にか、ピエロさんの上着から手を放していた。
「ん~……!」
霧の向こうにあるような、ぼやけた答えに呻き声が出る。何とかその輪郭だけでも掴みたくて、甲冑やら壺やらに近付いて観察する。こうなってしまえば、ずっと感じていた恐ろしさなんて関係無い。
来た事は無い、でも見覚えはある。それなら、何で見たのだろう? 見るとしたら、映像か、写真か、絵か――。
「――あ!!」
思い出した。まるで雷に打たれたような、とても激しい閃きだった。頭の中に立ち込めていたものは全て晴れて、とても清々しい気分だ。達成感まである。
「何か分かったのかな?」
ピエロさんは膝をついて、横から私を覗き込んで来た。考え事に夢中になりすぎて、今まで一緒に歩いていたのにすっかり存在を忘れていた。何だか恥ずかしいところを見られた気がする。ちりちりと、体温が上がっていく。
「え、えほんで、みたことある……」
「絵本?」
「おんなのこが、ぼうけんするえほん。その、いちばんさいしょにでてくる、おやしきににてるかも……」
火が出そうな程に熱くなった頬を、両手で押さえながら頷く。
昔、そんな話を読んでもらった事があった。その絵本の挿絵と、この廊下がよく似ているのだ。挿絵はクレヨンで大雑把に描いたような絵柄だったので、目の前の光景と結びつくのに手間取ってしまった。
ピエロさんは、考え込むように口元を手で隠して目を伏せる。
「その絵本、どんな内容だったか覚えてるかな」
ピエロさんにそう聞かれて、思い出そうとして目を閉じてみる。だけど、記憶にあるのはいくつかの挿絵だけだった。いくら考えても、肝心の内容が思い出せない。その絵本が、ようやく見つけた手掛かりかもしれないのに。夢から覚めるチャンスを逃してしまったような、情けない気持ちになる。私は俯いて、首を振って答える。
「おそとには、でられてたとおもう。ほかはわかんない。……ごめんなさい」
「謝る事は無いよ。それだけ分かれば十分さ」
床と足元だけが見える視界に、ピエロさんの両手が差し込まれた。両手は手首を捻って、手の平と手の甲を何度も見せてくる。目立ったものは何も無い。それから静かに二つの手の平だけを合わせて、そのまま円を描くようにごしごしと擦っている。合わせた手は、何かが手の内に入っているかのように少しずつ膨らんでいく。そうして、それを両手で摘まんで引き伸ばすと、そこには綺麗なレースのリボンがあった。驚いて思わず顔も声も上がってしまった。
「わあ……!」
「大切な事を教えてくれたお嬢さんに、ピエロからのささやかなプレゼントを。どこかに結ぼうか?」
あまりに興奮して、今度は声が喉に突っかかってしまう。それでも私は髪を結んでほしくて、後ろを向いてみる。ピエロさんは、そっと手櫛で整えてくれる。
「ここはあんたの夢で、あんたの知ってる物語になってる。だけど、話の顛末をあんたは忘れてしまった。この無限回廊の仕組みは、そこにあるのかもしれない」
「わたしがおもいだせないと、ずっとこのままってこと……?」
「もっと単純な話さ。忘れてしまったのなら、新しく作ってしまえばいい」
髪がまとめられていく感覚がある。予想外の展開に、心臓がどきどきと鳴っている。
「ここではあんたが中心だ。あんたが考えた通りに世界は動く」
「だったらどうして、いままでそとにでられなかったの?」
「あんたがここに閉じ込められている事と外に出る事に、何の繋がりも無かったからさ。そこを繋ぐ脚本を考えないとね。どうせだったら、愉快なものにしたいところだけど」
とうとうリボンが結ばれた。長い後ろ髪はそのままに、顔の横に掛かっていた髪を頭の半分くらいの高さで一つに結ばれたらしかった。そっと手を当ててみると、レースのリボンはまるで花が咲いたように結ばれている。
「これで主人公に相応しくなったね。それじゃあ、ここから出る為の筋書きを練ってみようか」
「ピエロさん、おはなしをつくれるの?」
「こう見えて、アドリブには強いんだ。楽しみにしててよ」
ピエロさんは立ち上がると、腕を組んでうろうろと動き回る。少しわざとらしく見える仕草を、私はわくわくと弾む気持ちで見守った。
そのうち、ピエロさんは足を止めた。
「できた?」
「うん、そうだね。こんな話はどうかな」
――遠い遠い、とある所。大きなお屋敷に、元気な女の子が暮らしていました。女の子はとても元気なので、外に飛び出して遊びたいといつも思っています。しかし彼女には、やらなければいけないお勉強やお稽古が山のようにありました。それらはこなしてもこなしても、全く無くなってくれません。女の子はとても憂鬱でした。
「ゆううつってなに?」
「やりたい事が出来なくて、気分が暗くなって、頭も体も重くなってしまうんだ」
「おんなのこ、かわいそう」
「そうだね。続きを話そうか」
――憂鬱になっていた女の子。そんな彼女の元に、小さなピエロの人形がやって来ました。人形は言います。『そんな暗い顔をしてどうしたんだい? 気分転換に外に行こう!』 女の子は暗い顔で首を振ります。『出来ないよ。お勉強もお稽古も、まだまだたくさんあるの』 そんな女の子なんてお構いなしに、人形は彼女をせっつきます。『お勉強もお稽古も、やりたい時にやればいいのさ! キミの気持ちが一番大事なんだから!』
がたんっと大きな物音が近くから聞こえた。肩が跳ねながら周りを見回しても、何もいない。でも、どうしてか、廊下に飾られたたくさんの甲冑や絵画から、睨まれているような気がする。
――そうして部屋の外に出た女の子。廊下には、女の子の勉強道具を抱えた召使いやメイド達がたくさんいます。召使い達は言います。『いけません。お勉強もお稽古も、こんなにあるのですよ。遊ぶ時間なんてありません』
また物音が聞こえた。しかも、今度は甲冑が揺れたところを見てしまった。見られた事に甲冑も気付いたのか、今度は隠すつもりも無くがたがたと揺れ始めた。もう話を聞けるような状況じゃない。私はピエロさんの足にしがみつく。それなのに、ピエロさんは構わずに話し続ける。
――人形をしっかりと抱き締めた女の子は、怖い気持ちでも精一杯の大きな声で言いました。
今度こそ、甲冑が動き出した。壁に下げられた絵画も、大きく跳ねて床に落ちたと思えばずりずりと這い寄ってくる。甲冑はぎこちなく、がちゃがちゃと音を立て、こちらに手を伸ばす。私の足は根っこが生えたように動かない。それなのに、ピエロさんは動かない。絵画は表面をがりがりと引き摺りながら、距離を詰めてくる。それでも、ピエロさんは動かない。見上げた顔は、にっこりと私を見ていた。もしかして、話の続きを私に任せているのだろうか? でも無理だ。そんなの分からないし、そんな事を考えられる余裕はとっくに無くなっている。
視界はぐるぐると回って、口の中はからからだ。がちゃがちゃ、がりがり、迫る音で目の前が暗くなる。
私の精神は、もう限界だった。
「ヤダーーーー!!」
途端、足が動いた。そのまま思い切り廊下を駆け出す。どっちが前か後ろかなんて関係無い。とにかくこの場から逃げ出したかった。後ろからの追っ手を引き離し、横から伸ばされる手も、捕まる前にどんどん通り過ぎていく。呼吸が出来てるのかよく分からないままに、碌に前も見ないで走り続ける。だからだろうか、周りの景色が変わっていた事に全く気付けなかった。
止まる事を忘れた足に、何かが絡んだ。
「ぶぇっ」
勢いもそのままに、前転のようにごろごろと転がった。世界がぐるぐると回る。どれだけ転がったのだろう。そのうちに、仰向けになって止まれた。さっきとは違う意味で目が回る。胸が苦しくて肩で息をした。体の芯から熱が上がってる。
湿った緑と土の匂いがする。見上げた先には、高い枝葉と青空が見えた。
「……そとだ」
「お見事! 感情の乗った良い台詞だったよ」
視界の外から、ピエロさんが顔を覗かせた。さっき見たのと同じ、にっこりとした笑顔だった。口を開こうとしたら、まだ整い切ってない息が喉で詰まって咳込んでしまう。
「ゆっくりでいいよ。追っ手はいないし、周りに気配も無い。物語にも、緩急は必要だからね」
目を閉じて、上がった息を少しずつ落ち着かせていく。深呼吸が出来るくらいになってから、改めて口を開いた。
「おわれるひつよう、あった?」
「物語の始まりは分かりやすい方が良い。けど、その様子だとお気に召さなかったかな?」
お気に召さなかった、なんてものじゃない。本当に怖かったのだ。もしも、途中で捕まっていたらと考えたら、今でも背筋が震えて、目の前が潤んでしまう。
体だけを起こして、目を開ける。相変わらず口だけ笑っている、ピエロさんをじっと見た。
「ピエロさんは、わるいひとじゃないけど、いじわるなんだね」
「……おっと、これは想定外だな。次からは気を付けるよ、だから機嫌を直してくれるかい?」
「かんがえとく、よ」
立ち上がって、洋服に付いた草や土埃を軽くはたく。髪もはたこうとして、リボンの事を思い出した。髪型を崩したくなくてピエロさんに頼めば、手早く丁寧に整い直してくれた。
(沈黙している時は考えてるかTwitterしてます)