……勢い良く持ち上げられる感覚が無くなって、周りから聞こえていた耳に痛い金属の音もしなくなった。感じるのはピエロさんの体温と、ふわふわとした不安定な感覚だけ。それでも目を開けずに手元の感触を放さないでいると、ピエロさんが私の肩を軽く叩いた。
「もう大丈夫。怖いのはいなくなったよ」
ピエロさんの言葉に、恐る恐る瞼を開けてみる。滲んだ視界が少しずつはっきりとしてきて、ようやく周りの事が見えた。
見渡す限りの黒だった。そこに絵に描いたようなカラフルなお星さまがたくさん浮いていて、ゆっくりと流れている。お星さまに囲まれて、私達もふわふわと浮いていた。さっきから感じていた不安定さはこのせいだったのかもしれない。
そうしてようやく、あの不気味な空気から逃げられた事を実感した。私は任された事を、ちゃんとやり遂げられた。そう思ったら胸の中でずっと張り詰めていた何かが、音を立てて切れてしまった。鼻の奥がつん、としたと思ったら目の前が滲んで、あっという間にぼろぼろと零れ落ちてしまう。ピエロさんは片腕で抱えていた私を体の正面に抱え直すと、背中をさすってくれた。
「こ、こわかったぁ……」
「あんたの素晴らしい機転と勇気に拍手を送らせてもらうよ」
ピエロさんの肩に額を当てて、両腕を使って思いっきりしがみつく。私の気が済むまで放してやらない事にした。それくらいしたって許されるくらい頑張ったのだ。
ピエロさんは私を抱えたまま、ソファでくつろいでいるような姿勢で浮かんでいた。押し付けていた頭を少し上げて、肩越しに辺りを見てみる。相変わらずお星さまはゆったりと流れている。傍を通りかかったお星さまに手を伸ばしてみる。さらさらと手触りが良くて、握るとしっかりとしているけど柔らかさもあった。綿がぎっしりと詰まったクッションみたいだ。
「興味があるなら降りてみてもいいけど?」
「やだ」
「……だろうね」
あの怖い機械達からは逃げられたけど、まだ夢から抜け出せてない。まだ冒険を続けなきゃいけない。そう分かっているのに、温かい温度に抱えられた安心感と疲れで、瞼が重くなってきた。眠気で目の前が霞んでくる。
「我慢してないで、眠ったっていいよ? ここは安全だからね」
「ん……、でも……」
「あんたの物語は、たくさんの人々に待ち望まれて、まだまだ終わらない。だったら、眠れる時に眠らないとね」
ピエロさんは私の背中を緩くたたく。たたかれる度に、どんどん眠気が強くなってくるようだった。そのうち瞼も開けられなくなってしまった。ぼやけ始めた頭で、どうにか口を開く。
「ぴえろさん」
「ん?」
「おきても、いてね……」
「っふふ。ああ、仰せのままに。buenas noches. 良い夢を」
ピエロさんの言葉に体の力が抜けた。私はやってきていた眠気に、そのまま体を預けた。
◆ ◆ ◆
抱え上げた小さな体から、静かな寝息が聞こえてきた。首に回されていた腕からみるみる内に力が抜けて、やがてするりと落ちた。どうやら本当に眠ったらしい。
「さてと……、この夢物語もそろそろ終幕かな」
ぬいぐるみの夜空がノイズで覆われる。体を包んでいた浮遊感も無くなり、落とさないように横抱きに抱え直す。不明瞭な世界が晴れるのを待つ。徐々にノイズが収まっていく。現れたのは、ショウを見つけたあの屋敷の部屋だった。変わらず部屋の中心には、天蓋の付いた寝台が置かれている。上体を揺らさないよう、静かに寝台へ近付く。天蓋を肩で開けて、抱えたものを慎重にシーツに横たわらせる。
「物語の結末を語ろうか。少女は、最後に我が家に帰ってくるんだ。たまの息抜きをしたかっただけで、世界に嫌気が差した訳じゃないからね。たくさん遊んで、疲れて、それから慣れ親しんだベッドで眠りに就く。それが、この物語の結末」
一連の動作を終わらせても、一向に目を覚ます気配は無い。随分と深く眠っているようだった。この分なら問題無く”目覚める”だろう。
休眠ポッドは人間の疲労を改善する物だと聞いた。肉体の回復に夢は必要不可欠では無い。だったら、何故夢を見せる必要があるのだろう? 答えは簡単。夢は精神を充足させるものだからだ。肉体の疲労は休息である程度取れる。しかし、それでは擦り減った精神を回復させるには足りない。肉体が正常でも精神が疲弊しているのならそれは健全とは言えないし、その逆も然り。精神の回復とは、充足を覚える事だ。だから休眠ポッドは使用者の望む夢を見せて、充足感を覚えさせる。だが、それがどの程度で事足りるのかは個人に寄るところが多い。今回の件はそこが起因していたのだろう。
現実のショウは、日々の雑務に追われた極度のストレス状態にあった。それでいながら、幼いショウは現在よりもずっと大人しく、引っ込み思案なように見えた。これでは自然に目覚めるまで、猿が戯曲を書き上げる時間があったって足りない。だから私は、物語を早送りにする事を選んだ。強制的にページを捲ってしまえば、どんな舞台だって駆け足で結末まで向かう事を余儀なくされる。その選択がAIには不服だったようだが。
きっと、この短い夢物語では全快には程遠いだろう。だが、疲れて寝落ちする程度の満足感なら、ひとまずの目覚めには十分な筈だ。
「幼気な夢現の幕間はここまで。ここからは血と錆が現実の本編が再開するよ。……これじゃあ、どっちが悪い夢か分からないね」
世界が白んでぼやけ始めた。予想通り、ショウの覚醒が近いのらしい。私の仕事は果たした。後はあの科学者や技師がどうにかするだろう。ここから先は私が知った事では無い。
世界が完全に輪郭を無くす前。最後に、静かに眠る幼い顔を見る。初めに見た隈は、いつの間にか無くなっていた。
「あんたは悪い夢の中で、素敵なものを見つけられるのかな?」