空中庭園、グレイレイヴンの控え室。空中庭園の天候システムは随分と前に夜の時間帯に入っていたが、部屋の照明は相変わらず点いたままだった。湯気を立てていたマグカップの漆黒は適温を大きく下回って久しく、飾り気の無いデスクには一向に無くなる気配を見せないファイルや書類の山脈があった。朝からずっとキーボードを叩き続け書類仕事と格闘しているが、傍らに置いた灰皿の中身が高くなっていくだけだった。
時報が休憩時間を知らせる。時計を一瞥してから、取り掛かっている最中の報告書を改めて遠目に眺める。進捗は、あと三分の一程度といったところだろうか。少し時間は押してしまうが、これだけでも終わらせてしまった方が切りが良い。気合いを入れ直そうと、とっくに冷めたマグカップに手を伸ばす。
「おや、ここの時計は他より早く動いてるのかな」
突然の声に動きが止まる。顔を上げると、いつの間にか備え付けのソファにロランが座っていた。足を組んで悠々と座っている彼は、私を見て薄っすらと笑っている。
「あとちょっとなの。これをやったらちゃんと休むから」
「またアレの機能テストに付き合うつもりなのだとしたら、確かに過ぎた事を言ったね」
ロランの言葉に図星を突かれる。それから大きく溜息を吐いて、伸ばしかけていた手を引く。
ロランが言った「アレ」とは、私が数日前にテストを手伝った人間用休眠ポッドの事だ。なんでも前回は休眠ポッドに搭載された医療用AIが誤作動を起こして、疑似的な昏睡状態に陥っていたらしい。中々の騒ぎになったようで、目覚めた時にはスターオブライフの医師達に囲まれていて心底驚いた。ちなみにテストの結果は「疲労困憊の人間に使用する場合は、あらかじめ別途の休養を入れる必要がある」という事で落ち着いたらしい。
私の救助作戦には様々な構造体が手を貸してくれていた。教えてもらった参加者のリストにロランの名前もあったのだが、それが私としては少し意外に思えた。こういった事は外から眺めて、進んで関与するような人柄では無い、というのが私のロランに対する認識だ。大方、アシモフ君辺りが要請したのだろう。
コーヒーでの目覚ましを諦め灰皿に目を向けるが、吸い殻が積まれているだけだった。懐から取り出した柔らかい紙の箱を軽く振って、飛び出した煙草を口で引き抜く。ライターで火を点けると、直ぐに紫煙が昇り始める。大きく吸いこんで、溜め息ついでに煙を吐き出す。そうして、ロランが私の事をじっと見ていた事にようやく気が付いた。
「なに?」
「暗闇と孤独を恐れていた幼気な少女が、歴戦の指揮官になる……。定番の展開だと思ってね」
休眠ポッドで眠っている間。夢の中で私は、幼い少女になっていた。今思うと、随分と他人事な感覚だったと思う。自分の中から両目を通して外を眺めているような、そこにはいるのにその場にはいないような、不思議な感覚だった。その所為か、起きた時点で既に記憶はあやふやになっていたし、時間が経った今となっては詳細を思い出す事も出来ない。
それでも、怖がりな少女の小さくて大胆な冒険は覚えている。戸惑う少女の傍に少し不思議で優しい道化がいた事も、しっかりと覚えている。
小さく笑ってから、煙草を咥えて燻りを明るくする。
「その点で言うなら、泣く子も黙る昇格者が子供の扱いに慣れてるっていうのも、定番のギャップじゃない?」
「そう見えたのなら役者冥利に尽きるよ。望まれた役を演じきれたわけだからね」
「またそんな事言って――」
僅かに顔を顰めた私の言葉を遮るようにロランは立ち上がる。
「ほら、こんな時間まで私なんかと話し込んで良いのかい? 栄えある首席指揮官殿の時間は貴重なんだろう?」
渋々時間を確認すると、確かに随分夜も更けていた。ひとまず手付かずの書類を片付ける。積み上がった書類達を不用意に崩さないよう、慎重に取り掛かる。その最中に、ロランは思い出したように口を開いた。
「ああ、でも、一つ心残りがあったな」
ロランの言葉を顔を向けないまま促す。
「心残り?」
「終ぞ、観客を笑顔に出来なかったからね。役を演じきれても、道化としては三流もいいところだったよ」
書類の片付けをあらかた済ませ、端末の電源も落とす。すると、甘い匂いが鼻先を掠めた。匂いの元を探すと、飲みかけのコーヒーが入っていた筈のマグカップだ。いつの間に淹れたのだろうか。湯気の立つそれは、ホットミルクが注ぎ足されたカフェラテだった。部屋を見渡したが、まるで最初からいなかったように、仕掛人の存在は跡形も無くなっていた。
マグカップを持ち上げ、鼻に近付ける。随分と甘く仕立てられているらしい。香りだけでも張り詰めていた神経が緩む気がする。小さく口をつければ、予想を裏切らずとても甘い。まるで小さい子供に向けて作ったような、柔らかい甘さだった。もう一口飲んで、ほう、と息を吐く。
ロランの心残りは全くの杞憂だ。何故なら、少女は今までにないくらいピエロさんの語る冒険に心を躍らせ、心を許していたのだから。ただ、彼女は表情が硬いだけだったのだ。
「全くもう」
温まる胸に思わず笑みが零れる。この分なら、間違いなく良く眠れるだろう。
ゆっくりと飲み干してから、デスクから立ち上がる。鼻歌交じりの足取りで照明を消し、控え室を後にした。
こんな夜も、たまには悪くない。