窓を覆うカーテンの隙間から、薄明りが入り込んでくる。隙間なく締めたはずの布地を押しのけ入り込むそれが、音もなく夜明けの訪れを告げていた。心地よい季節ああっという間に過ぎ去り、気づけば眼前に迫ってきていた容赦のないこの季節。照り付ける日差しは長く、蒸し暑い夜は極短い。それでも日差しがない分まだ人心地つく夜という安寧の時間が終わりを迎えていくのを、リチャードは一人静かに眺めていた。
時刻は夜明け4時過ぎ。朝と呼ぶには早すぎる時間、にもかかわらずさも朝が来たとばかりの顔をして室内に入り込もうとするその薄明りが、しかしいつものように刺すような強さを持っていないことに気づいたのと耳が音を拾ったのは同時だった。
コツ、か。カツ、か。はたまたパタパタパタ、か。
いずれにせよ、いつも通りの朝であれば聞こえない音が窓越しに聞こえてきた。薄明かり差し込む部屋の中、最初はただの音であったそれは、一息の間に間延びした音へと変化する。やがて不規則で歪な音楽となり、不協和音を奏でながらリチャードの耳に流れ込む。
――雨か。
そう、雨。窓の外。薄明りと共に、雨が降り始めていた。
どこか硬質な音が混ざるのは、雨粒の落ちる先が原因だ。それは、今リチャードが身を置くこの安宿の屋根や隣接する民家の屋根。そして叩かれる屋根がこれまた安い素材だからである。
途切れることなく響く音は、軽やかな音ではない。良く言えば軽妙で、悪く言えば耳障りな音だ。まるで音楽になんの造形もない素人が、ただ興味の赴くまま何の気配りもなくめちゃくちゃに楽器をかき鳴らすような、どこまでも無遠慮で不躾な音。
恐れ知らずの名のもとに愛することをも恐れなかった彼は、生前より地続きのままに音楽を愛している。その彼としては、この不躾で不作法で、何のまとまりもなく好き勝手奏でる(奏でるとは言えない音の羅列であるが)音もそれで面白く、好ましくはある。が。
薄明りがその明るさを強くするよりも早く音を強くする雨音に、リチャードは知らずその整った眉を寄せた。
――起きてしまうだろう。
そっと、隣の存在に目をやった。
薄明かりが入り込んできているとはいえ、まだ室内は圧倒的に暗さが勝る。暗闇に紛れるようにして薄掛けの下に潜っているその存在は、ピクリとも動かない。しかしわずかに上下する布地が、自身の包む存在が穏やかな眠りの中にあることを彼に伝えていた。リチャードはその様子をみやり、ふっと息を落とす。どこか安心したようなその息は、先程から響き続ける不躾で不作法な音に掻き消され消えていく。穏やかに、健やかに。一定のリズムで上下する布地の正体は、彼の同伴者だ。
「・・・アヤカ」
ごくごく小さな声で、リチャードは眠る同伴者の、アヤカの名を呼ぶ。雨音にすら掻き消されかねない程の大きさの声では、当たり前だが彼女は目覚めない。目覚めないし、リチャード自身彼女を目覚めさせることは別に目的としていなかった。ただ、なんとなく。その音を舌に乗せたかっただけだ。何故かはわからない。ただただ、無性に――呼びたくなった。それだけだ。
起きる気配のないアヤカを包む薄掛けに、リチャードは静かに手を伸ばした。横を向いて眠っている彼女の肩のラインを、触れないままに指先で辿る。彼女を包む薄掛けと、彼女の肩のラインを辿る彼の指先の間にはごくわずかな距離がある。きっと一ミリにも満たないその距離は、しかし明確な距離としてそこにあった、
カツン、カツカツカツ。
コツ、コツコツコツコツ。
パタパタパタパタ。
安く薄い屋根を叩く硬質な雨音が、絶えず響く。やがて薄闇がわずかに明るさを増してきた頃、雨脚はますます強さを増し大きな音を響かせ始めた。硬質な音を含んだ無遠慮で不躾な不協和音から、ザアアアという一繋がりの大きなつまらない雑音へ。せっかく緩んでいた眉根を再び寄せたリチャードは、アヤカの肩を辿る指を退けようとし――ふと、あるものに気づいて手を止めた。
安宿の薄いマットレスと薄掛けの隙間。そこから伸びる一筋の光が、彼の目を縫い留める。それは、不協和音からつまらぬ雑音となった雨音と共に室内に入り込む薄明かりが、控えめに照らし出していた。薄掛けの下からまるで外に向け手を伸ばすようにしてこぼれ出るそれは、薄明りに照らされ、しかしそれ以上の光を宿すひと房の金の糸。なだらかな曲線を描くそれに無意識のうちに手を伸ばし、リチャードはそっと掬い上げた。
細く、軽く、柔らかく。
触れているのかも分からない、けれども確かな存在感を持ってそこに存在しているその金の糸は、リチャードの動きに合わせて実に素直に動いて見せる。しばらく指先で遊んだ後、起こしていた上体を曲げてリチャードはそっとそれに唇を寄せた。やはり、いまいち感触は分からない。しかし唇を寄せた拍子、ふわりと立ち昇るのは知った香り。それは、いま彼が唇を寄せている金糸が確かにアヤカの髪であることをリチャードに伝えていた。
香るのは甘く、鼻に付くにおいとでも言うのか。
甘い匂いは安っぽく、それは安宿に備え付けられていた洗髪材の匂いだ。夜を迎える前に身を清めた際にリチャードも使ったから、今は彼もその安っぽい甘い匂いを纏っている。嗅ぎなれない香料は一晩経っても慣れることなく、事ある毎に鼻を掠め抜けていく。正直、あまり好きな匂いではない。いかにも作られた人工的な甘い匂いはくどく、液体そのものは強すぎる匂いに顔をしかめた程だ。己がこの匂いを纏っていると考えると、この天気のようにうんざりとする心持ちだった。
――だが。
スゥ、と。リチャードは唇を寄せたまま、深く深く息を吸い込んだ。
途端鼻腔を抜け、肺を満たし、やがて血液に溶け込み彼の全身を巡るその香り。
安っぽい人工的な甘さの向こう側。
決して主張することなく控えめに、けれども確かに香る、それ。
甘くもなく、苦くもなく。
清涼な、けれどもそっけないわけではない。
いつかどこかで嗅いだことのある、そう・・・遠い記憶を呼び起こすほどに懐かしい、優しい、匂い。
アヤカという唯一無二の少女を形作る香りそのものを深く吸い込み、リチャードはそっと身体を起こした。
ザアアアと一つの雑音を背景に刻一刻と暗闇を押しのけ明るくなりつつある室内で、薄掛けに包まれた少女を見下ろし、く、と。リチャードは耐えきれないとばかりに笑い混じりの吐息を吐き出した。
「――アヤカ」
ピク、と。眼下の薄掛けが揺れる。先程までの規則正しい寝息ではない。明らかにリチャードの声に反応した動きだ。しかしそれ以上の動きはなく、小さく揺れた後は頑なに沈黙を貫いている。横を向いたまま、