初夏の風は水分が多い。日差しが強まり、夏まであと一歩という季節のポワティエはこの土地に生きとし生けるすべての生命を祝福するかのように、光が溢れる季節である。内地ではあるものの海が近く、ボワヴル川とクラン川に挟まれる形のこの土地は雨が多い。今朝も雨が降ったばかりで、草木を掻き分けて走るリチャードの裾を、真珠のように連なる朝露たちが涙のように濡らしていく。
 リンデンバウムの葉が甘い芳香を放つ傍らで、リチャードはただ走っていた。遠く、遠く、なるべく遠くへ行けるように。少年と呼ぶに相応しい年恰好のリチャードは、動きやすい、けれども一目で上質だとわかるシャツに、ズボンを履いてただその幼く短い足を走らせていた。はぁ、はぁ、と己の荒い息が、まるで耳元で響いているようだった。身体中を巡る血液が、燃え滾るように熱い。熱くて、あつくて、なんだか身体が燃えてしまっているような心地すらした。ありとあらゆる生き物が光の恩恵を受け、祝福されているなかで、リチャードだけがその光に焼かれ、罰を受けているようだった。
 リチャードはこのポワティエで母の薫陶を受けている。つい先日父からポワティエ伯の称号を頂いたばかりの少年は、いずれかのアキテーヌの領主になるのだと、皆が尊敬の眼差しのふりをして、後ろ指差していることをリチャードはもう知っていた。そうして、同時に彼らがリチャードを畏怖の念を抱いていることすら、少年は気付いているのだ。
 リチャードが学ぶこのポワティエの地では、人々はリチャードを尊敬し傅くべき主ではなく、まるでバケモノでも見るかのような目で見る。力が強く、人並みに色々なことが出来るリチャードは、どうやら普通ではないらしい。剣術も、音楽も、弓術も、絵画も、レスリングも…なんだって! リチャードは、なにもかもできてしまう。そうしてなんでも出来るリチャードを、人々は「人の御業ではありませんな」と褒めるふりをして貶すのだ。
 人でないなら、何だと言うのだ。バケモノか? 妖精か、まさか神などとは申すまい。なれば、なればこそ。リチャードは思うのだ。いっそのこと、獣にでもなってしまいたいと。そうすれば、きっとリチャードも祝福してもらえる。この光に、土地に、素晴らしき世界に。人で在るからいけないのだ。理性があり、規範があり、嫉妬がある。そんなものを取り払い、ただ本能のまま、生きるためだけに日々を謳歌出来れば、そう在るがままの姿で命を燃やせれば。きっとリチャードだって美しい生き物になれるはずなのに。
 濡れてしまったズボンに気を遣うことなく、柔らかな地面に腰を下ろす。城からは随分と遠い場所まで来てしまった。それでもここは、未だリチャードを受け入れていない土地の範囲なのだろう。リチャードを受けて入れてくれる場所などあるのだろうか。そんな土地は何処にあるのだろうか。ポワティエか、アキテーヌか、イングランドか。或いはその場所の名こそアヴァロンなのだろうか。
「……いつか俺も、辿り着けるのかなぁ」
 かの騎士王が眠る理想郷に、未だ王冠を頂いていない少年はその丸い頬を初夏の風に晒しながら思いを馳せた。
カット
Latest / 35:59
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知
筋トレ
初公開日: 2026年07月16日
最終更新日: 2026年07月16日
ブックマーク
スキ!
コメント
リチャードさんはリンデンバウムの葉が茂るころ、かつての母校で動物になってしまいたかった話をしてください。
#さみしいなにかをかく #shindanmaker
https://shindanmaker.com/595943
筋トレ
サンジェルマンさんは雲ひとつない晴れの2月の正午、美術館の飾られた絵の前で手首の骨は案外飛び出ている…
瀬をはやみ
筋トレ
名なしのAさんは月夜に、テーブルにカップが置かれたままの部屋でフォーチュンクッキーを貰った話をしてく…
瀬をはやみ