月明かりに照らされたワンルームは薄暗い。『A』が一人で暮らしていた時は、酷く殺風景だったはずの部屋は、とある同居人が増えてから、ほんの少し、ほんの少しだけ物が増えた。それは、例えば、部屋にひとつだけカップが増えたような、そういう自分以外の人間には気付かれないような些細な変化だった。けれどそれは『A』にとっては、青天の霹靂とでも言うべきような変化だったのだ。
青の密度が高い、真夜中の部屋は、静謐に満ちている。孤独を愛する『A』が最も安らぎを得ることの出来る時間だ。最も生きていて良いと思える時間だ。テーブルには洗われることなく放置されたカップが置かれている。それを咎める人はいない ──咎める、人は。
「おねえちゃん」
「……まだ、起きていたの」
暗闇から溶け出して姿を形作るように、細い手足がぬっと『A』の前に現れる。それを不気味に思うより先に「寒そうだな」と思ってしまった自分に、またひとつ変化を感じた。その変化は、『A』にとって酷く恐ろしいものだった。ぶるり、と肩が震えた。闇から現れた少女に恐怖を感じたのではない。それに恐怖を感じない、己に恐怖を感じたのだ。己の大切な領域を踏み入れられも、嫌悪を抱けない自分に。孤独を愛しているはずの自分から、孤独を奪い去る生きものを受けて入れている自分に。
一人、恐怖に打ちひしがれている『A』をきょとんとした無邪気な顔をして見上げる瞳は、硝子玉のように透明だ。なんの感情も乗っていない、ただ、あるがままを映し出す鏡のような薄青。再び「おねえちゃん」と呼びかけられた声には、疑問符が僅かに浮かんでいるような気がした。
「……何でもないよ。寒いでしょう。ブランケット…なんて物、うちにあったかな……」
何か羽織るものでも取って来ようと立ち上がろうとした『A』を、細く小さい指が控えめに留める。どうしたのだろう、と振り返れば、そっと小さな欠片が手渡された。甘い香りのするそれをよく見てみれば、三日月をひしゃげたような焼き菓子だった。中華街とかでよく見るやつ。
「……フォーチュンクッキー?」
どこでこんなもの、と言おうとして、止めた。まんまるな瞳はただ『A』自身の姿を映し出すだけで、この子自身のことは何も浮かんではいない。聞いても詮無いことだろう。『A』の手中でころころと転がる焼き菓子を持て余し気味に眺めていれば、少女はなぜ、とでも言うように首を傾げた。
「たべて」
「……いいの?」
うん、と頷いた少女に、まあ断るのも失礼か、と思いパキリ、と半月を割れば小さな紙片が出てくる。当然だ、これはフォーチュンクッキーなのだから。何が書かれているのだろうと、僅かに好奇心を滲ませて紙片を広げれば、小さい字で書かれた言葉が目に入った。
『あなたの恋は叶うでしょう』
「…………ほんとうに?」
少女は何も言わない。言わないまま、ただじっと『A』を見つめている。その頭を恐る恐る撫でてやる。さらさらと、月光の差す光の束みたいな金髪が流れた。美しかった。それは認めなければならないと思った。最も安らぎを得ることの出来る時間を邪魔されたとしても、最も生きていて良いと思える時間が減ったとしても。孤独を愛していたはずの自分が、それを愛してしまったとしても。目を奪われた事実を、恋してしまった事を、消すことは出来ないのだと悟った。
「ありがとう」
相変わらず青の密度が高い、真夜中の部屋は、静謐に満ちている。そして今夜は、そんな部屋にも美しい月光が差し込む月夜だった。それだけの話だ。