目が覚めた瞬間から、晋助には違和感があった。朝、いつもなら腕に抱いているはずのナマエがいない。先に起きているのだろうかと思うものの、ナマエが晋助を置いて朝食に行ったことは一度もなかった。
 布団の中を手で探る。けれど、ナマエの柔らかい肌はどこにもなかった。晋助は薄目を開け、そして珍しく――仰天した。
 見知らぬ子どもが、布団の中で眠っている。
 はあ? と晋助は体をがばりと起こした。当然ながら子どもに見覚えはない。けれど、その寝顔はどことなくナマエを想起させた。
 四、五歳だろうか。子どもがゆっくりと瞼を開けた。ぱちぱちと眠そうな目で辺りを見渡し、ぱちりと、晋助と目が合う。
 お互い、無言のまま見つめあった。事態が飲み込めない晋助は言葉を発することもできなかった。
 子どもが体を起こす。大きすぎるナマエの浴衣が、肩から落ちそうになっている。
 おい、と晋助は声をかけようとした。けれどその前に、子どもが「ここ、どこ……?」と呟いた。
「ここ、どこ……?」
「それはこっちのセリフだ、なんでてめぇみてぇなガキが……」
 その途端、子どもがぐしゃりと顔を歪めた。両手の拳を、目に当てる。
「ここ、どこ……?」
「おい待て、」
 うわあああああん、と子どもが泣き出す。子どもを泣き止ます術など知らない晋助は、ただおろおろするばかりだった。
 ――何が起きてる。
「泣くな」
「ここ……どこぉ……」
 晋助は鋭く舌打ちをした。晋助はあぐらをかき、子どもを抱き寄せて膝に乗せた。
「泣くんじゃねえ」
「ここ……どこぉっ……?」
「取って食いやしねえよ」
 泣くな、と晋助は子どもを右に左に揺らした。えっぐえっぐ、と子どもは大粒の涙を溢している。
 このガキはどこのどいつだ。それに、ナマエはどこにいった。どうしてこいつが、ナマエの浴衣を着ている。
 おい、と晋助は子どもに声をかけた。
「お前、名前は」
 名前……? と子どもがきょとんとする。お前の名前だよ、と晋助は繰り返した。
 そして、晋助は再び仰天した。
「ナマエ……」
「は……?」
「私は、ナマエ……。お兄ちゃん、は?」
 どういうことだ。
 その時、廊下を誰かが走ってやってくる音がした。障子の向こうから「晋助様っ」とまた子の声がした。
「子どもの、泣き声が……」
「入れ」
 また子が障子を開ける。そしてやはりまた子も、目を見開いた。
「ナマエ、さん……?」
「どうなってる。こいつは……ナマエだ」
 また子に驚いたのだろう。ナマエが晋助の浴衣の襟を、小さな手でぎゅっと掴んだ。
「ナマエさん、っスか……?」
「こいつはそう名乗ってる」
「どういうこと、っスか……?」
「武市を呼べ。どういうことか調べさせろ」
 はいっス、とまた子が駆けていく。ナマエはまた子がいなくなると、不安そうに晋助を見上げた。
「お兄ちゃんは、誰……?」
「……晋助」
「しんす、け」
 子ども――ナマエが瞬きをする。そのはずみで、まつ毛についた涙の雫が落ちる。
 その顔は、ナマエが泣いている時とそっくりだった。
 
 ナマエは晋助のそばから離れようとしなかった。晋助はナマエに大きすぎる浴衣を着せ直し、腰紐でぐるぐる巻きにして抱き上げた。
 ナマエはこれからどこに連れて行かれるのか、不安そうな顔をしていた。晋助はナマエを抱き、広間に向かった。広間にはちょうど、武市も来ていた。
「これは……」
 武市が珍妙なものでも見るかのような目でナマエを見る。ナマエは怯えて、晋助にぴったりと張り付いた。
 武市がナマエの顔を覗き込み「お名前は」と尋ねる。
 ナマエが晋助を見上げる。晋助は答えろ、とナマエを促した。
「ナマエ……」
 その答えを聞き、武市が「これは……」と唸った。
「おそらく、江戸で密かに蔓延しているという、ウィルスのせいやもしれません」
「なんのウィルスっスか」
「どうも、体と心が子どもの頃に退行してしまうというウィルスが、流行りはしないものの静かに広まっているという話を聞きました」
「なんスか、それ」
「感染者の数が少ないので、確かな情報はありません……。しかし、これを見ると、そのウィルスに感染したのは明白……」
 晋助の腕の中で小さくなっていたナマエが「おじちゃん、だれ」と呟く。すると、また子が武市を押しやった。
「武市先輩、キモいっス。ナマエさんが怯えてるっスよ。ロリコンも大概にしたくださいっス」
「ロリコンじゃありませんフェミニストです。大体私は、この年頃の娘よりもっと年齢の……」
「そーいうところがキモいんっスよ」
 また子がナマエに微笑みかける。ナマエはまた子をじっと見つめた。
「ナマエさん、また子っス。何にも覚えてないっスか?」
 ナマエがこくんと頷く。また子が笑みを深めた。
「お腹、空いてないっスか」
「……空いた」
「朝ごはんを食べるっス」
 晋助は座布団の上に腰を下ろした。膝の上にいるナマエに、お前も降りろ、と脇に手を差し込むと、ナマエは首を振って嫌がった。
「……ここがいい」
 晋助の着流しを掴み、晋助を丸い目で見上げる。瞳はたちまち潤み、また涙がこぼれ落ちそうになっている。
 晋助は静かに息を吐いた。
「……じゃあ、そこにいろ」
 
 それから小さくなったナマエとの生活が始まった。ナマエは不安からか、常に晋助の膝の上にいたがった。けれど四六時中そうしているわけにもいかず、引き剥がしてまた子に預けようとすると、ナマエはまた子の手を握りながら「……晋助、ばいばい」と言った。
 とはいえ、また子とはそれなりに楽しく時間を過ごしているらしい。あやとりや折り紙などの古風な遊びをしたり、はたまたテレビゲームをしたりなど、退屈はしていないらしい。
 その日の夜、晋助がまた子の部屋を訪れると、また子とテレビゲームをしていたナマエが「晋助!」と立ち上がって駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、晋助」
「……戻った」
 ナマエは手に折り紙を持っていた。ナマエはその折り紙で作った何かを、晋助の手に押し付けた。
「……なんだ、これは」
「はぁと」
 確かに赤い折り紙で作られたそれは、ハートマークに見える。けれどだからといってどうしろというのか。晋助がそれを見つめていると、ナマエがにこにこ笑いながら「あげる!」
と言った。
 そうか、と晋助はとりあえず懐にハートをしまった。ナマエが腕を伸ばすので、抱き上げる。
「飯、食うか」
「うん!」
 晋助はまた子に「すまねえな」と声をかけると、また子の部屋を後にした。広間に向かい、お膳の前の座布団に座る。
 ナマエは食事の時でも膝から降りようとしない。行儀が悪いからと何度か降りるよう促したけれど、それでも頑なとして降りようとしなかった。
 季節は八月。お膳にはナマエの分と晋助の分のそうめんと焼き魚が乗せられていた。ナマエは焼き魚を見て顔を顰めた。
「お魚、嫌い」
「好き嫌いをするな」
「だって骨があるんだもん」
 仕方ねえな、と晋助はナマエの方の魚に箸を伸ばした。身をほぐし、骨がないのを確認すると、箸でナマエの口まで運んだ。
 ぱくり、とナマエが魚を食べる。最初は恐る恐るもぐもぐしていたけれど、骨がないのが分かると「……美味しい」と呟いた。
 晋助は魚の身をほぐし、ナマエの口に運び続けた。まるで雛鳥の餌付けだな、と晋助は密かに笑った。
 魚を食べ終えると、ナマエは麺つゆの入ったお椀を手にした。覚束ない箸の持ち方で麺を掬い、麺つゆに付け、ちゅるちゅるちゅる……と美味しそうに啜る。
「……うめぇか」
「うん。おそうめん好き」
「そうか」
 晋助も自らの食事に手を付けた。膝にナマエを乗せたままの食事はしづらかったけれど、ナマエは晋助の膝の上に妙に程よく収まっていた。
 風呂はまた子に任せることにしていた。頬を赤くさせたほかほかのナマエが、また子に連れられて部屋に戻ってくる。
 部屋に戻るなり、ナマエは「晋助!」と晋助に抱きついた。風呂上がりで暑苦しいものの、振り解くことはしなかった。
「おやすみなさいっス、ナマエさん」
「おやすみなさい、また子ちゃん」
 また子が部屋を出ていく。晋助は布団を敷き、横たわった。腕を伸ばすと、ナマエがすっぽりと晋助の腕の中に収まる。
 子どものナマエの体温は高かった。タオルケットを肩までかけ、部屋の電気を落とす。
 それでもナマエは、まだそわそわしていた。子どもが寝るにはもう遅い時間なのに、ナマエは何がおかしいのか、くすくすと笑っていた。
「寝ろ」
「ねえ、晋助ぇ」
「なんだ」
「ううん」
 ナマエがぎゅうっと晋助に抱きつく。暑い、離れろ、と言いたいところだけれど、ナマエの好きにさせておく。
 何もないのに笑っていたナマエだったが、そのうち静かになり始めた。そっと顔を伺うと、さっきまでのテンションはどうしたのか、うとうととし始めている。
 ナマエの子どもらしいお腹が、静かに上下していた。晋助はそっとナマエの頭を撫でた。ナマエは眠気に抗えなくなったのか、やがて瞼を閉じ、寝息を立て始めた。
 真夜中。晋助はもぞもぞと動く気配に、目を覚ました。ナマエの腹の上に手を置いていたのに、今はその感触がない。薄暗い部屋の中目を開けると、ナマエは晋助に背中を向け、小刻みに震わせていた。
「……ナマエ」
 ぐす、ぐす、と泣く声がする。晋助はナマエの肩に手をかけ、ぐいとこちらを向かせた。
「……しん、すけ」
 ナマエは大粒の涙を流して泣いていた。なにがあった、と晋助はナマエに問うた。
「……怖い夢、見たの」
「どんなだ」
「お化けに追いかけられる夢……」
 なんだそんな夢か、と晋助は思った。けれど子どものナマエには、相当怖かったらしい。握り拳で必死に涙を拭っているけれど、涙は止まりそうになかった。
 晋助は息を吐いた。腕を広げ「来い」と言う。
「晋助ぇ……」
 ナマエが晋助の腹に突進してくる。腹に頭突きされ、晋助は一瞬唸ったものの、ナマエを抱きしめた。
「起こしゃいいだろ」
「だって……寝てるから……」
「ひとりでめそめそ泣くんじゃねえ」
 晋助ぇ、とナマエの涙が晋助の浴衣を濡らす。晋助はナマエの頭を撫でながら、そうだこいつは、いつでもひとりでめそめそ泣く奴だった、と思い出した。
 松下村塾で共に学んでいる頃からそうだった。ナマエは、いつもひとりで隠れて泣いていた。悲しいことや辛いことがあっても、ナマエは誰にも頼らなかった。そんなナマエを見つけるのは銀時や晋助で、それから大抵、松陽先生がやってきた。
 ナマエは松陽先生になら甘えられた。松陽先生にぎゅっと抱きつき、よしよしと頭を撫でられていた。
 そんなナマエを見て――己は、どう思っていたのだったか。
 晋助はナマエを強く抱きしめた。泣くな、と暗闇に呟く。
 それでもナマエの涙は止まらなかった。どうすればいい、と考える。
 ――「ナマエには、先生も、銀時も、晋助も、小太郎もついているんですよ」
 松陽先生はいつもそう言ってナマエを慰めていた。晋助はそんなことを思い出し、口を開いた、
「……お前には、俺がついてる。なんも怖くねえよ」
「……本当に? お化けも、晋助が追い払ってくれる?」
「……ああ、追い払ってやる」
 ナマエが涙で濡れた瞳で晋助を見上げた。ぱち、ぱち、と瞬きをするたびに涙が伝い落ちる。
「お化け、もういない?」
「いねえよ。……もう俺が、追い払った」
 ぎゅむう、とナマエが晋助に抱きつく。ぐいぐいと晋助の腹に顔を押し付ける。
「晋助」
 どうした、と晋助は答えた。
「……喉乾いた、お水飲みたい」
 晋助は仕方なく微笑んだ。
 
 
 
 
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幼児退行ネタ
初公開日: 2026年07月08日
最終更新日: 2026年07月08日
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