デュースはその夜、数か月ぶりに連絡をしてきた先輩に半ば強引に呼びつけられて、夜の街をマジカルホイールで爆走していた。とはいえ、魔法執行官になるために選んだインターンシップの最中に速度超過でしょっ引かれるわけにはいかないから、制限速度ギリギリでの運転である。
「リーチ先輩! 海見えてきましたけど、どの辺で下ろしますか?」
今中央駅の近くいるから海まで送って。卒業後、双子のきょうだいや幼馴染と共に海の底に帰ったのだとばかり思っていた先輩からの突然の連絡にデュースは危うくスマートフォンを取り落としかけ、誰か違う人への連絡かと思っていたらそのメッセージに既読をつけるが早いか電話まで掛って来たので、これはいよいよ人違いなんかではないとジャケットを引っ掴んで帰ってきたばかりの家を飛び出したのだ。デュースがいつか有効期限を描き忘れた『マジカルホイールでドライブに連れていく券』は、渡した相手が卒業してもまだ効力を有しているらしい。
「どこでもいーよ。海だったら泳いで帰れるし」
アズールの事業の新規出店場所の下見で陸に来たというフロイドは、デュースの後ろでそれなりにくつろいだ様子で言った。学生時代から学内でレストランのような場所を経営していたアズールは、どうやら薔薇の王国のティータイム文化に目をつけて、紳士のお茶会の場をテーマに新たな店を薔薇の王国に構えようとしているらしい。
「あれ? ローズハート寮長……?」
車道沿いで海岸線に出られる場所はどこかあったかと考えながら海沿いの道に入った時、砂浜によく見知った丸い後頭部が見えたような気がして、デュースは思わず呟いた。デュースがインターンシップをしているのは地方の警察関連機関で、リドルの通う医科大学も同じ街にあった。一、二度リドルと一緒にご飯に行ったこともあるし、彼の姿がこの街にあっても何らおかしくはない。ただ、妙だと思ったのは、夜の人気のない砂浜の上に座り込み、リドルがひとりきり月明かりに照らされた漆黒の海を見つめていたからだ。
「え? どこどこ?」
わくわくした声でデュースの後ろから身を乗り出したフロイドは、ナイトレイブンカレッジ在学時代からリドルのことが大のお気に入りだ。入学式の日に吹き飛ばされた時の炎の熱さは今でも鮮明に覚えているし、海の中では負け知らずな自分を吹き飛ばすような強い魔法士がいるのだと思うと、大して乗り気でなかった陸での生活が大層楽しみになったものだ。
「あそこ……あれ、ローズハート寮長じゃないですか?」
デュースが片手をハンドルから離して指し示した先を見ると、確かにそこにはフロイドの目にもリドルとしか思えない小柄で華奢な男の子がじっと座っていた。似てるなァと思った瞬間さらりと揺れた髪が月明かりを受けて赤く煌めいて、フロイドにあの後姿が懐かしい学友の姿だと確信させる。
「ホントだ。何やってんだろ」
フロイドが止めてと言おうとした瞬間、デュースはそれを察知したみたいに——実のところは、ただ偶然その瞬間砂浜に出ることができるガードレールの切れ目を見つけただけなのだが——マジカルホイールのスピードを落とした。程なく止まったマジカルホイールの座席から滑り降りるようにして降りていったフロイドは、半ば小走りになりながら小さな背中に呼びかける。
「金魚ちゃ~~~ん‼」
「げっ、フロイド⁈」
振り向くと同時にひどく嫌そうにぎょっとした顔をするのは、リドルの変わらない癖だ。入学早々フロイドに金魚ちゃんオレと勝負しよなどと付き纏われたことは忘れたくても忘れられない思い出としてリドルの脳に色濃く残っていて、それ以降もフロイドに不躾に揶揄われたり突然勝負をけしかけられたりした回数は両手では到底数えきれない。
「フロイド! なんでこんなところに——!」
抱き着こうとするように両手を広げた嘗ての学友から逃げるようにリドルはすくりと立ち上がり、その瞬間マジカルホイールを引きながらもたもた砂浜にやってきた後輩の姿をその目に捉えた。まったく、だから考えなしに無期限のドライブのプレゼントなんてやるものじゃないと言ったのに。撤回するタイミングを失った件の券がフロイドの手元にまだあるのだろうと容易に想像ができて、リドルはフロイドの腕からひょいと逃れながらはあっと大きく息を吐いた。
「デュース。キミ、まだフロイドの送り迎え役なんてしているのかい。フロイドはもう卒業したんだから、他人のキミが律儀に呼び出しに応じる必要なんてないだろう」
「え、なにそれヒドくね?」
でも、と口籠るデュースは、学生時代にほんの少し制限速度を上回る速度でフロイドとドライブに出かけたのが嫌だったわけではないのだ。むしろ同じ寮で、同じクラスで、二年間ルームメイトだった腐れ縁のエースはデュースの多少無理のある運転に「危ないだろ!」などと苦言を呈すタイプだったし、同じく仲の良かったオンボロ寮の監督生も一度後ろに乗せたら青い顔をしていたから、自分の運転を心からきゃっきゃと楽しんでくれるフロイドの存在はむしろスリルのある風のような運転が好きなデュースにとって、ありがたい存在ですらあった。
「てか金魚ちゃんは何してたわけ? こんな時間にちっちゃいちっちゃい金魚ちゃんがこんなとこいたら悪い人魚にバクーッ!って食われちゃうかもよ?」
にやにや笑いながら言うフロイドは、リドルがそんじょそこらの人魚になんて負けるわけがないことを十分に知っている。そもそも、リドルの発動速度トップクラスの強力な魔法の前には、並みの魔法士だってひとたまりもないに違いない。ふんと鼻を鳴らしてあしらうリドルだって、きっとそれを承知していたのだろう。つんと偉そうに顎を持ち上げた彼の態度は相変わらず女王様のように堂々としていて、フロイドの唇は一層急な弧を描く。
「ボクが何をしていたってキミには関係ないだろう。マジカルペンも持っているし、キミに心配される所以はないよ」
リドルの不機嫌な声を聞いたときから、ぎらりと睨みつけられることを想定していた。むしろ、それがあまりにもいつもの流れだったので、銀の瞳が自分を見上げようとすらしないことに拍子抜けすらした。リドルの目は打ち寄せる波と乾いた砂の丁度間の辺りに落ちていて、少し屈んでみるとリドルの手がぎゅっと緊張したように握られているのがわかった。リドルはフロイドのことなんて入学式の時のようにいつだって吹き飛ばせるに違いないのに、どうして緊張することがあろう。マジカルホイールを砂浜の入り口に横たえて砂に足を取られながらやってきたデュースもリドルの違和感に気が付いたのか、孔雀色の瞳はフロイドとリドルの間で三回ほど往復し、体格の割に小ぶりな口は数回パクパクしてからようやく音を発した。
「あの……ローズハート寮長? 何かあったんですか……?」
リーチ先輩が怒らせたのか、はたまた彼とは全く関係のない何かがリドルの琴線に触れたのか。デュースはリドルよりも更に相手の態度から物事を察することが苦手だから、なんとなく二人の顔色を窺いながら問いかけることしかできない。
「……何でもない」
リドルはぐっと眉間に深く皺を寄せ、絞り出すように言った。自分が何に悩んでいるのか分からないほど、リドルは馬鹿な男じゃない。むしろ自分が何に悩んでいるのかが明確に分かるから、その対処法がわからなくて海辺にまでやってきたのだ。あの男のことがわからない。素直にそう言ってしまえば、フロイドは何かヒントをくれるだろうか。一番助けを求めたくない相手に助けを求めたくなってしまうのを堪えながら、リドルはただ月光を受けてきらきらと輝く海の水面を見つめ続けた。あの男は、キミのきょうだいは、ボクのことが好きじゃなかったの。ボクのことは、彼のなかですっかり過去のものになってしまったの。ボクはやっと、彼のことをボクの人生最初のロマンスだと思えるようになったのに!
「ジェイド、元気にしてる?」
フロイドはリドルの足元にしゃがみ込みながらそう問いかけて、悪戯な少年のような視線でリドルを見上げた。元気にしているかどうかなんて、きょうだいのキミの方がよく知っているんじゃないのと言いかけて、そういえば、フロイドとアズールもジェイドと同じように海に帰ると言っていたことを思い出した。デュースがこんな夜更けにフロイドを乗せて海岸までやってきたのは、フロイドを家に近い場所に送り届けてやるためだったのかと合点がいって、それなら研究のために毎日ジェイドと顔を合わせている自分の方が彼の体調のことをよく知っているのだろうと思い当たる。
「元気そうにしているよ。今日会いに行かなかったの?」
「水族館なんていつでも見れるモンばっかりいるとこに金払って行くなんてするわけねーじゃん」
それもそうか。リドルはふぅんと喉の奥だけで相槌を打ち、フロイドの隣に真似をするように腰を下ろしたデュースにつられてゆっくりと砂浜に座り込んだ。波が打ち寄せる音がする。隣ではフロイドが海に帰る準備をするみたいに靴を脱いで靴下に手を掛け、デュースは一体どうすればいいのだろうと狼狽えるように視線をリドルとフロイドの間でちらちらと迷わせる。
「……ねえ、フロイド」
なぁに、と返事をする声がやけに優しいような気がして、リドルはぎゅっと膝を抱えた。揶揄われるかもしれないし、自分の思い違いを思い知らされるかもしれない。けれども、せっかくの偶然に縋りたくて堪らなくなった。ジェイドが自分をどう思っているのかなんて馬鹿がつくほど直球な聞き方をしなければ、少しぐらい探りを入れたって変には思われないんじゃないかしら。
「ジェイドって、好きになったものへの執着の強い男だと思っていたんだけれど、違うの?」
少なくともリドルが知っているジェイド・リーチは、好きなものをとことん極める男だった。陸に上がって山にハマったとなったら「山を愛する会」なんて浮かれた名前の同好会を一人で立ち上げ、滑落しかけても尚山に登ることをやめなかった。後輩の一人からは、山の話をしていたらジェイドサンが入ってきて強く同行を申し込んでいたなんて話も聞いた。山に入れ込む前にはマンホールに夢中になって、そのグッズを大量に集めていたなんて話もされたっけ。
「ジェイドがァ?」
それなのに、フロイドはリドルがなにかひどく馬鹿げたことでも言ったみたいに眉をぎゅっと吊り上げて、これ以上無いほど胡乱な目でリドルをまじまじと見つめた。ジェイドほど冷たくあっさりした男はいないんじゃないかというのがフロイドの感想だ。フロイドは興味のない相手のことは最初から覚えようとしないが、ジェイドは一度情報を収集した相手でも、興味が無くなった途端「それ、誰でしたっけ」などと平気で言う男である。フロイドは一度にあれこれ手を出して次から次へと飽きていく一方で、ジェイドは一度に手を出すものの数が限られている。その程度の違いだ。
「ジェイドだってオレと一緒だよ。飽きたモンは人でも物でも全部さっぱり捨てちゃうけど、オレよりちょっと飽きない期間が長いだけ」
リドルはぱちりと瞬いて、そう、と小さく囁いた。ジェイドが幼い頃集めていた百個以上のアクセサリーを飽きて全部捨ててしまったという話は、リドルだって聞いていた。聞いていたけれど、物と人は違うんじゃないかって、ほんの少しだけ期待をしていた。自分はもしかしたら、ジェイドの中で簡単に捨てられるものとは違う、何か特別なものになれるんじゃないかって。どうしてそんな風に己惚れることができたのだろう。ジェイドにとってはプロポーズの言葉もただ一時のテンションに任せて言った言葉で、断られたらすっかりなかったことにできる程度の、大した意味を持たないものだったのかもしれない。人生で最初の、自分の人生に新たに舞い込んだロマンスこそが彼なのだと思っていたのはリドルだけで、ジェイドはそんなこと、考えたこともないのかも。
「今更ジェイドのこと好きになっちゃったの?」
「は⁉」
すっかり驚いて声が裏返り、しかしそうじゃないと否定する言葉は不思議なことに出てこなかった。今更って、どういうこと。大きな声を出した反動で鋭く吸い込んでしまった息のやり場がわからなくて、リドルは唇をわずかに震わせながら、吸い込みすぎてしまった空気をほんの少し吐き出した。あの時、ジェイドが人生のパートナーになってほしいなんて十代ではまだ到底抱えきれない約束を取り付けに来た時、頷いていたらこんなことにはならなかったんだろうか。後悔したってもう遅かった。諦めようとしたって、それももう無理な話だった。
「えっ? ローズハート寮長、卒業前からリーチ先輩のこと好きだったんじゃないんですか?」
何も言えなくなったリドルの代わりに声を上げたのは、フロイドの逆隣に座っていたデュースだった。リドルがプロムのダンスをジェイドと踊ったことは後輩たちも皆が知っていることで、それだけで二人がそれなりに仲が良いんだろうな、ということくらいは想像ができた。
「そんなわけないだろう! どうしてそうなるんだ‼︎」
「え、その、エースが『リドル寮長ジェイド先輩に取られて全然捕まんねー』って言ってたから、てっきり二人は卒業前からもう深い仲なんだとばっかり……」
プロム前のリドルは後輩たちがちょっと話したいと言うのに対して、「今日はジェイドと約束があるから」と夜の就寝前や朝の登校前の時間を指定することが多かった。エースはリドルに来年自分たちが受けることになる卒業試験の話とか、インターン先での面白い話とか、卒業後も会ってもらえるのかとか、いろいろと聞きたいことがあったようで、そのたびに「今日もジェイド先輩だってよ」などと口を尖らせてぶうぶうデュースに文句を垂れ流した。そんなに頻繁に会うなんて相当仲が良いんだなと呟いたデュースにエースは付き合ってんじゃねーのなんて拗ねたように言って、デュースはこれまでずっとそれを鵜呑みにしていたのだ。プロムの様子を報じた学内新聞のオンライン記事にはリドルとジェイドが踊る姿を収めた動画が使われていて、その姿があまりに息が合っていたのも、デュースがそんな話をすっかり信じてしまう要因だったのかもしれない。
「あれはプロムの練習に付き纏われていただけだ! エースと話すのは卒業後でもできるけれど、プロムの日程は決まっていたんだから、そちらを優先させるのが当然だろう!」
それは言い訳なんかではなくて、ただの事実だった。ジェイドはリドルが一度授業の外でダンスの練習に付き合ってから毎日リドルにダンスの練習相手になってほしいと打診するようになったのは紛れもない事実だったし、リドルもきっと自分はジェイドと踊ることになるのだろうと当時はまだどこか諦めるような、割り切るような気持ちでその練習の相手をしていた。好きだから優先しているとか、恋をしたから毎日でも会いたいとか、そんな浮ついた感情は、あの頃は微塵も抱いていなかったのだ。少なくとも、リドルの方は。
「後悔してる? 学生の間にそうなっておかなかったこと」
フロイドの静かな問いかけに、リドルはほんの一瞬息を止めた。あの時は、リドルは恋人を作るつもりなんてなかった。まだ学業を続けるつもりだったのも相まって将来を約束するにはまだ早すぎると思ったし、海と陸とに隔たれることをわかっていて遠距離で交際をするなんて現実的ではないと思っていた。そもそも、ジェイドに対する苦手意識が随分と払拭されたとはいえ、これからどんな苦難があろうと共に生きたいと思うほど強い恋愛感情を抱いているわけでもなかった。当時は、断ることが一番誠実な答え方だと思っていた。そしてその当時の状況において、自分の判断が間違っていると思ったことは一度もない。
「後悔は、していないよ」
リドルははっきりと言い放った。逃げ隠れする必要などなかったし、あれこれ言い繕うつもりもなかった。ただひとつ、苦言を呈するとしたら。あの時のリドルの答えを変え得る、根本的な前提条件を変えられることができるとしたら。
「……でも、陸に残るつもりだったのなら、それを教えて欲しかったかな」
リドルは陸で魔法医術士になる予定で、ジェイドは海に帰って得意の魔法薬学に関する仕事と実家の手伝いをする予定だと聞いていた。ジェイドらしい卒のない仕事だと思ったのに、まさか陸に残って碌なキャリアにならない水族館の展示品なんかに甘んじているなんて。彼がもし最初から陸に残るつもりでインターンや就職活動に臨んでいたら、もっと良い仕事に就くことができたかもしれないのに。魔法医術士と繋がりの深い魔法薬剤師の資格習得に関する助言とか、彼の得意そうな事業をしている陸の就職先の推薦とか、リドルだってそのくらいの手助けはしてやれたかもしれないのに。そしてもし、ジェイドが陸に残ると知っていたら、もう少しは彼のプロポーズを真面目に聞いてやったかもしれないのに。
「ジェイドはさ、ホントは服着るのも好きじゃねーし、風呂入んのも面倒臭がるし、トイレの頻度見誤るし、陸にいんのに向いてねーんだよ」
服というのはなかなか窮屈で、陸に上がって暫く経ちますがまだ慣れません。二年生に上がったころ、ジェイドがそう呟いているのを聞いた。けれども毎日しっかりシャツのボタンを第一ボタンまで留めて、手袋もジャケットもきちんと身に着けていた彼の姿がすっかり見慣れたものになっていたから、てっきりジェイドは陸での衣服を身に着けるという文化に慣れたのだとばかり思っていた。彼の飛行術の拙さと水泳の時の本来の姿を見るときだけは彼が自分と違う生き物であるとなんとなく認識させられたけれど、普段クラスメイトとして教室で接し、寮長と副寮長として会議などで顔を合わせたりするときには彼はいつも人間と同じ姿をしていたから、価値観や生活様式が大きく違うなんて考えてもみなかった。
「リーチ先輩は違うんですか? エースが部活の時先輩がパンツウザいからってノーパンだったこがとあるって」
「は? オレがパンツは履いてようが履いてなかろうがサバちゃんに関係なくね?」
リドルが頭を横殴りにされたような衝撃にくらくらしている隣では、ふたりが学生時代とまるで変わらないやりとりを繰り広げていた。まったく、くだらない話で時間を浪費するんじゃないよ。普段のリドルならそう苦言を呈していたかもしれないけれど、そんな余裕はどこにもなかった。陸で生活するのに向いていないのなら、本人も特別陸に執着があるのではないのだとしたら、どうしてジェイドは今でも陸に留まっているのだろう。考えても考えても、その理由がリドルにはわかりそうにない。
ここまでで一度〆