まだリドルが幼かった頃には、お母様が水族館や動物園に連れて行ってくれた。少しでも多くの知識を。少しでも多くの経験を。動物や魚の名前だけでなく、パネルには書いていないそれらの生態をじっくりリドルに教えてくれた。きっとあの時お母様は、リドルがあれはなにこれは何と問いかけることを想定して、色々と事前に予習をしてくれていたのだろう。数年前の秋、リドルがオーバーブロット後にまだ保健室に寝泊まりしていた時、授業に遅れないよう勉強に励む合間でハロウィンに関する本を読み漁っていたように。
「ふふっ。リドルさんって、案外子どもっぽい所もあるんですね」
隣から聞こえてきた声には嫌味も毒気もまるでなかったはずなのに、リドルは思わず鋭く振り向いていた。ぐっと眉間には深い皺が寄り、舌の根本まで「キミに言われたくない」なんて言葉が出かかっていた。リドルさんって、案外変わっていますよね。そんな失礼なことを言ってきた男のことが頭をふと過ってしまって。彼だって子どもっぽい悪戯でけらけら笑ったり、リドルが食堂でキノコのリゾットを頼んだ日に期待に満ち溢れた少年のようなキラキラ輝く目でじっとリドルを見つめたりしていたのを、何故か思い出してしまって。
「それって、どういうこと?」
リドルがほんの少し警戒を緩めた顔で、しかしまだどこか不機嫌さの滲む声で問いかけると、リドルを誘い出した同級生はふっと曖昧な笑顔を浮かべた。気分を害していないのは良いことだけれど、眉尻をわずかに下げるその仕草がリドルの嘗てのクラスメイトにやっぱりよく似ていたものだから、ぴくりと右の眉が震える。
「だって、リドルさんすごく楽しそう。本当に海の生き物に興味があるんですね」
いや、そういうわけでは。リドルがもごもご否定したって、にこにこ笑う彼女はまるで信じていないようだった。リドルが水族館への同行を承諾したのはただの勉強の一環であって、水槽の中を食い入るように見つめていたのだって、異なる魚の下半身を持つ人魚はそれぞれ異なる泳ぎ方をするものなのだろうかと、様々な魚種の泳ぎ方や水槽の中での暮らし方を観察していただけなのだ。岩の合間に隠れるようにして眠っているウツボを見て嘗ての同級生よりもずっと大人しいなと考え、硝子と床の角に張り付いて休む蛸を見て嘗ての寮長仲間よりもずっと怠惰だと思ったけれど、それはただ他の魚たちを観察している最中にうっかり目に留まっただけだ。
「そろそろ次の部屋に行きませんか? 次は——」
順路を示す矢印の上には、『人魚の入り江』なんて人間からしたら、特に女の子たちからしたらロマンチックに見えるに違いない案内が添えられていた。グレートセブンの時代から御伽噺に美しい人魚の存在は欠かせないし、入り江で歌う人魚は人間を恋に落とすとも、船乗りを惑わせるとも言われてきた。美しく風情のあるエリアの名付け方だと思う一方で、リドルの知っている人魚たちは、大人しく入り江で歌って髪を梳いているような殊勝な生き物ではない。
「人魚の展示、見て行きますか?」
リドルの同級生の声はどこか控えめで、どうやら彼の顔色を窺っているようだった。人魚治療の資格を取るコースをリドルと共に受ける彼女は人魚の展示に興味を引かれていたけれど、その案内を見た瞬間のリドルの顔の雲り様で、もしかしたら彼は人魚の展示に否定的なのかと思い当たったのだ。
「せっかくだからね。行ってみようか」
せっかくの入場料を無駄にするつもりはない。人間の前で展示されることを人魚たちがどう考えていたとしても、それに自分の勉学の機会を奪われる筋合いはない。リドルはふうっと息を吐き、ざわつく胸の音を振り払おうとするように足早に次のエリアへ続く廊下へ歩き出した。もし、人魚たちが不服そうに、あるいは不自由そうにしていたら、その時は水族館と人権団体に意見書を送ろう。しかしリドルのそんな考えは、人魚用に他の水槽よりも深く、大きく作られたパノラマ水槽の前に群がる人々の歓声ですっかり掻き消されてしまった。
「わあっ……! すごい!」
リドルのすぐ後ろからやってきた同級生もまた、他の人々と同じようにすっかり心を奪われたような溜息を吐いた。色とりどりの鰭を煌めかせながら踊る人魚たち。人魚同士で遊んでいる様子の者もいれば、岩の段差に腰かけておしゃべりに興じている者たちもいる。人懐っこい人魚の何人かは人間たちの目線まで潜ってファンサービスか何かをしてやっているらしく、水槽の真ん中の辺りには大きな人だかりがいくつもできていた。
「本当にすごいね。吹き抜けになっているせいでまるで空を泳いでいるみたいだ」
水槽の中に囚われているなんて思わせない自由な過ごし方に少しばかり驚きながら、リドルは休憩と鑑賞のために作られたベンチの隅に腰かけた。何気なくパンフレットを見ると人魚から直接海の中の生活について学べる「マーメイド・トーク」なんてイベントがつい数十分前に終了したばかりと書いてあって、ほんの少しだけ落胆する。まあ、何か海の生活様式について質問があれば、いつでもアズールに連絡をすればいい。自分に言い聞かせるとき、リドルは無意識のうちにもう二人の人魚を排除した。あの二人はリドルを揶揄うためにどんな嘘を吹き込んでくるかわからないんだから。
「あっ、ハート形のバブル!」
嘘だろう、と呟きながら同級生が指し示した水槽の一部に目を凝らすと、確かにそこには歪なハート形のバブルリングが水面に向かって浮かび上がっているところだった。イルカやクジラといった哺乳類は肺に空気を貯めているから水中でもバブルリングを出すことができるが、人魚は鰓呼吸だったはずだ。一体どういう仕組みで。リドルはバブルリングが上っていった麓のあたりの人だかりの隣のガラスに張り付いて、何の人魚がどういう原理でバブルリングを出したのかを観察しようと目を凝らした。
最初にリドルの視界を掠めていったのは、他の人魚たちとは比べ物にならないほど長い尾鰭。暗緑色の鰭先はリドルの目の前でひらひら踊るように輪をかいて、どうやらその場に留まるために人間で言うところの立ち泳ぎを続けているのだろうと想像がついた。きらきらと尾鰭の発光体が煌めくたび子どもたちはきゃっきゃと声を上げ、大人たちもそれを神秘的な生き物を見るように時折息を漏らしながら見つめていた。献身的な人魚もいたものだ。自分の嘗ての同級生とは似ても似つかないと考えて、ふと、目の前でひらひら動く鰭が水泳の授業の際にリドルを散々追い回してきたものとよく似ていることに気が付いた。
「……ジェイド?」
そんなはずはない。そう思っていても、呼んでみずにはいられなかった。ジェイドはテラリウムの中の植物とか、哀れなイソギンチャクたちとか、リドルを含む陸の生き物とか、そういうものを観察する方が好きだったのではなかったか。いや、でも、ルーク先輩に観察されていた時は別に嫌そうではなかったか。ジェイドとはクラスメイトで、プロムまで共に踊った仲なのに、自分は彼のことをよく知らなかったのだと思い知らされる。これが、ジェイドでなければいい。リドルはそう心のどこかで願っていたのに、リドルの小さな囁きがまるで水槽の分厚いガラスを通って向こう側まで届いてしまったみたいに、リドルの目の前には人だかりの前を離れたひとりの人魚がやってきた。
コンコン。控えめにリドルの前を叩く指は、リドルの手を握っていた頃よりもずっと鋭い爪を持っていた。リドルが知る彼よりも顔はずっと青白く、耳の代わりには透き通る鰭がついていて、その見た目は水槽の中を泳ぐ人魚たちの中でも一段と、リドルたち人間とはまるで違う生き物だった。リドルの同級生はわっと喜びの歓声を上げたけれど、リドルの眉間には深い皺が寄る。よく見慣れた金とオリーブの瞳を細めたからは、Jの向きに垂れた黒いメッシュを揺らしながらリドルにふわりと微笑みかけたけれど、とても微笑み返す気になんてなれなかった。
「こんなところで何をしているんだい」
それが仕事です、と示すような動きに従って、リドルはジェイドの指先が示す場所に視線を遣った。ジェイドが指さしたのは、この水槽の説明が記載された大きなパネルである。珊瑚の海には人魚が住んでいること。人間と同じ知性を持った生き物であること。人間の文化や見た目が地域によって違うのと同じように、人魚も海域や魚種によって文化や見た目が異なること。水槽の両脇にはこの水槽で展示されている人魚たちの出身海域と魚種が記されていて、側棘鰭上目と棘鰭上目の人魚でないのはジェイドただひとりだけのようだった。
——リドルさん、その方は?
リドルがジェイドに視線を戻した瞬間、金の瞳が意味ありげにリドルの隣に佇む女性をちらりと見て、たったそれだけでリドルより低く少し刺々しい声が聞こえてくるようだった。そんなことよりもボクの質問に答えろと詰め寄りたかったけれど、ジェイドの発声が海の中でも陸でも同じとは限らない。そもそも分厚い硝子越しに水の中で発音された言葉を聞き取るなんて無理な話のように思えて、リドルは自分の言葉が聞こえているらしいジェイドに向き直る。
「彼女は大学の同級生だよ。水族館のチケットを取ったものの同行者が急遽来られなくなったとのことで、ボクが代わりに一緒に来たんだ」
へえ、と納得しているのかしていないのか分からない形に眉を持ち上げ、ジェイドはリドルの同行者の前に泳ぎ寄る。へぇ。この子が、貴方の。上から下までまじまじと観察するような視線に居心地が悪くなったのだろうか。彼女は金の視線から逃げるようにリドルの方を振り向いて、戸惑いがちに口を開く。
「リドルさん……?」
「ああ、ごめんね。彼はボクのナイトレイブンカレッジの同級生なんだ」
彼女を置いてすっかりジェイドとの会話のようなものに夢中になっていたことを軽く詫び、リドルは忌々しいような、恥ずかしいような思いで少し上に浮かんだジェイドを見上げる。えっと声を上げた彼女が驚くのも無理はない。ナイトレイブンカレッジといったら魔法士を養成する男子校の中ではトップの学校で、学園から選ばれた優秀な魔法士しか入学ができない特別な学校だ。そこを卒業した男が水族館で展示されているなんて、一体誰が思うだろうか。
「本来であれば、こんなところで展示をされるような器の男ではないんだけれどね」
リドルは眉間に皺を寄せ、ジェイドをぎゅっと睨み上げた。困ったように笑う彼は低く不機嫌に言ったリドルのことが聞こえていなかったのだろうか。弱い風魔法を使って小さな気泡を出した彼はそれを口に含んでぽんとバブルリングにしてみせると、魔法でハート形に整えた。ちゅっと投げキッスをするような仕草と共にそのバブルリングをガラスの壁に向かって放った彼は、目の前でそれを受けたリドルの同行者がぽっと頬を赤らめるのをくすくす笑って、ちらりとリドルにオリーブ色の柔らかな視線を滑らせる。
どうしてキミがこんなところに。ナイトレイブンカレッジをそこそこ優秀な成績で卒業し、卒業後も珊瑚の海のそれなりに有名なところへの内定が決まっていたキミが。ジェイドがそうであるように、リドルもまた、わからないことは解明したくなる性格であった。パネルを指さすだけなんて曖昧な返事でなくて、彼が陸に留まり人間と動物の間のような仕事をしていることのきちんとした説明が欲しかった。
「ジェイド、閉館後に話がある。午後七時までは正門でキミを待っているよ」
同級生が他の人魚に気を取られている隙に、リドルは水槽に額が付くほどに近づいて、ジェイドのそばでそう囁いた。少し躊躇いながらこくりと一度頷いた彼の耳には、きっとリドルの言葉がちゃんと届いたことだろう。待ち合わせ場所にジェイドが現れたら、その時はリドルが今疑問に思っていることをすべて彼に聞いてやる。
人間の水族館が人魚の展示をしたがっている。そんな話は珊瑚の海ではちょっとしたニュースになった。人権侵害だと声高に言う者もいたし、三食昼寝付きなら出稼ぎバイトとして応募してみようかななんて冗談めかして言う者もいた。時折アズールや実家の手伝いをしながらなんとなく日々を過ごしていたジェイドはその水族館がリドルの進学先の近隣にあると知って、すぐに水族館に自分を展示品として採用してほしいと連絡をした。本来、ジェイドは人に観察されるのが好きではない。むしろ他者を観察する側に回る方が好きだ。けれども、プロム後の一件以降すっかり連絡を取るのが気まずくなってしまったあの人に会えるかもしれないと確証もない偶然に思いを馳せて、ジェイドは再び陸に上がったのだ。
「お待たせしました、リドルさん」
ジェイドが展示品としての仕事を終えて水族館を出たのは、リドルが指定した期限よりも一時間も前のことだった。午後五時の閉館からシャワーと着替えを済ませ、ドライヤーをかけてメッシュの向きを整える。それなりに急いだつもりだったが既に外は日が暮れて、リドルは少しばかり寒そうに腕を組みながら柱に背中を預けていた。
「早かったじゃないか。もっとかかるかと思っていたよ」
ガラス越しに見ていた人魚姿よりもずっと見慣れた姿に、リドルは内心ほっとしながら柱から背中をそっと離した。整形や濃い化粧でもしない限り見た目は数か月でそうそう変わるものじゃないとわかっていても、ジェイドの姿が自分が知っているものからかけ離れていたらどうしようとほんの少しだけ不安だった。けれども結局彼の変わったところといったら、チノパンにジャケットなんて卒のないファッションを覚えたところくらのものもだ。
「立ち話も何ですから、よかったら一緒にご飯でも食べませんか。近くに美味しいビストロがあるんです」
リドルも一日中水族館の中を歩いていてそれなりにお腹が空いていたから、その誘いに何の違和感もなく頷いた。ジェイドの方も他の人魚たちと違って随分と展示品らしいサービスに奔走していたようだから、きっとお腹が空いているだろう。リドルがそう考えた瞬間、ジェイドの腹からはぐうぅとリドルを授業中何度も悩ませてきた大きな音が鳴り響いた。
「……相変わらず、キミは燃費が悪いね」
「お昼ご飯はちゃんと食べたんですけどね」
くすくす笑う彼があまりにもいつも通りだったから、ビストロまで向かう街頭に照らされた道がナイトレイブンカレッジのメインストリートと重なって見えた。水族館のガラスを隔てた再会も、卒業直前のプロムの夜にあった出来事も、まるで、何もなかったみたい。いつもの調子でリドルの近況をあれこれ問いかけるジェイドが何を考えているのかリドルにはよくわからなくて、彼の質問にそれなりに簡潔な返事ばかりを返しながら、リドルはジェイドに連れられるままに海の見えるビストロの席に着いた。
「ねぇ、ジェイド」
リドルが切り出したのは、最初の料理の皿が下げられていった瞬間だった。ジェイドの方から何か話してくれないかと少しだけ期待して、しかし彼の口から出てくる近況報告はそのほとんどがアズールが事業を着実に広げているらしいとか、初任給でフロイドが新しい靴を買ったらしいとか、自分以外の誰かの内容ばかりだったから、リドルはすっかり痺れを切らせたのだ。
「キミ、水族館で展示品の真似事をするなんて一体何を考えているんだい?」
ああいう仕事は所謂「誰でもできる仕事」だと思っていた。有名な学校を卒業し、他の人々よりも優れた教育を受けた者であれば、もっと難しく、優秀な人材がする価値のある仕事をするべきだと思っていた。たとえば、アズールはその商才と経験を生かして飲食店の運営会社を起業した。カリムは家の事業を継ぎ、ジャミルはその護衛と秘書の役目を同時にこなす従者を続けている。シルバーは茨の谷に戻りその馬術と魔法の腕を活かして騎士となることが決まっていたし、ラギーは夕焼けの草原のそれなりに有名な企業に就職が決まったと聞いた。あのフロイドでさえ、アズールの事業の手伝いに奔走しているらしいじゃないか。それなのに嘗て副寮長としてアズールの右腕を務め、先輩たちにまでスーパー秘書と謳われていたジェイドがただ人に見られるだけの仕事なんかに就くなんて。
「結構割が良いんですよ。ショーの時間以外は寝ていてもいいですし、夜は閉館するので遅番なら近場の海のラウンジのシフトにも入れますし」
ジェイドはノンアルコールのカクテルに口をつけながら飄々と言った。他人の評価に興味はない。ジェイドは褒められても叱られてもよくそう口にしていて、どうやらリドルが彼の仕事をどう評価しているとしても、そんなのはジェイドの心の琴線に引っかかるどころか、鼓膜にも届いていないんじゃないかと錯覚した。
「キミは珊瑚の海で仕事を見つけたと聞いていたけれど、それはどうしたの?」
リドルはぎゅっと腕を組み、苛立ちを指の動きにのせて、ぱたぱたと忙しなく四本の指で二の腕を叩きながら、ジェイドの返事を待った。海に帰るんじゃなかったの。海の方がずっと居心地がいいんじゃなかったの。卒業の直前、ジェイドがそんな話で同級生たちと盛り上がっているのを小耳に挟んだ。別にジェイドがどこに就職しどこに住むとリドルに約束したわけじゃない。彼の言葉にはいつも「今のところはそういう予定です」なんて曖昧な言い回しが添えられていたから、あの時ああ言ったのにと責めることなんて到底できない。
「やっぱり陸に残りたくなったので、入社前に内定を辞退しました」
何でもないことのようにあっさり言ったジェイドに、リドルはただ一言「そう」と返すことしかできなかった。彼が自分の将来について、自分で決めたことだ。頭では分かっていても、苛立ちが燻るのを止めることは出来ない。ジェイドは決して馬鹿な男ではなかった。むしろ、クラスの中で成績は優秀な方だった。そんな彼がブルーカラーにすら該当するか怪しい仕事でその才能を無駄遣いしているのがリドルにはどこか腹立たしくて、気が付いたらリドルの口からはぽつりと言葉が漏れ出していた。
「ひと言……」
せめて進路を変えたのなら教えてほしかったというのは我儘だろうか。ただのクラスメイトにそこまで求めるのは間違っていることだろうか。
「ひと言くらい、言ってくれたらよかったじゃないか」
転がり出してしまった言葉は、拗ねた子どものような音で空気を控えめに揺らした。リドルはプロムの夜、海にはついていけないというのを理由にジェイドのプロポーズを断った。他にも理由を搔き集めたらもう少しまともな理由があったかもしれないが、一番最初に頭に浮かんだものがそれだった。もし、ジェイドが陸に留まると知っていたら、もっと正当な理由を探していただろうに。もう少しは誠実な言葉で、お互い何の靄を抱えることもなく、さよならの代わりにおやすみと言い合えていたんじゃないかしら。
「言っていたら、結果は変わっていましたか?」
ジェイドは寂しそうに微笑みながら、緩く首をかしげて問いかけた。もしものはなしなんてしたって不毛というものだ。そもそもジェイドが進路を変えようと思ったのはプロムの夜よりも後の話で、あの晩さよならを交わしてから、リドルとジェイドは一度も会っていなかったのだ。ジェイドは笑みを少し深めて、返事を促すようにリドルを見つめた。けれどもリドルにはジェイドの言わんとすることの意味がよく分からなくて、鏡写しのように首を傾けるしかできない。
「結果……?」
ぱちり、とジェイドは驚いたように瞬いた。貴方のプロポーズの返事は違っていましたか、と、そう言うつもりで言った言葉がまるで通じていなかったことに、頭を横殴りにされたような思いだった。今一度言い直そうかと思って、もしあの夜のことをリドルがすっかりなかったことにしたいのであればそれに乗っかってしまおうかとも思った。未練がましく縋ったって仕方がない。もう一度会ってこうして話が出来ただけで、十分だと思った方がいいのではないか。
「わからないなら結構です」
傷心のせいだろうか。冷静に放とうと思ったはずの言葉は思っていたよりもずっと鋭利な形で唇を飛び出していった。ぐっと八の字を寄せたリドルの顔がどういうわけかいつもほど面白いとは思えなくて、ジェイドはグラスを取り上げて、残ったノンアルコールカクテルをぐいとひと口で飲み干した。
「あのね、ジェイド。ボクはキミの将来を心配しているんだよ。水族館の展示品と飲食店のバイトスタッフなんて、どれだけ続けたって碌なキャリアにならない。スラム育ちのラギーだってずっとまともな仕事に就いてるのに、キミは一体何のためにナイトレイブンカレッジに通っていたんだい!」
それは、売り言葉に買い言葉だったのかもしれない。けれども、一度口を開いてしまったらもう止まらなかった。ジェイドと自分では価値観が違うなんてことはわかっている。ジェイドが選んだ仕事に自分が口を出すべきではないことだって。しかし苛立ちは火をつけられたロケット花火のように理性の制御下を離れ、気がついたらリドルはすっかり声を荒らげて両手をテーブルに叩き付けていた。
「どうして、貴方が僕の将来の心配を?」
ジェイドの涼やかな顔は穏やかな笑みを湛えていたけれど、その声は氷点下の真冬の海のように冷たかった。温度が一定の深海の水の方が、彼の声よりよほど温かいんじゃないかしら。そんな温度がリドルの頭に氷水を浴びせかけたようだった。ジェイドの言葉に反論する術をリドルは必死に考えたけれど、気の利いた言い回しは一つも思いつかなかった。学友だから? 元クラスメイトだから? 自分たちの関係に何か名前を付けようとして、しかし学友の中では勿論、クラスメイトの中でも進路を知らない者がいることに気が付いた。唇をぱくぱくさせるリドルをくすりと笑い、ジェイドはどこか冷ややかな声で語り掛ける。
「貴方と僕はただの元学友でしょう。僕がこの先職に迷おうと、どこかで野垂れ死のうと、貴方には関係のないことだ」
長い手をあげてウェイターを呼びつけたジェイドは、どうやらもうそこでこの話題をすっかり終わりにしてしまおうとしているようだった。ただの学友で、いつ連絡を取らなくなってもおかしくない相手。確かにリドルは卒業してから今日まで一度もジェイドと連絡を取っていなかったし、それでなんの問題もなかった。このさきリドルが連絡を取らなくなってからジェイドが無職になったってきっとリドルに連絡は来ないし、ジェイドが死んだってフロイドやアズールが気を利かせてくれなければリドルの元にまでその報せは届かないかもしれない。
「それで、リドルさん。貴方の方の近況はどうなんですか? 卒業してから随分と器用になったみたいじゃありませんか。貴方のことですから勉強だけにかかりきりになっているとばかり思っていたのに、大学に通いながらあんなに可愛い子とデートだなんて」
「で、デートじゃないよ‼︎」
追加のドリンクを頼んだジェイドがくるりとリドルに視線を戻した瞬間、先ほどまでの冷たい雰囲気はすっかりどこかに消えていて、ジェイドの声はリドルの記憶の中と同じ優しく柔らかな姿を取り戻していた。その空気感にすっかり影響されてしまったのか、リドルの方も思わずいつもと同じような反応でジェイドの邪推を大声で否定する。ちらちらと周囲の席からの視線が突き刺さり、リドルははっと俯いた。まったく、キミのせいだ。非難の視線を投げかけても、ジェイドはにこにこ笑って浮ついた恋の話を待つティーンエイジャーらしく期待しきった顔でリドルを見つめている。
「本当に、デートなんかじゃないんだ。ボクは人魚治療の資格を取るつもりだから、魚類の生態や体の作りについても勉強したくて……」
声が徐々に小さくなる。別に恥ずかしい内容を根掘り葉掘り聞かれているわけでもないのに、自分が女の子とふたりきりで水族館に出かけたことをなんだか責められているような気すらして、リドルは膝に置いたナプキンの上で指先をもじもじと弄った。おや、と驚いたようなジェイドのつぶやきが聞こえて、それが一層リドルの居心地の悪さを煽った。別にリドルが交際していようがいまいがそれこそジェイドには関係のない話のはずなのに、リドルはどう説明するのが適切かと必死で言葉を探した。何となく、彼にだけは誤解をされたくなかった。ジェイドはリドルにとってただのクラスメイトなのに。このさき何かのきっかけで急に会わなくなってもおかしくない、その程度の関係の相手なのに。
「それで、ちょうど水族館のチケットが余っていると言われたから、その誘いに乗っただけだよ。……別に、交際と勉学を両立できるほど器用になったわけじゃない」
それが、リドルの答えだった。精一杯誠実なつもりで、同時に嘘なんてどこにもなかった。最後に付け加えた言葉は自分の弱みを晒すようでジェイドに言うことがそれなりに憚られたけれど、彼が何やらリドルの意思に反する勘違いをしていたら不本意だと思って、気が付いたら付け加えずにはいられなくなっていた。もし、リドルがナイトレイブンカレッジの在学中から交際と勉強を両立できるような器用な男だったら、何か変わっていたのかしら。ほんの一瞬そう考えて、しかし、その「何か」の中で自分が何を想定しているのかがまるでわからなくて、リドルはそこで言葉を切った。
それからしばらく、どちらも何も言わなかった。ジェイドのことだ、そんなこと仰って、実は狙っているんじゃないんですか?とか悪戯っぽく同時に意地の悪い目でニヤニヤ聞いてくるのではないかと身構えていたのに、リドルのそんな予想に反して、ジェイドは何かを考え込むように新しく運ばれてきたグラスにそっと口をつけた。金の視線はぼんやりとリドルの背中の向こうのもうすっかり暗くなってしまった海を見つめていて、感情をどこかに落としてしまったような表情から彼の感情を窺うことはできない。
「……どうして、人魚治療の資格を?」
ジェイドは聞いた。母親に魔法医術士になるべくして育てられてきたというリドルが魔法医術士の資格を取るため進学するのは皆が想定していたことだったけれど、人魚治療の資格を取るという話は初めて聞いた。言ってくれればよかったのに、と思ったのはジェイドも同じだ。もしその話をずっと前に聞いていたら、リドルの治療を受けたいばかりに陸に留まりたいと思っていたかもしれないのに。
「キミは山で滑落しかけたことがあるし、フロイドは一度パルクールで足の骨を折っただろう。キミたちのような向こう見ずな人魚を治療する魔法医術士が必要だからだよ」
「僕たちのような?」
半ば揶揄うような、半信半疑のような、嘘なら早くそう言ってくれと急かすような不思議な声で、ジェイドは笑いながら繰り返す。リドルの言葉に嘘はない。リドルの身の回りで一番近い——というか、一番近くにいつも付き纏っていた人魚たちは二人ともけがのリスクの高い活動をしていて、ナイトレイブンカレッジには人魚治療の資格を持つ魔法医術士が校医として常駐していた。せっかく魔法医術士になるのなら、ただの医術士ではなく自分が学んだ環境を生かすことができる資格を取得したい。そう思ったときに最初に頭に浮かんだのが、同じクラスで学んだジェイドの姿だったのだ。
「ふふ、僕たちのことを覚えていてくださったとは感無量ですね。フロイドもきっと喜びます」
いつもであれば微塵も感無量だなんて思っていないくせに、と流し聞くことができるのに、その日だけはそうじゃなかった。ふっと力を抜くように笑ったジェイドの顔が昔の大切な思い出を懐かしんでいるような、諦めていたはずのものに後ろ髪を引かれているような、なんだか不思議な表情をしていたものだから、リドルはいつもの調子で話しかけようと開きかけた唇をそっと閉じた。