part1の続きからです。文章の繋がりの確認の為、ちょっとだけ前のから持ってきてます。
 途端、足が動いた。逃げたい気持ちに急かされるままに、そのまま思い切り廊下を駆け出す。どっちが前か後ろかなんて関係無い。とにかくこの場からいなくなりたかった。後ろからの追っ手を引き離し、横から伸ばされる手も、捕まる前にどんどん通り過ぎていく。呼吸が出来てるのかよく分からないままに、碌に前も見ないで走り続ける。だからだろうか、周りの景色が変わっていた事に全く気付けなかった。
 止まる事を忘れた足に、何かが絡んだ。
「ぶぇっ」
 勢い良く体勢を崩して咄嗟に両手を前に出すも、そのままに前転のようにごろごろと転がった。世界がぐるぐると回る。どれだけ転がったのだろう。そのうちに、仰向けになって止まれた。さっきとは違う意味で目が回って、瞬きをする度に星が散る。胸が苦しくて肩で息をした。体の芯から熱が上がってる。
 湿った緑と土の匂いがする。ようやく落ち着いた視界で見上げた先には、高い枝葉と青空が見えた。
「……そとだ」
「お見事! 感情の乗った良い台詞だったよ」
 視界の外から、ピエロさんが顔を覗かせた。さっき見たのと同じ、にっこりとした笑顔だった。口を開こうとしたら、まだ整い切ってない息が喉で詰まって咳込んでしまう。
「ゆっくりでいいよ。追っ手はいないし、周りに気配も無い。物語にも、緩急は必要だからね」
 目を閉じて、上がった息を少しずつ落ち着かせていく。荒れた呼吸のせいで喉や胸の奥がひりひりと痛かった。深呼吸が出来るくらいになってから目は閉じたままで、改めて口を開いた。
「おわれるひつよう、あった?」
「物語の始まりは分かりやすい方が良い。けど、その様子だとお気に召さなかったかな?」
 お気に召さなかった、なんてものじゃない。本当に怖かったのだ。もしも途中で捕まっていたらと考えたら、今でも背筋が震えて、目の奥がじわりと痛くなる。
 体だけを起こして、目を開ける。ピエロさんは傍でしゃがみ込んで、私の事を見下ろしていた。私は、相変わらず口だけ笑っているピエロさんを、じっと見た。喋ると声が震えそうで口を開けなかった。涙が落ちそうで瞬きも出来ない。
「……おっと、これは想定外だな」
 私の様子に気付いたピエロさんは、驚いたように一瞬だけ目を見開いた。それから、今度は困ったような笑顔を浮かべる。
「ごめんね、次からは気を付けるよ。だから機嫌を直してくれるかい?」
 私は立ち上がって、洋服に付いた草や土埃を軽くはたく。髪もはたこうとして、リボンの事を思い出した。髪型を崩したくなくてピエロさんに背中を向けると、手早く丁寧に整え直してくれた。
 振り返って、もう一度ピエロさんを見る。屈んだまま私を見上げるピエロさんは、眉を八の字に下げて本当に困っているように見えた。追いかけられたのは本当に怖かった。本当に怖かったけど、あんまりへそを曲げても大人げないかもしれない。
「……もうしない?」
「もちろん。主役であるあんたが楽しめないシナリオじゃ、良いものとは言えないからね」
「じゃあ、もうだいじょうぶ」
 袖で目元を拭こうとすれば、ピエロさんは軽く手首を捻ってハンカチを差し出してくれた。刺繍も何も無い、真っ白なハンカチだった。一体何処から出したのだろう。取り敢えず受け取って、落ちかけていた涙を拭く。そこまでして、ようやく本当に一息を吐けた気がした。
 顔を上げて、改めて周囲を見回す。ここは森の中だろうか、人影は無い。足下には、柔らかい草が絨毯のようになっていた。倒木もあちこちにあった。そのほとんどは緑の苔で覆われていて、その辺りは良く日差しが差し込んでいる。道のようなものは見当たらないが、倒木のお陰で見通しはとても良い。露で濡れた空気はひんやりとして、静かで、落ち着く雰囲気がある。
 視界の端で何かが輝いた気がした。振り返り、木々の合間をじっと見つめてみる。木々を越えた先に、何かが光っている。その方向を指差して、ピエロさんに教える。
「あっち、なんかあるよ」
「そうかい? それじゃあ、行ってみようか」
 足首程も無い草を踏みしめて、ピエロさんと一緒に光の方へ向かう。途中、後ろを振り返ってみたが、あの屋敷に繋がっていそうな道はどこにも見当たらなかった。私はいつの間に外に出ていたのだろう。気になったが、夢の内容に理由や正しさを求めても仕方ない。気分を切り替えて前を向く。
 そこまで時間も掛からず、目的の場所に辿り着けた。木陰が途切れた先には、森を大きくくり抜いたような湖があった。そよ風が起こした穏やかな波が、日差しを受けきらきらと輝いている。さっき見た輝きの正体はこれだったのかもしれない。
「ここに見覚えはあるかい?」
 ピエロさんの質問に首を振る。もしかしたら、さっきみたいに急に思い出すかもしれない。でも今は何も思い出せないし、何の見覚えも無かった。
 ピエロさんは、考え込むように腕を組んだ。それから、何かを思いついたのか湖に近付いていく。つられて私も着いていくと、涼しい風が髪を揺らした。
「よし、少し休憩にしよう。事を急いても良い結果が出るとは限らないしね」
「わたし、つかれてないよ」
「おや、そうかい? それなら作戦会議にしようか」
「さくせんかいぎ?」
「今までの事と、今の状況と、これからすべき事を確認するんだ」
 作戦会議という、普段ではあまり聞き慣れない言葉に少し胸が高鳴る。湖の畔に腰を下ろしたピエロさんにならって、私もその向かいにぺたりと座った。内緒話をするように頭を寄せる。
「さて、今までに何が起きたか。どれくらい覚えてるかな」
「えっと、ゆめからでられなくなった。それで、えほんのおやしきをあるきまわって、ピエロさんがおはなしをしゃべったら、そとにでられた」
「うん、その認識で大丈夫かな。理解に問題は無さそうだね」
 ピエロさんは私の答えに頷く。どこからか拾ってきた石ころをいくつか、私の前に並べた。石ころはどれも平たく、不自然なでこぼこがあった。まるでパズルのピースのようだ。
「私の推測を元に、状況を整理しよう。この夢は、あんたが読んだっていう絵本が元になってるんだろう。ただ、あんたは絵本の内容を忘れてる。だからシーン毎の繋がりが切れて、それぞれが出口の無い迷路みたいになってたんだ。最初の屋敷みたいにね」
 ピエロさんは石ころのピースを持ち上げて、手の平の中でくるくると回す。
「おやしきからでられたのは、どうして?」
「外に出る為の展開を作ったからさ。それをあんたが聞いて、想像してくれれば、世界はその通りに動く。この夢の主はあんただからね」
 動く甲冑や這いずる絵画を思い出した。ピエロさんの話を聞いてから動き出してきたのは、主人公の女の子を追い詰める召使い達の事を想像したから、ということなのだろうか。
 ピエロさんは手にした石ころを、地面に置いたままの石ころとくっつける。二つの石ころは、それぞれのでこぼこがぴったりと合わさっている。
「仮説を元に動いて、予想通りにシーンが動いた。つまり、これで間違いない訳だ。それじゃあ、私達がすべき事は?」
「……おはなしをすすめて、ゆめからさめるさいごにすること?」
「así es!」
 ピエロさんは、残りの石ころ同士もくっつけた。でこぼこの石ころは一直線に繋がって、長い石になる。
 夢から出るには、話を考えてくれるピエロさんの協力が必要不可欠らしい。次は追いかけられるような話じゃないと嬉しい。もうやらないとは言ってくれたけど、それでも少し身構えてしまう。
 やる事は決まった。ピエロさんは考え込むように長い石を指先で突っつく。それから石の端を爪で軽く弾くと、私の方を見た。
「それでは、お嬢さん? 何かリクエストはあるかな」
「リクエスト?」
「何が好きで、何が苦手なのか。さっきも言ったけど、主役が楽しめない脚本はただの脚本家の独りよがりだ。そういったものは総じて、観客も置いてけぼりにする。とてもじゃないけど、良い物とは言えない」
 私の好きなものを、お話の中に入れてくれるという事だろうか。好きなもの、といきなり聞かれても答えに困ってしまう。
 私は長い石をじっと見て、見つめて、それからやっと口を開いた。
「もうちょっと、かんがえてもいい?」
「もちろん。急かすつもりもない。ゆっくり考えてよ」
 ピエロさんは軽く腰を上げると、湖に向き合うように座り直した。私もそれを真似てピエロさんの左隣に座り直す。膝を抱えて眺める湖は、鳥の声も虫の声もしない。どこまでも穏やかで、静かだった。
 何となく、気付かれないようにそっと右隣を見てみる。ピエロさんは片膝を立てて、私と同じように湖を眺めていた。顔の横で結ばれた銀色の髪が、風に揺れてきらきらと光って見える。左側から見える目は、黒の中に赤い瞳があった。自分でピエロを名乗った割に、メイクをしてないし恰好もそれっぽくない。目の下のバーコードのせいか、人間というより人形のように見えてしまう。左腕はきっと機械なのだろう。生身でも難しいのに手品がとても上手で、手先が器用だと思った。
「そんなに見つめて、そのうち穴が開いてしまうよ」
 掛けられた声に、はっと顔を上げたら赤い瞳が私を見ていた。何も悪い事はしていないのに、何だか居心地が悪くなってしまう。それでもどうしてか目が逸らせなくて、どうにかしてこの状況を誤魔化したかった。
「ピ、ピエロさんは、どこからきたの?」
「というと?」
 力を入れ過ぎて声がひっくり返ってしまったが、ピエロさんは特に気にしてなかった。お陰で、目を逸らすことが出来た。
「さいしょに、『まぎれこんだ』っていってたから。ちがうところからきたんでしょ?」
 私が初めてピエロさんを見た時、ピエロさんは「ここに紛れ込んだ」と確かに言っていた。迷い込んだ訳じゃ無いのなら、何か用事があってここに来たのだろうか。それとも何かに巻き込まれた結果、私の夢に閉じ込められてしまったのだろうか。
「あれ? でも、ここはわたしのゆめだから……。ピエロさんは、ほんとうは、いない……?」
 そもそも、もしかしたらピエロさんも私の夢の一部なんじゃないだろうか。だってここは私の夢の中だ。だとしたら、私は独りで目覚められなくなっているのだろうか。軽い気持ちでした質問が、自分の中で勝手にどんどん膨らんでいってしまう。勝手に回り続ける頭に訳が分からなくなっていると、隣から小さな笑い声がした。
「あんたの言う通り、私は他所から来たんだ。頼まれ事があってね。それも半分は済んだ。あとはこの夢から覚める事が出来れば、ミッション完了さ」
「やることって、なにをしてたの?」
「さて、何だと思う?」
 分からないから聞いたのに、質問に質問で返されたら何も言えなくなってしまう。ピエロさんは分かりやすい笑顔を浮かべていた。たぶん、これ以上は答えてくれない気がする。しょうがないので、それ以上は聞かないようにした。
 ピエロさんと喋って、少し心に余裕が出来た気がする。改めてリクエストを考える。リクエスト、と言われてもどういうものが良いのか分からない。好きなものと聞かれても頭に浮かぶのはぼんやりとしたものだけで、どうにも言い表せそうになかった。代わりに、嫌いなものははっきりと言葉に出来そうだった。
「くらいのとか、こわいのとかは、きらい。ひとりぼっちもやだ。おいかけられるのは、こわかったからだめ」
「分かった、次からは気を付けるよ。他は何かあるかな」
「ほかは……、えっと……」
「上手く考えがまとまらない時は、考え方を変えてみるといい」
「かんがえかた?」
「何が好きかより、何が見たいか、やってほしいか。そんな風に考えてみるのさ」
 見たいもの、やってほしい事。そういう考え方なら言葉にしやすい気がした。
 隣を振り返って、ピエロさんを見る。黒い右目は初めて見た時より怖くは無いと思った。慣れてしまえばなんてことはない。少し変わった色をしているだけだ。
 この不思議な夢から覚めるには、ピエロさんに話を考えてもらわないといけない。だけど、そんな大変な事だけを押し付けて私だけ楽しい思いをするのは違う。そんなの、私は楽しくない。
「ピエロさんも、たのしいおはなしがいい」
「私かい?」
「いっしょにいるのに、わたしだけたのしいのは、へんかなって」
 折角同じ夢を見ているのだから、二人で楽しんだっていいと思う。だってここは私の夢なんだから。
 私の言葉を聞いたピエロさんは、瞬きを何回か繰り返してから小さく笑った。苦笑いのような、呆れたような顔だった。
「全く、いつだってあんたには驚かされるね」
「だめだった?」
「まさか。お嬢さんに気にかけてもらえて嬉しいよ、とてもね」
 ピエロさんは緩く頭を振る。その顔は、今度は何だか面白いものを聞いたような表情になっているように見えた。そんなにおかしな事だったのだろうか? でも断られはしなかったから、これはこれで良かったのかもしれない。
「さて、方針も決まったところだし、そろそろ続きを語ってみようか。心の準備はいいかな?」
「うん。だいじょうぶ」
 私の返事を聞いてから、ピエロさんは笑顔を作った。私も、どきどきと鳴る心臓を服の上からさり気なく抑えてみる。
 ――お屋敷から飛び出した女の子。走って走って、ようやく辿り着いたのは森の湖でした。森を抜け、湖を滑るように吹く風は涼しいものです。女の子に抱えられたままの人形は言います。
『ここで少し休んでいこう。ボク達の冒険は、まだ先が長いからね!』
 お屋敷からここに来るまで、女の子はずっと走り続けていました。人形の言う通りに、涼しい風を浴びながら一息つきます。そうしてから人形に聞きました。
『あなたはどこから来たの? どうして私を助けてくれたの?』
 人形は笑って答えます。
『キミと遊びたかっただけさ!』
 ピエロさんは、まるで目の前に本があるように、するすると話していく。ピエロさんはとても話し方が上手だった。耳が痛くなる高さでも、聞こえにくい低さでもない、丁度いい声は聞いていてとても気持ちが良い。なんだか、とっくに忘れていた疲れが眠気になって近付いてくるような気がする。ピエロさんの話を聞きながら、瞼が落ちかける。
[エラー、エラー、イレギュラーヲカクニン]
 突然聞こえた謎の声に肩が跳ねた。アナウンスのような機械の声は、何を言っているのかよく分からない。慌てて周りを見渡しても何もいない。隣を振り返ると、いつの間にかピエロさんは立ち上がって、何かを真っ直ぐ見ていた。
「このまま出てこないものだと思ってたんだけどね」
[イレギュラーガアタエルシステムヘノエイキョウ、ソクテイフノウ。ハイジョヲカイシシマス]
 森がざわめき始める。爽やかだった風は、不気味な気配を運んでくる。さっきと全く変わってしまった、冷たく重い風がとても怖い。追い立てられるように立ち上がる。急激に変わっていく周りに、ピエロさんの上着を握りしめて後ろに隠れた。
「な、なに、?」
「心配する事は無いよ、悪い奴じゃないんだ。ただ、ちょっとだけ融通が利かなくてね。あんたをまだ、この夢から覚ましたくないらしい」
 何が起きているのか、全く理解出来ない。世界に置いていかれているような感覚が恐ろしい。足が震え始めてしまった私を見たピエロさんは、小さく口を開いた。
 ――すると、湖から声が聞こえました。
『可愛いお嬢さん、私達と一緒に遊びましょう』
 不思議な声に、女の子は答えます
『でも私、水の中で息は出来ないよ』
 不思議は声は答えます
『大丈夫、私達のお客さんなら自由に過ごせます』
「ピエロさん……っ?」
「私は少し、この頭でっかちと話をしてくるよ。少しの間、一人になってしまうけど我慢出来るかな?」
 ピエロさんのやろうとしている事が、どうしてか分かってしまった。握り締めた手に、もっと強く力を入れる。
「ひとりはいやだって、わたし、いったよ」
「独りにはしないよ。私もこの夢からは覚めたいからね」
 森のざわめきはどんどん大きくなっていく。周りからは金属が擦れる音が聞こえてきた。どんどん近付いてくる。風もどんどん強くなって、耳元がうるさい。
 ピエロさんの言葉に、きっと嘘は無い。でも、怖い。とても怖い。何が起きているか分からないのが、泣いてしまうくらいに恐ろしい。どうしたらいいのか分からなくて、頭の中がぐるぐると回る。それに振り回されそうになって、足を踏ん張って目をぎゅっと瞑った。
「……そうだな。それじゃあ、頼み事をしようか。あんたにしか出来ない事だ」
 ピエロさんの言葉は、うるさい風の中でもはっきりと聞こえた。恐る恐る目を開ける。ピエロさんはしゃがんで、私と目を合わせていた。赤と金の瞳の中に、私が映っている。ピエロさんは上着を握り締めていた私の両手を解いて、代わりに自分の両手を差し出す。
「さっきも言った通り、私は少しあれの相手をしてくる。あんたにはその間に、ここを切り抜ける手段を見つけてきてほしい」
「しゅだんって、どんな?」
「なんだって構わないよ。あんたが思いつくものなら、それが最善の手だ」
「そんな、わたし、できないよ」
「出来るさ、心配する事は何も無い。だってここはあんたの世界なんだから」
 心配が無い訳がない。そんなの私だって分かる。けど、そんな事を言ったってしょうがないのも分かってる。それに、ピエロさんは「私にしか出来ない」と言った。だったら、それは私がやらないといけない事だ。大事なのは、今、私にしか出来ない事があるという事だけだ。
 握り締めた手をどうにか離して、零れそうになった涙を袖で乱暴に拭く。それからもう一度、歯を食いしばってピエロさんの目を見た。
「すぐに、もどってくるからね」
「気長に待ってるよ」
 後ろを振り返って、数歩進む。風に吹かれた湖が波立って、靴の先を濡らした。上から覗いても、中の様子は見えない。それでも躊躇ってる時間は無い。首だけでピエロさんを振り返る。ピエロさんは口だけで笑って小さく手を振っていた。その素振りに、少し肩の力が抜けた。
 改めて水面と向き合う。大きく息を吐き出してから、深く息を吸い込む。両手で口と鼻を押さえてから、目を力一杯瞑って、思いっきり湖に飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
 ざぶん!
 静かに体が沈んでいく。何も聞こえない。水の中にいるのに、全身を包むような冷たい圧迫感は無い。そろそろと瞼を上げても、水で目が痛む事も無かった。口と鼻を押さえてた手を放しても、地上と変わらず呼吸が出来た。足下を見下ろすと白いスカートがふわりと広がっていて、まるでクラゲみたいだと思った。
 湖は思っていたよりずっと深い。ゆっくりと沈んでいく先は真っ暗で何も見えない。まるで大きな口を開けて、私を飲み込もうとしているみたいだ。何も無い暗闇に沈むしかない事実に背筋が凍る。気をしっかり持っていないと息が止まってしまいそうだ。
(こわがってるばあいじゃない! でもこわいよ!)
 こんな状況では、とてもじゃないが解決策なんて考えられない。どうにかして、パニック一歩手前の頭を落ち着かせないといけなかった。
 目の前の光景を、世界を思うままに変える。方法は分かってる。でも、上手く出来るかは分からない。だって今まではピエロさんが手伝ってくれていた。でも、今は一人でやるしかない。
「えーと、えーっと……!」
 力一杯目を瞑って、何とか集中しようとする。思い浮かべるのは、今の状況と真逆の事。明るくて、暖かくて、カラフルな魚がたくさん泳いでいる光景。だけど、そうやって考えれば考える程、暗くて冷たくて真っ黒なものが頭の中にはっきりと浮かんできてしまう。だから、目を開けても状況が変わっている事は無かった。
「ど、どうしよう……」
 たった一人、真っ暗闇の中で、不安が小さな泡と一緒に口から零れた。このままじゃピエロさんを助けに行けない。直ぐに戻ると言ったのに、これじゃ約束を守れない。あんまりにも情けなくて涙で目の前が歪む。息も上手く吸えなくなって、だんだんと胸が苦しくなる。身動きがだんだんと取れなくなっていく。
 その時、頭の上から何かが下りてきた。私と同じように、ふわふわとゆっくり下りてきたものを、咄嗟に両手で受け止める。それは小さなピエロの人形だった。ボタンで出来た両目は赤と黄色の色違いだ。
 ふと、ピエロさんの言葉を思い出した。
『上手く考えがまとまらない時は、考え方を変えてみるといい』
 私は、怖いものを消してしまいたかった。だから全部を変えてしまおうとした。でも上手くいかなかった。
 人形をぎゅっと抱き締める。考え方を変える。どうして怖いものを消そうとしたのか? そうじゃないと、安心してピエロさんを助ける解決策を探せない。という事は、安心して考え事が出来る状況だったら大丈夫ということ。
 ……怖いのを全部無くすんじゃなくて、安心できる何かを作り出す?
 ――視界の端で、小さな光が通り過ぎた。振り返ってよく見てみる。それは、手の平に乗るくらいの小さな魚だった。しかも、魚の形をしたビーズ細工だ。スパンコールで出来た鱗がきらきらと光っている。
 魚は私に鱗を自慢するように、目の前をくるくると回る。その内に飽きたのか、私の傍を通り過ぎていった。その動きを追ってまた振り返ると、目の前に広がる光景に、瞬きを忘れてしまった。
 さっきまで何も無かった真っ暗闇に、今は色とりどりの灯りがたくさん浮かんでいた。大きな灯りの間を、たくさんの小さな光が行ったり来たり飛び交っている。ゆっくりと泳いで、光に近付いてみる。大きな灯りは、様々な大きさと形のビーズで作られたサンゴやイソギンチャクだった。私よりも大きなビーズ細工だ。透明な枝や、ゆらゆらと揺れる触手が、内側から光って辺りを照らしている。その間を泳ぐたくさんの小さな光は、さっき見た魚達だ。スパンコールの鱗がサンゴやイソギンチャクの光を反射して、より強く輝いている。まるで流星群の降る満天の星空みたいだ。そう考えれば、さっきまであんなに怖かった暗闇もどうという事は無い気がしてきた。星が綺麗に輝くには夜の暗さが必要だ。だったら、必要以上に怖がる事も無い。
 灯りの間を通り抜けるように泳ぐ。仄明るい灯りに囲まれて、だんだん冷静さが戻ってきた気がする。改めて、私に出来る事を考える。私が怖いものを全部片付けられるように物語を作るのが、一番手っ取り早いと思う。でもさっきの事を考えると、私にはそういう事は出来ないと思った方が良いかもしれない。物語を前提から大きく変えるには、話の展開や繋がりを良く知っていないといけないんだろう。それにピエロさんは「切り抜ける手段を見つけてほしい」と言った。だったら、無理に倒す必要は無い。今の状況からどうにかして抜け出すだけでいい、と思う。
「でも、どうしたらいいんだろう」
 私達を取り囲んだ不気味な雰囲気を思い出す。走って逃げてもアレを振り切れないという、不思議な確信があった。そもそも振り切れるなら、ピエロさんはとっくにそうしてたかもしれない。いっそ、ピエロさんもここに呼んでみようか? でも、ここからはどこにもいけない気がする。危ない状況を切り抜けられたとは言えないと思う。
 解決策が思うように見つけられず、だんだん背筋と足の裏がむずむずしてきた。その感覚にじっとしてられない。堪らず、より深くまで潜る。どこまで進んでも、ビーズ細工の灯りが無くなる事はない。むしろ潜れば潜るだけ暗闇が深くなって、本当に星空に浮かんでいるような気持ちになってくる。
 仰向けのまま、ずっと遠くを見上げながら沈む。すると、どこからか音が聞こえた。水中を全部震わせる、お腹の底からびりびりするような低い音だ。人形を抱え直してから体を起こして、辺りを見回す。うっすらと明るい水中の向こうから、何かが近付いてくる。ゆっくり、ゆっくりと迫ってくるそれは、私の目の前で止まった。とても大きな体は視界に入り切らないくらいだ。つやつやと光を反射する体は、どうやらブリキで出来ているらしい。ブリキの周りを泳いで、よく観察する。平たい頭に、大きく膨らんだ喉元。背中には大きなネジ巻きが付いていて、大きなビー玉の目には私の姿が映り込んでいた。
「もしかして、クジラさん?」
 ブリキのクジラさんは返事をするように、大きくて低い声で鳴いた。それからお辞儀をするように頭を下げると私の下をくぐって、そのまま頭に乗せてくれた。クジラさんの背中には穴が一つ開いていて、中を覗くとビーズやスパンコールがたくさん入っていた。……閃いた。もしかしたら、これでピエロさんを助けられるかもしれない。横にも下にも逃げられないなら、上に行けばいいのだ。いつの間にか、ピエロの人形はどこにも無くなっていた。
 クジラさんは速度を上げて、どんどん上へと昇っていく。クジラさんの背中にしがみついて、揺れと速さに耐える。たくさんの灯りが、上から下に通り過ぎていく。その内、ビーズ細工の生き物達ではない光が水中を照らし始めた。クジラさんはもう一度鳴くと軽く沈み込んでから、勢い良く外へと飛び出した。
◇ ◇ ◇
 ざばぁん!
 ようやく湖から出てこられた。どうしてか服も体も、どこも濡れてなかったけど今はそんな事どうでもいい。クジラさんの上から辺りを見回す。飛び出した勢いで一面水浸しだ。不気味な機械が、取り囲むように森からどんどん出てきている。その真ん中で、ピエロさんが見慣れない武器を使って戦っていた。突然の大波に驚いたのか、武器を振る手は止めずにこっちを振り返っている。
「おーい!!」
 何とか気付いてもらいたくて、立ち上がって大きく思いっきり手を振る。私に気付いたピエロさんは、何かを言った後にこっちに向かって走り出した。邪魔をしようと手を伸ばしてくる機械達に捕まりそうになっても、鞭みたいにしなる剣と軽い身のこなしでどうにかやり過ごしてる。まるで踊っているみたいだ。
 足下が震え始める。そろそろクジラさんが限界だ。まだピエロさんは辿り着けていない。後ろから不気味な機械達も、がちゃがちゃと音を立てながら迫ってくる。クジラさんの震えはどんどん大きくなる。早くしないと置いていってしまう。
「はやくー!!」
 緊張で心臓がどくどく煩い。服の上から胸元を握り締める。まだ遠くにいたピエロさんは、こっちに向かって武器を振った。長く伸びた剣の先がクジラさんの背中に引っ掛かる。ピエロさんが跳ぶのと同時に、剣が凄い勢いで縮まった。ピエロさんは凄い勢いで飛んできたと思ったら、次の瞬間には片膝を付いて静かに着地していた。
「ピエロさんっ、あのねっ」
「積もる話は後にしよう。少し失礼するよ」
 ピエロさんは片腕で私を抱え上げると、クジラさんの背中を走った。落ちないようにピエロさんの首にしがみつく。風が耳元でびゅうびゅうと鳴っている。景色がどんどん通り過ぎていく。とても速いのに、どうしてか全然揺れなかった。
 ピエロさんの足は直ぐに止まった。私達が背中の穴に到着した途端、クジラさんが我慢の限界を迎えた。
 ぶしゅうー!
 ブリキのクジラさんは水と一緒に、背中の穴に溜まっていたビーズとスパンコールを噴き出した。ピエロさんはそれに飛び乗って、空高くへ打ち上げられる。その勢いに堪らず私は力一杯目を瞑って、もっとピエロさんにしがみついた。
 ……勢い良く持ち上げられる感覚が無くなって、周りから聞こえていた耳に痛い金属の音もしなくなった。感じるのはピエロさんの体温と、ふわふわとした不安定な感覚だけ。それでも目を開けずに手元の感触を放さないでいると、ピエロさんが私の肩を軽く叩いた。
「もう大丈夫。怖いのはいなくなったよ」
 ピエロさんの言葉に、恐る恐る瞼を開けてみる。滲んだ視界が少しずつはっきりとしてきて、ようやく周りの事が見えた。
 見渡す限りの黒だった。そこに絵に描いたようなカラフルなお星さまがたくさん浮いていて、ゆっくりと流れている。お星さまに囲まれて、私達もふわふわと浮いていた。さっきから感じていた不安定さはこのせいだったのかもしれない。
 そうしてようやく、あの不気味な空気から逃げられた事を実感した。私は任された事を、ちゃんとやり遂げられた。そう思ったら胸の中でずっと張り詰めていた何かが、音を立てて切れてしまった。鼻の奥がつん、としたと思ったら目の前が滲んで、あっという間にぼろぼろと零れ落ちてしまう。ピエロさんは片腕で抱えていた私を体の正面に抱え直すと、背中をさすってくれた。
「こ、こわかったぁ……」
「あんたの素晴らしい機転と勇気に拍手を送らせてもらうよ」
 ピエロさんの肩に額を当てて、両腕を使って思いっきりしがみつく。私の気が済むまで放してやらない事にした。それくらいしたって許されるくらい頑張ったのだ。
 ピエロさんは私を抱えたまま、ソファでくつろいでいるような姿勢で浮かんでいた。押し付けていた頭を少し上げて、肩越しに辺りを見てみる。相変わらずお星さまはゆったりと流れている。傍を通りかかったお星さまに手を伸ばしてみる。さらさらと手触りが良くて、握るとしっかりとしているけど柔らかさもあった。綿がぎっしりと詰まったクッションみたいだ。
「興味があるなら降りてみてもいいけど?」
「やだ」
「……だろうね」
 あの怖い機械達からは逃げられたけど、まだ夢から抜け出せてない。まだ冒険を続けなきゃいけない。そう分かっているのに、温かい温度に抱えられた安心感と疲れで、瞼が重くなってきた。眠気で目の前が霞んでくる。
「我慢してないで、眠ったっていいよ? ここは安全だからね」
「ん……、でも……」
「どんな勇士や英雄も、夜は眠るものだよ」
 だからね、とピエロさんは私の背中を緩くたたく。たたかれる度に、どんどん眠気が強くなってくるようだった。そのうち瞼も開けられなくなってしまった。ぼやけ始めた頭で、どうにか口を開く。
「ぴえろさん」
「ん?」
「おきても、いてね……」
「っふふ。ああ、仰せのままに。buenas noches. 良い夢を」
 ピエロさんの言葉に体の力が抜けた。私はやってきていた眠気に、そのまま体を預けた。
◆ ◆ ◆
 
 空中庭園、グレイレイヴンの控え室。朝に一度開いたっきりの扉は、そのまま静かに昼を迎えようとしていた。湯気を立てていたマグカップの漆黒は適温を大きく下回って久しく、飾り気の無いデスクには一向に無くなる気配を見せないファイルや書類の山脈があった。朝からずっとキーボードを叩き続け書類仕事と格闘しているが、傍らに置いた灰皿の中身が高くなっていくだけだった。
 時報が休憩時間を知らせる。時計を一瞥してから、改めて取り掛かっている最中の報告書を遠目に眺める。進捗は、あと三分の一程度といったところだろうか。これなら少し時間は押してしまうが、これだけでも終わらせてしまった方が切りが良い。気合いを入れ直そうと、とっくに冷めたマグカップに手を伸ばす。しかし、それは持ち上げようとしたマグカップを上から押さえる手に遮られてしまった。思わず顔を上げると、湯気の立つマグカップを手にしたロランが薄っすらと笑っていた
「あや、おかしいね。ここの時計は全部早く動いてるのかな」
「あとちょっとなの。これをやったらちゃんと休むから」
「またアレの機能テストに付き合うつもりなのだとしたら、過ぎた事を言ったね」
 
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8月の新刊(part2)
初公開日: 2025年05月14日
最終更新日: 2025年06月22日
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コメント
※アーカイブ視聴は16倍速&カット機能使用を推奨します。
8月のオンリーに出すロラ指新刊の進捗記録です。奥付かどこかに合言葉を書いておくので、それで見れるようになると思います。
8月の新刊(part2.5)
※アーカイブ視聴は16倍速&カット機能使用を推奨します。8月のオンリーに出すロラ指新刊の進捗記録です…
アキ
8月の新刊(part3)
※アーカイブ視聴は16倍速&カット機能使用を推奨します。8月のオンリーに出すロラ指新刊の進捗記録です…
アキ