ゴールデンウィークはなんか全体的に引きこもり&タルコフスキー漬けになりそうだったのでこりゃいかんというわけで行ってきましたなんばパークスシネマ。
今日見てきたのはこの作品!
小説版を読んだのでいざ2周目!と思ってるうちにゴールデンウィークになってしまい、気がつけば席もかなり早く埋まってしまってましたが、なんばパークスシネマが空いてたので見に行くことに。
なお、T・ジョイ梅田では応援上映もやってたようですが、2周目は普通に見たいのとなんでも立川シネマシティでの応援上映があんまりよろしくなかったというのでちょっと警戒してました。ちなみにわたくし人形使い、実は応援上映は塚口しか参加したことがないんですよね。twitter(頑なにXとは呼ばない)にて漏れ聞こえる応援上映の話からは、ほかのところではけっこうトラブルやトラブルと言うほどでもないけどちょっとした不満点があったという話をよく聞くので……。
特に、アニメだと盛り上がりが高じて自分が目立とうとしたり関係ない発声があったりというトラブルが多い印象。なので塚口以外での応援上映への参加はけっこう警戒度が高いです。活動範囲を広げてみたいとは思いますが……。
さておき、2周目ですよ。もはや我々(と書いてシネフィルと読む)にとっては同じ映画を何回も見るのは当たり前の仕儀となっているわけですが、その理由の一つに「同じ作品でも何回も見ることで見えてくるものが違ってくる」があります。
特に今回は作中の仕掛けが全部ネタバレしてるうえに、補完資料としての小説版も読んだあとなので、1周目とはまったく違うものが見えてくることはコーラを飲んだらゲップが出るくらい確実というかそれを期待して見に行きました。
それで感想なんですが、思いっきりコミカルかつギャグ描写に寄せている前半部分、ネタバレ状態で見てみると全ッッッッッッ然笑えない……。
これは以前の日記で書いた小説版の感想でも言いましたが、描写こそコミカルかつギャグですがこの状態の彩葉ってもう限界なんですよね。そしてなまじ彩葉が優秀で危険信号を出さないし周りも優しいもんだから止める人がいないという詰み確定の状態からスタートしてるですよね本作。まさに本家かぐや姫の通り。
SNS上では本作に対して「葛藤や挫折がないストレスフリーな作品」「彩葉が完璧超人過ぎてリアリティがない」といった感想もあるようですが、これに関してはこの前半部分の「コミカル偽装」が成功してるがゆえだと思いました。
そしてこの「コミカル偽装」、おそらくは意図的に時限式でメッキが剥がれるように計算されていると感じました。これ、「何回も見ることで、あるいは外部情報を得ることでバレる」のではなく、「作品側が自然にバラす」というかなり高度なテクニックだと思います。「バレる」と「バラす」は似てるようで決定的に異なりますからね。わたくし人形使いはいわゆる「考察」は好きなんですが、あまりにも作品の外側に隠し要素が多いと「いやそれ作中でわかるようにしろよ!」と思ってしまいます。これをあんまり露骨にやられると作品への信頼度が下がるんです。なので、あくまで作中でこのメッキを自ら剥いだという点で、この「超かぐや姫!」という作品への信頼度が上がりましたね。
そして本作には、もうひとつの「コミカル偽装」があります。ヤチヨです。
1周目は当然なにも知らないので「そういうキャラなんだな」ですが、2周目となると全部ネタバレしてるので、仮想空間「ツクヨミ」の管理人としてまた大人気AIライバーとして民衆に笑顔を振りまく彼女の振る舞いの薄皮一枚隔てた向こうに8000年分の断絶と孤独があることがわかってしまうんですよね。なのでもう冒頭から中盤までのコミカルパートのヤチヨの一挙手一投足が悲しいという……。
でも、ではヤチヨのあの笑顔と振る舞いは表層的な仮面に過ぎないのか? 偽りの姿なのか? と問われれば答えはNOでしょう。たしかにあの楽しげな笑顔の向こう側にはそれ以外の感情もあったことでしょう。しかし、ツクヨミにて彼女が現実に生きる人々を熱狂させ元気づけていることは紛れもない現実です。そう、「人間は虚構を信じられる唯一の存在」。
本作を構成する要素のひとつが「Vtuber」。これ、ただ単に流行してるからとかではなく、まさにこの「信じる意味と価値のある虚構」という部分にVtuberという文化が合致したからこそこの要素を入れたんじゃなかろうかと感じました。
彩葉にしたって、ヤチヨカップをきっかけにライバーとして活動を始めることで「酒寄彩葉」ではなく「いろP」という新しい人間(アバター)としての側面と存在を得たことで、「酒寄彩葉」のままだったら進めないストーリールートを開放したし、なにより「酒寄彩葉」であること以外での価値を得ることができた。自分以外のアバターを装い、自分以外のキャラクターとして振る舞うVtuberという文化は、本作では一種の「生まれ直し」として機能しているようにも思えました。
「Vtuberとしてこれまでの自分とは違った形で生まれ直す」というのが本作の持つ「生」の要素であるなら、「死」の要素もどこかにあるのではないか。あるんですよね。
それが作中での唯一の死者である彩葉の父。
幼かった彩葉がかつて父と一緒に作った未完成のワンフレーズが作中で重要な役割を果たすのはみなさん知ってのとおり。思うに、この未完成のワンフレーズがずっと彩葉のPCの中に残っていることこそ、彩葉のいわゆるJ・ボウルビィ言うところの「喪の作業」が終わっていないことの証明だと思います。
作中で母親の言葉が彩葉の自我を縛っていることは明白ですが、死者である父もまた、まだ「喪の作業」が終わっていないことを示すこの未完成のワンフレーズという形で彩葉の中に残り続けていると感じました。
そして作中で、かぐやとの出会いを経て自分を見つめ直した彩葉がずっと避けていた母親との対峙を経てその執着と束縛を断ち切ったように、この未完成のワンフレーズをかぐやとともに完成させたことで死んだ父に関わる「喪の作業」を終え、執着と束縛も断ち切ったのだと思います。言い方を変えれば、この未完成のワンフレーズを完成させたことで「死んだ父」という亡霊を成仏させたとも言えるかも。
しかもここから本作に登場するさまざまな楽曲の中でも特に重要な役割を果たす「Remenber」と「Reply」が生まれたことを考えると、この「死んだ父という亡霊を成仏させる」という行為が此岸の住人たる彩葉と彼岸の住人たるかぐや・ヤチヨを結びつけたとも言えるでしょう。
はあー……やはり本作は複数回、さまざまな角度で見てみるべき作品だと思いますがネタバレ状態での前半部分こそが逆説的に辛い、とてもつらい。公式ガイドブックとコミック版、あといっそのこと元ネタの竹取物語も読み返してみるか。