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「解け落ちた氷の話はどうだろう」と誰かは言った。
視界は暗闇の中にあった。そんな悔やみの中にあるのは、俺が目を閉じていたからだった。目を開けて臨んだ景色の中には、ひとつの劇場がある。
主役のように、いや、もしくは語り手のように劇場の舞台の真ん中には、ピエロをかたどったらしい色白の人形が目の前にある。それは一つの感激であり、俺はどうやら観客のようだった。
色白に奇抜な赤と黄色の縞模様を着ているピエロの人形は、あくまで主演であるはずなのに、観客である俺に対して話しかけてきていた。機械じみた口を器用に動かしながら、まるでそれは本当にひとつの命なのではないか、そう思わせるほどの歪さを醸し出している。異様な空気に彩られている目の前のそれを、俺はただ恐怖と不快な気持ちで見つめていた。
人形はそんな俺の視線をにらみ返してくる。表情こそは笑顔であるものの、そこには敵意が混じっているようにそう感じた。
「氷塊とは一つの物質の個体的反応に過ぎない。水が温度の効果によって変化したものである。それ以上も以下もないが、それ以上でも以下でもある」
中学生の時に学んだ事柄の一つを、それは俺にちらつかせてくる。今さらどうという話でもないのに、どこか大人ぶった口調に対して、俺はだんだんと恐怖をかき消して苛立ちを覚え始めていた。
「さて、ここで解け落ちた氷の話をしよう。氷から解け落ちた雫の話をしようじゃないか」
くっくっく、と含みのある笑い声を人形は語りだす。あからさまに悪辣でしかない様子のそれに、俺は耳をふさぎたくなる。
──できなかった。
俺は椅子に縛られていた。椅子には腕を縛り付けるための有刺鉄線が敷かれており、がちがちに腕と足を固定している。そして、首から頭も同様に有刺鉄線、……いや、それ以上の冷たい感触をした鋼鉄の何かで拘束されている。俺は身体を動かすことはできなかった。
逃げ出そうとしている俺の様子を見たらしい人形は、改まって「効くがいい」と嘲りをあげた後、そうして言葉を並べていく。
「氷から解け落ちる作用は社会のそれに似ている。社会からあぶれ、そうしてはぐれてしまう姿によく似ている。それらはもともと同一の存在であったはずなのに、一度解けてしまえば、同一の存在として還ることはもうできない。融解してしまった存在は、落ちてしまったところに雫としてとどまるか、もしくは忘れてしまいそうな冷たさに浸ることしかできない」
さて、お前はどうだろうか。
人形はそう俺に聞いてきた。
俺に聞くしかなかったのだろう。ここには俺しかいない。この劇場には俺しか観客はいない。演劇者は人形でしかなく、その人形でさえも人としての存在を数える要素はどこにもない。だが、不気味に人間ぶっている姿は偽物だからこそ、本物よりも質が悪そうな雰囲気が滲み出ている。
俺は、人形の問いに答えることはできなかった。
あらゆるそれぞれは単独で存在している。人は最初から孤独でしかなく、かりそめの営みをもって集団というものを形成していく。それが氷塊、もとい社会たる要素であり、結局は群衆が集まることを意識して集められただけの偽物でしかない。
俺はそれからはぐれてしまった。はぐれていった。興味がないからそこから離れていった。失望したから離れていった。なにも期待する要素がないことを知って、裏切られることしかないことを理解してはぐれていった。
だから、俺はそれにこたえられない。
「そうだ」と人形は語る。
「お前は解け落ちた氷だ。お前はどこまでも解け落ちた氷だ。解け落ちた氷でしかない。だが、それはお前だけではない。お前だけではなく、あらゆる存在が解け落ちた氷なのだ。それぞれは孤独でしかなく、仮初の冷たさに浸ることでしか孤独を紛らわせることしかできない愚かな存在だ」
俺はそれに頷いた。きっと、誰もがそうだということを理解していたから。
「──お前は、またそれになるのか?」
人形は語り続ける。どこまでも嘲るように笑いながら、俺の様子をうかがって、その奥には殺意を込めた視線で俺を見つめている。
俺はそれがひどく恐怖の対象として映っていた。何もできない俺はここで殺されるのではないか、とそんなことさえ思っていた。
裏切るのか? と人形は俺に向けて呟いている、と思った。
「人は信じないに値する存在だ。この世界で信じることができるのは自分だけだ。自分だけしか信じることはできず、それ以上のものに信頼たる気持ちを抱くことは愚か者でしかない。期待をすれば裏切られる。裏切られるのだから疑ってかかる。そうすることでお前は生きることを続けてきたはずだ。
だが、最近のお前はどうだ。楽しそうでいいことだな。だが、それは許されるものだろうか。自分で自分を裏切るということにお前は気づいているだろうか」
心臓に針を向けられたような気がした。実際、人形の言っていることは正しいものであり、一度制約として定めた自分自身への縛りを取っ払おうとしている自分を、人形は嘲けていた。
「この世界には偽物しかない。本物はない。本物を定義するとすれば、それらは自分自身でしかない。自分だけだ、自分だけなのだ。ただそれだけしか存在しないというのに、お前はその唯一さえも裏切り、偽物にしていくのだろうか」
嘲るように人形は語りを繰り返した。
俺は、何も答えることができなかった。
◇
目覚まし時計の音が鳴っていた。五月蠅いと感じるべきはずの目覚し時計が音を立てていた。
俺の持っている目覚まし時計は電子音を知らせるようなものではなく、物理的な音を響かせるタイプで、近くに置けば自ずと目が覚めるくらいの喧しさがある。けれども、そんな音に意識が目覚めるわけでもなく、俺はただ意識を暗闇に置いていた。
どこか寝苦しい。間接に熱がわだかまるような、そんな硬さのある睡眠阻害に悩まされている。少し鬱陶しさを感じるような音が聞こえるものの、未だに眠り足りないと感じる眠気が意識に靄をかけていて、どうにも起きることはできない。
ああ、目覚ましが鳴っている。目覚ましが鳴っているような気がする。目覚ましが鳴っているのならば起きなければいけない。きちんと体を起こして、朝の支度をしなければいけない。けれど、別にここまで早くに行かなくてもいいのではないだろうか。常法寺も別に来なくていいと言っていたし、今日くらいは休んで、明日から切り替えればいいんじゃないだろうか。
よし、そうしよう。
決意は頭の中で固まった。もうほぼ目覚めかけの意識で、喧しく鳴り響く時計のほうへと手を伸ばす。指先が触れたのは、頭上にある木製のベッドのふちでそれではない。さらに手を伸ばして、ようやく俺は震えている目覚まし時計を手に取った。手に取ってから、改めてその五月蠅さを耳に入れて、しばらくため息をつく。
さっさと止めればいいのに、目覚し時計を布団の中に入れてみたり、もしくは手で押さえてみたりして、適当に目覚まし時計の存在のやり場を見出そうとする。五月蠅さの中にも目覚まし時計の本質のようなものが隠されているのではないか、そんなことを思って、未だにスイッチを押さないままで音だけを殺そうと試みている。
ただ、それでは眠れないことには気づいていたから、数十秒くらいしてからようやくスイッチを押す。手の中で震えていた目覚し時計も沈黙して、俺も寝る体勢を作っていく。
微睡の中に、そのまま意識を置き去りにして──。
「──翔也ー? いつまで寝てるのー?」
──みようとしたタイミングで、間延びした母の声が耳に届くのだけど。
◇
仕方ないから起きることにして、俺はキッチンのほうへと向かった。少し寝ぼけている調子が崩せないまま、俺は階段を下りるのに手すりへと体重をかけて下っていく。変に滑りそうになる足裏の感覚に驚きながら、それでもなんとか一階にたどり着いた。
どうやら昨日の帰りの疲れがいまだに残っているみたいだった。いつもとは違うルートで遠回りをするような道を歩き続けたせいだろうか、小学生の時の遠足の疲れみたいなものが高校生なのに足裏にたまっていた。
「寝ぼけてる?」と母さんは俺の顔を見てそう言った。
「うん、少し」
「……でしょうね。目が半開きよ?」
母は苦笑しながらも、確かに心配しているような眼差しで俺のことを見つめた。便乗するように、リビングのテーブルに座ってコーヒーを啜っている父も俺の顔を覗くようにした。
「翔也が寝ぼけているなんて珍しいんじゃないか?」
「そうねぇ。なんか学校であったの?」
心配するように、過保護に俺を監視下へと置くように。そんな雰囲気で父さんと母さんは呟いてくる。
「大丈夫だよ」と俺は返す。
「昨日、生徒会の先輩と夕食を一緒にしただけ。そのお店が結構遠かったから、疲れが出ちゃっただけだよ」
正直に昨日起きたことを言葉にして、そうして自分が嘘をつかずに両親へと向き合うことができている雰囲気に安堵をする。
嘘なんてつかないほうがいい。心地のよさがまるで違う。
頭の中でそんな台詞を何度も繰り返して、母と父の言葉に耳を傾ける。
「本当に?」
「翔也。何か嫌なことがあったりしたら、すぐに俺たちに伝えるんだぞ。なんなら今日は休むか?」
「そうよ? 私たちの大事な息子だもの。遠慮しないでいいんだから」
俺は彼らの言葉に「本当に大丈夫」と、同様に苦笑を混じらせながら返していく。そんな俺の様子にようやく彼らも安堵したようで、それならよかった、と返した後「今日も早いんでしょ?」と朝食の準備を始めていく。
……期待に応えなければいけない。
唯一信頼しているといっても過言ではない肉親の彼らの期待を裏切ることはできない。
だから、仮面を仮面をかぶらなきゃ。きちんと高原 翔也をやりきらなければ。
「うん、それじゃあお願い」
母の言葉に返事をした後、まだ眠たい意識を覚ますために洗面所へと足を運ぶ。この後に待っている冷水の温度感を勝手に想像して苦しくなるけれど、そんなことよりもまずは目を覚ますことが第一だと俺は思った。