上靴に履き替えるのは面倒くさかったので、靴下のまま廊下を滑るように移動した。毎日清掃が行われている廊下ではあったものの、それでも上靴で歩く時とは違って、埃が布の繊維に絡まるような感触を覚えた。
 階段を上る感触を足で味わっていく。転倒防止用のゴムが妙にっかかとをいじめてくるような、そんな感覚を覚えながら、俺は特別教室等に向けて足を急がせていく。
 別に、行く必要もない。自意識過剰でしかない。それなのにどうしても足を運ばなければいけない衝動のようなものを感じてしまう。そこに理由だとかを見出すことは億劫で、とりあえず伊万里に会いたいという気持ちだけが心の中を占有していた。
 特別棟への渡り廊下を歩いていく、足音が特になることはなく、ただ廊下の冷えている硬さが足裏を撫でてくる。少し急ぎ目に歩いているせいか、どうしてもその心地の悪さはぬぐうことができないけれど、それでも俺の脚は伊万里の方へと向かっていた。
 そうしてたどり着いた物理室の前。外で見たときと同じように明かりはまだついていて、中に人がいることを理解する。物理室にいるのは伊万里くらいしか思い浮かぶことはなく、俺は安堵にも似たような気持ちで扉をくぐっていった。
「……あ、高原くんじゃないですか」
 どうしたんですか、そんなに急いでいる様子で。彼女はそう言葉を付け足しながら、俺の方へと視線を向けていた。
 彼女はちょうど帰る支度を進めているようで、机の上に広げていたらしい筆記用具を鞄にしまい込んでいた。俺が来たことによってその動作は止まってしまい、少しばかり申し訳ない気持ちになる。
「……いや、ええと、その」
 俺は返答に困ってしまった。
 特に何かしらの用事があったわけでも、話したいことがあったわけでもない。いや、話したい気持ちこそはあったものの、それを表に出せるほど俺は心が強くできていない。嘘をつく心地の悪さだとか、罪悪感に似たような気持ちを反芻しただとか、それらを伊万里に吐いたとして何かしらが生まれるわけでもない。
「……とりあえず、帰るので挨拶だけでもしておこうかと」
「……なる、ほど?」
 伊万里は首を傾げながらも、一応納得するような声音を吐いた。
「それだったら一緒に帰りませんか? どうせ高原くんも暇でしょうし」
「……あー、いや、それがですねぇ」
「何か都合が悪いことでも?」
 俺の言葉に、伊万里はあからさまに残念そうな、……というか不貞腐れたような表情に切り替わっていく。
「ええと、違くて。……いや、確かに都合が悪いと言えばそうかもしれないんですが」
「……歯切れが悪いですね。というか、もう私の前では敬語とかで取り繕わなくていいですよ。以前も言った通り、なんか気持ちが悪いので」
「……そうすか」
 俺は彼女の言葉を聞いて、咳払いをして切り替えるようにする。
 今さら彼女の前で取り繕うというのも悪くはないかもしれないが、先ほどの案件があったおかげか、彼女に対してなら敬語を使わなくとも、素のままでいられるようなきがした。
「それで?」と伊万里は俺に続きを促すようにした。
「ええと、それでなんです……、それでなんだけど、生徒会の先輩に帰りをを誘われちゃって、なんとも一緒に帰るというのが難しいというか、なんというか」
「……それこそ、私たちの契約をちらつかせるべきなのでは?」
「まあ、確かにそうしようと思ったんだけども」
 俺が苦し紛れの言い訳みたいに言葉を吐くと、伊万里は、ははーん、と揶揄うような口調で笑った後「後ろめたかったんだ?」と付け足した。
 一瞬、くだけるような彼女の口調に、いつもの姿を見出すことはできなくて、戸惑いを抱いてしまう。けれど、特に伊万里は気にしないように「まあ、嘘をつくのって難しいですもんね」といつものように敬語でその風体を取り繕っていく。
「いいです、わかりました。そういう事情なら仕方がないですよね。……だから、私に挨拶を?」
 俺はそれに頷いた。いろいろ変な妄想が心にあったことは口にしないまま、とりあえず挨拶ということだけは本当だったので、素直にそれに頷いていた。
「外に出たらまだ物理室が明るかったから」
「……高原くんは優しいんですね」
 伊万里は苦笑交じりにそう言葉をつぶやいた。
 どこか嘲るような声音も含まれていたような気がしないでもないけれど、それは俺の思い込みかもしれない。基本的に人を疑うことでしか生きていないから、そんなことを考えてしまうのだ。
「……とまあ、それだけ。挨拶ができたので、そろそろお暇しま……、いや、お暇するよ」
 とりあえず表向きの用件は済んだ。だから、俺はそんなことを彼女に言っていた。特にそれ以上に彼女と話すことはない。彼女はもう独りでに帰る支度をはじめていたのだから、俺を待っている、ということはないことが証明されたのだ。何も杞憂を抱える必要なんてない。
 だが、そんな俺の言葉に、彼女は再び首を傾げた。こてん、という祇園が付きそうなほど、かわいらしい仕草だと俺は思った。
 疑問を浮かべているような彼女の様子に、俺も同様に「ん?」と返す。これ以上、伊万里も俺も会話をする必要性なんてないのだから、それでいいと思ったのだが。
「別に、それで一緒に帰らないということにはならないでしょう?」
 伊万里は確かにそう言った。
 ……なるほど、と俺は返しながらも、結構な動揺を心のうちに起こしていた。
 十秒もたたないうちに伊万里の支度は完了していた。彼女については一緒に帰る気が満々のようで、俺のことを逃がさないようにじとっとした目で見つめ続けていた。俺はそれから意識を逸らすように、物理室から覗ける校門のほうへと視線を送ると、そこには宣言したとおりに待ち構えている赤座の姿があった。幸い、こちらの視線に気づいている様子はなく、携帯をぽつぽつといじりながら画面に照らされている彼の姿を、俺はぼんやりと見つめることだけを続けていた。
「あの人ですか?」と伊万里は聞いてきた。いつの間にか俺の隣をキープするように立っていて、俺と同じ場所を見つけるように視線を向けている。ああ、と頷くと、なるほど、と彼女は言葉をこぼした。
「あの人の名前は?」
「……赤座。下の名前は、……忘れた」
「興味なかったら忘れちゃいますもんね」
「……」
 俺にも興味がなかったことを示すようにする彼女に、俺は苦笑で返した。いろいろ思うところはあったものの、そんなことを気にするくらいなら、この先に気にしなければいけないことはたくさんあるような気がする。
「それじゃあ、行きましょうか」
 伊万里は鞄を手に持って、俺に向かってそう言った。俺は未だに動揺を抑えられずにいたけれど、きっとここまで支度をした彼女ならば意地でもついてくるのだろう、という想像があったから、俺はそれに頷くだけを繰り返した。
「すいません、戻りました」
 俺と伊万里は昇降口から校門の方へと歩いていく。待ち人となっている赤座に対して会釈をしながら、余裕であるかのように表情を取り繕う。そんな俺の様子に、同様に彼女も会釈をした。
「遅かったな、……っていうか、その子だったのか」
 赤座は俺の声に合わせて画面から顔をあげた後、俺と伊万里の様子を吟味するように見つめていた。少しばかりその視線が気まずく、そして鬱陶しいような気もしたけれど、俺は彼の言葉に、はい、と返した。
「ちょっと物理室を施錠しなきゃいけない関係で遅れてしまいました。すいません」
「科学同好会だっけか。それならしゃーないな」
 赤座はひとりで納得したような声音を返しながら、俺たちを再び視界の中にとらえるようにする。
「それで、……ええと、失礼だけど名前なんだっけ?」
 赤座は伊万里を見ながらそう呟いた。俺が紹介するべきかな、と一緒ん思考が過ったが、それに対して伊万里は赤座の一瞬だけ前に出ながら、俺には見せたことのない笑顔で「伊万里です、伊万里 京子です」と返す。
 完璧な笑顔だと思った。だからこそ、人前でのふるまいというものが彼女の中では根付いているのだろう、とそんな考察が及んだ。
「伊万里さんね、そうかそうか。……というか、大丈夫? この後俺たち、ファミレスに行く予定なんだけど」
「……ふぁみれす?」
 俺は赤座の言葉を咀嚼できず、彼の言葉中に含まれる単語を一部切り取ってオウム返しした。赤座は「あれ? 言ってなかったっけ?」ととぼけるような表情をした。
「話したいことがあるって言ったろ。それと今日のお詫びもかねて少しだけ奢ってやろうという魂胆だ。どうだ? いい先輩だろ?」
 俺はそれに対して、ははっ、という苦笑だけ返した。きっと、ほかの後輩からすればいい先輩なんだろうけれど、あまり一緒にいたくないという気持ちが占有する俺にとっては、いい魂胆であるという風には飲み込むことができなかった。「……ぱわはら?」とぼそっと俺にだけ聞こえるように呟く伊万里の言葉に、俺は少し吹き出しそうになる。
「伊万里さんもそれでいいかい? もちろん伊万里ちゃんの分も出すし」
 俺は困ったな、とそう思った。こうなってしまうと赤座の提案を断ることは難しいし、伊万里を巻き込んでしまったことに対して申し訳がないという気持ちが強くなってしまう。
 苦し紛れに伊万里の方へと視線を移す。俺と同じように困っているような表情を浮かべていることに期待して。
 だが。
「いいんですか?! それではお世話になりますね!」
 ……存外乗り気でしかない彼女の表情と声音に、俺はもう逃げられないのだな、と悟った。
 そうして俺たちは近場にあるファミレスに行くことになった。俺と伊万里にとっては帰り道の逆方向でしかなく、より帰る時間がかかることを意識せざるを得なかったが、どうせ家に帰ってもやることはないので、別にどうでもいいと思った。
 それはそれとして赤座がいる、という状況にどうしても困惑してしまう。そこにはきっと赤座らしい優しさの欠片が含まれているのだろうけれど、それを享受することには罪悪感があるし、それ以上に、今日は最後まで赤座に関わらなければいけないのか、という面倒くささが心に響く。
 一緒にファミレスへの道を歩く俺たちであったが、なんとなく伊万里の表情を覗いてみる。覗いた彼女の表情は、先ほど浮かべていた完璧な笑顔ではなく、どこか自然だと思わせるような普通の笑顔だったが、そんな表情を浮かべている彼女が俺にとっては不思議でたまらなかった。
「……本当にいいのか?」と俺は小さな声で彼女に聞いた。赤座は船頭をするようにしていて、俺たちは彼の後ろを歩いていた。
「何がです?」
「……いや、ほら、その」
 具体的な言葉は思いつくけれど、その言葉の欠片が前にいる赤座に拾われることが嫌だった。だから、誤魔化すような言葉しか出てこない。
 それを伊万里は悟ったようだったが「いいんじゃないですか?」と返してくる。
「だって奢りですよ、奢り。甘美な響きじゃないですか」
「……さいですか」
 俺は呆れるように息を吐いた。素直に伊万里に対して、げんきんなやつだな、という気持ちを抱いてしまった。
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とりあえず更新できていないものを書く(「手向けに花を献ぐ【現代ドラマ】」とかいろいろ)
初公開日: 2025年01月05日
最終更新日: 2025年01月05日
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