哭倉村での事があってから、いや、哭倉村での記憶を取り戻してから。俺は桜の花が少しだけ苦手だった。
あの美しい桃色の花びらが少しでも赤みが強いと、その根元に何かおぞましい物があるのでは無いかと思ってしまうから。だから、少し肌寒い春先。薄紅色のあの花が咲くとき。温かくなり始めたこの頃、人々はこぞって花見に出かけていたが、なぜか俺はそういった気分には今年はどうもなかなかなれなさそうであった。
「水木。花見に行こう」
そうゲゲ郎に誘われたとき。俺はいったいどんな顔をしていたのだろう。想像に難くない。きっと、苦虫を噛みつぶしたような何か言いにくそうな複雑な表情をしていたのだろう。相対するゲゲ郎がふとにこやかだった表情を曇らせ、そして「嫌か?」と訊ね返してきたのだから。
「あ。いや。そうだな。たまには花見でも行くか」
積み木を投げたりしゃぶったりして遊んでいる鬼太郎をそっと見下ろす。仕事が忙しいせいであまり鬼太郎に構ってやれている自覚がない。日中家で俺の帰りを待ちながら鬼太郎の世話をしてくれているゲゲ郎は絵本を読んでやったり一緒に積み木で遊んでやったり一緒に外に散歩に行ったりとしているようだったが、俺は週末に少し出かけるくらいが関の山だ。そうして、このうららかな晴れの日に外に出るのならばゲゲ郎が提案するように花見に行くのが妥当なのだろう。
そこまで思ってもう一度鬼太郎を見る。ただ、赤子を連れ出すのには少しだけまだ肌寒いような気もしないでもなかった。
「少し、外は寒くやないか?」
「そうじゃの。何か温かく着ていける物が良いの」
冬が始まった頃に鬼太郎用の小さなニット帽は買っておいた。それと、少し厚手の上着があった気がしたが確かあれは。
「冬用の着物をしつらえなかったかの?」
「あったあった。お前がおそろいじゃーとか言って買いたいってせがんだやつだ」
「それじゃ」
ゲゲ郎は年がら年中同じ紺碧色の子供用の着物をあつらえたのだ。それに合わせて、黄色い上着も。
「ワシは紺碧色が似合うが、鬼太郎にはなぜか黄色が似合うと思うのじゃが?」
揃いの着物を買いたいと言ったわりに、ゲゲ郎は子供服売り場でそんなことも言い出した。だから着物はゲゲ郎と揃いの色にし、それに合うような黄色い上着を買ったのだった。特に祝いの席でもないのに子供用の小さな着物をあつらえるということに少々の難色を示しはした物の、きゃっきゃと上機嫌そうな鬼太郎自身と、それを満足そうに眺めるゲゲ郎を見てしまえば俺には財布の紐を緩ませるほかに何も出来ることはなかったのも事実だ。
それなりの値段のした物だ。たまの休日の花見にでも着ていかない手はない。
俺自身の桜へのちょっとした恐怖心ももしかしたら鬼太郎の晴れ着を見ながらならば少しくらい誤魔化せるかもしれなかった。
いそいそと鬼太郎を着替えさせながら、ゲゲ郎もいつもの着物の上に羽織を羽織る。そうでもしなければ今日は寒い。
「ほれ、水木も」
そっと俺の首に巻かれたのは鬼太郎達の着物と色を揃えて買った襟巻きだった。まだ温かい室内で巻くには少しばかり暑いが、ひんやりとしたゲゲ郎の手がわざわざ巻いてくれるその動作を止めようとは思わなかった。すり、とその手の甲に頬をすり寄せる。
その様子に一瞬、ゲゲ郎が目を見開いたような気がしたが、あまりにも一瞬でよく解らない。何か言いたげな赤い片目を何も気付かないふりで見上げながら、出かけるか、と声をかけた。考えてみれば、それなりにいい仲であるはずの俺たちは、一つ屋根の下ですごしながらそれらしいことを最近はしてない無かった気がする。だから、ちょっとしたゲゲ郎との触れ合いがなぜか酷く愛おしく感じられた。
ゲゲ郎が鬼太郎を抱き、その横に俺が並ぶ。歩けるようになるにはまだ時間がかかりそうな鬼太郎はしかし、すくすくと育ってそれなりな重さになり始めている。桜並木がある土手まで歩いて行くまでに何度か交代で鬼太郎を抱えることになるだろう。手持ち無沙汰な俺は、ちょっとした弁当と簡単な敷物を持って家を後にする。
ぴゅうっと北風が吹く。三人揃って首をすくめ、それからゲゲ郎が「まだ寒いの」と小さく呟いた。それに鬼太郎が「あ、あ!」と返事する。小さな指で懸命にゲゲ郎の着物の合わせを握る姿を見れば、愛しい以外の感情は沸くわけがなかった。
「ポットに温かいお茶を入れてきたから花見しているときにでも飲もう」
「こういう日は熱燗もいいがな」
「まだ昼だぞ」
「夜に呑もう」
そんな与太話をしながらぶらぶらと土手に向かう道を行く。同じ様な事を考える人が多いのか、その道はいつもよりも少し賑やかなようだった。
ただし、到着してから俺たちは少しだけ後悔する。この寒い日に土手、つまり川沿いの桜並木を選んだのは少々不正解だったかもしれなかった。なにより、北側を流れる大きな川から冷たい風がピュウピュウと吹き付けてくるのだ。
「厚着してきてよかったの」
俺は襟巻きをしているから温かくて良いが、ゲゲ郎の首もとはどこか寒々しささえ感じられる。上着を着ているとはいえ、ゲゲ郎にも襟巻きをしてやればよかったと後からそんなことを思ってももう遅い。土手から家まで帰るのは少しだけ億劫だった。それよりもサッサと花見を済ませて温かい家に帰る時間を早めた方が得策のようだった。
「サッと桜見て、サッサと帰ろう」
「何を言う。折角来たんじゃ。花見を楽しもう」
そこに敷物を敷いてくれとゲゲ郎が指示したのはよりにもよって桜並木の川側だった。せめて反対側であったなら少しは桜の木が風よけになってくれたのだろうが、そう考える人は多いのだろう。反対側は花見客でもう既に一杯になっていた。
「多少寒くとも風情があって良い景色ではないか」
ほれ、とゲゲ郎が頭上を示す。確かに、薄紅色の桜が満開だ。ちょうど見頃。むしろ、この週末を逃したら後は葉桜になってしまうかもしれなかった。ハラハラと風に舞う花びらが川面に浮かぶ様子も風情がある。
「ほれ、鬼太郎。これが桜じゃよ」
ゲゲ郎が鬼太郎を高い高いして花をよく見させようとする。鬼太郎にとってはそういえば、初めて見る桜なのだろう。ひらひら舞い散る桜の花びらを不思議そうに目で追ったり手を伸ばしたりしている。その表情はぱちくりと目を見開いていてただただ不思議そうな物だ。
「鬼太郎、お主は覚えておらんかもしれんが、お前の母さんは桜の樹の下でずっとお主を守ってくれておったんじゃよ? 今はワシと水木がお前を守るからの?」
高い高い、からもう一度、ゲゲ郎は鬼太郎をぎゅっと抱きしめる。その様子を見ながら、俺はそっと胸ポケットに入れていたタバコを一本取り出した。ふぅっと一吸い。そのついでに、頭上の桜を見上げる。記憶にある真っ赤な桜とは全く違う。だから、そんなに恐れることはないのだ。何があろうと、確かにゲゲ郎が言ったように、これからは俺とゲゲ郎で鬼太郎を守れば良いのだ。
一人ではない。それがなによりも心強い。
「ゲゲ郎。花見に誘ってくれてありがとうな」
「なんのなんの」
来年はもっと成長した鬼太郎と共にこの桜を見上げることになるのだろう。