気が付くと、人間になっていた。慣れない長い腕に細やかに動く指先は先ほどまで動かしていたはずなのに、途端に使い方が分からなくなってしまったかのように上手く操れなくなった。持っていた物が音を立てて床に落ちる、ひどく甲高い音に体がびくりと跳ねる。落としたものに視線を向けると、いつもより床との距離があることに気が付いた。背が高い。以前は少し首を伸ばせば届く位置にあったのに、今は足を曲げないと触れられやしない。その動作が煩わしいが、どこか新鮮でもあった。なにせ私は人間である前は、部屋の隅でうずくまっているような小さなあひるだったのだから。
 どういう経緯でここの来たのか、ここにいるのは私一人なのか、何も分からないまま、ただ包丁を握っていた。人間になって一番に握っていたのは、この赤く血にまみれた包丁だった。どうしてこんな物騒なものを、と疑問に思い私が今いる場所をすぐに確認したものだ。天井からつるされた小さな明かりがぼんやりと照らす部屋は小さな小屋のようだと認識するよりも先に、酷く鼻を突く異臭が私の思考を遮ったのをよく覚えている。何も考えられなくなるほど突然湧き上がってきた異臭はきっとずっとこの部屋に充満していたのだ。このまま気が付かなければ幸せであったろうに、そう思いつつ私は部屋の様子を確認するしかなかった。確認しなければいけないと思われるほどこの状況は当たり前ではないと、前世あひるとしての私の直感がそう告げているのだ。
 部屋の隅に捨て置かれたような山は赤く、歪な形をしている。地震によって山の形が変わったと表現するには、何かが突きだしているように見えるため、少し適切ではない。どちらかというと一つだけ種類の違う大きな木が生えてしまっているかのような、そう考えながら山から飛び出たそれをおもむろに掴んだ。まず一言告げるのであれば、それはもちろん木ではない。平たくて、少しつるつるとしていて、わずかに爪のようなものが手のひらを引っ搔いた──、僅かに嫌な予感が過ぎったが、その正体は掴めなかった。であればその姿を拝むほか解決方法はない。掴んだそれをぐいと引っ張り上げた。ぐぐぐと何かの引っかかる様子はあったが、何度か反動をつけて引っ張ると、それを山から引き抜くことができた。慣れない体に力が入らず、平衡感覚を崩してふらつく。部屋の中央に置かれている机に手を付いて何とか転倒を回避し、その勢いのまま右手に掴んだそれを眼前に持ってきた。
 目にしてすぐは、いったいこれが何なのか分からなかった。大きな何かがぶら下がっている、赤くて、生臭くて、ふらふらと揺れている。思考が止まるとはこのことなのだと知った。本当に何も考えられなかった。目の前で揺れているそれがそういえば私の前世であるあひるに似ていると思ったけれど、脳が働かなかったので気づくことができなかった。そう、気づくことができていない。私はまだ、目の前で揺れているこれが皮を剥がれたあひるだということに気が付いていない……。
 どうやら私は、ここで働いている人間になったようだ。
 部屋にやってきた一人の若い男は私を見て早々に、「ようやく体が馴染んだみたいだね」と声を掛けてきた。男は立ちすくんでいた私に一つ視線を向けると、
「体が慣れるまでは無理しないでね。指を切りおとしたら代えが効かないからね」
と、柔和な笑みを浮かべてそう言った。この分貰っていくね、と机の端に置かれていた袋を持って部屋から出て行く。直前以降の記憶はないけれど、それが私が仕事をこなした証であるということだけは分かった。部屋の明かりでは分からなかったが、扉から差し込んだ光でそれが照らされると、赤と黒と茶が濁ったような色をしていたということだけは認識できた。
 なんとなくそれがあひるの肉だと分かったけれど、私の手元で転がる赤いそれと同じであるということは、繋げないように思考を区切った。人間になったとて、すぐに人間のように脳を活用できるわけではなさそうだ。
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