さて、男がなにかを企んでいるかもしれないと気付いたところでの話が、もし企んでいるとしたら一体何だろう。人間の男で、あひるの解体現場で働いている。そもそもあひるを解体する理由も分かっていない現時点で、男の目的を推測するのは少し難しいような気がする。男のことだって詳しく知っているわけではない。好きな食べ物好きな飲み物好きな時間帯、あとお気に入りの寝床。あひるであればその辺りが気になるところだが、人間相手では情報が足りないだろう。何せ相手は人間。あひるよりもうんと賢い存在だ。すぐに忘れてしまう鳥頭と比べれば、人間の考えることなんて何十倍何百倍も推測するのが難しい。現に今私は現在進行形であひるを捌きながら考えている。きっと男は私がこんなことを考えているなんて少しも思っていないだろう。疑われているなんて思わず、ちゃんと仕事をこなしているかな、なんてことは考えていると思う。その中に、ちゃんと仕事をしていなかった八つ裂きだだとか、体が馴染む様子が無かったらあひるに戻してやろうだとか、そんなことを考えているかは分からない。しかし人間とあひるの中身を入れ替えるのは簡単ではなさそうなので、後者はあまり考えていなさそうだ。そもそも中身を入れ替える意味が分からない。
もしかしたら相手は元あひるだからと舐めてかかっているかもしれない。男の妙に優しくのったりとした話し方も、元あひるにはこうしてやらないと聞き取りづらいかもしれない、という憐みからかもしれない。そう考えると腹が立ってくる。確かにゆっくりと話してくれるから聞き取りやすいけれど。別に私はもうちゃんと人間なので聞き取れますー、そういったお気遣いはご無用ですー。いやまあでももしかしたら普段から男はそうなのかもしれない。男の素の部分を否定するのはよろしくないので、ひとまずは何も言わないでおこう。別に急に早口になられたら困るとかそう言ったものではない。私だってそんなこと言われたら悲しくなってしまう。しかし私の場合は、美しい毛並みがあればどんな痛みも多少は和らぐため男よりはハンデがある。しかししまった、私は人間だった。美しい毛並みは持っていない。
この部屋に鏡は無いため、人間である私の容姿はみたことが無い。体つきから女であろうということは分かるが、それ以外は分からない。人間はどういうところを見て容姿の美しさを決めているのだろうか。目の大きさ、髪の毛の綺麗さ、あとは、白さ? どこの白さだろう。あひるの場合は毛並み、だとしたら髪の毛だろうか。しかし人間の髪が白いのは一般的に老化を感じられるため、あまり美しさの基準にはならない気がする。この人間の中に残っている知識として「白さ」があるのだが、一体どこの白さだろう。どこが白いと綺麗に見える? 元あひるの私には分からない……。とにかく何かの機会があれば一度自分の容姿を見てみたいものだ。別に以前絶世の美あひるだったからと言って人間でも同じ姿を求めてはいないけれど、美しかったらそれはそれで嬉しいなあなんてことは思ってしまうから。人間って美しいとどんな良いことがあるんだろう。男が寄ってきて寄ってきて困っちゃう、みたいな? でもそれって蟻にたかられる砂糖みたいでちょっと嬉しくない。
そう思うと男の容姿というのはどうだっただろう。髪の毛は黒、目は細くて開いているのか開いていないのか分からない、肌は少し黒め、私よりは大きな体。さてさて人間歴の長い先輩の皆様、この男は美しいに該当するのでしょうか。肌が黒いところを見ると、毛並みが白い方が美しいと言われるあひる界では少し微妙なところ、ともしかして「白さ」とは人間の肌の色のことを言っているのかもしれない。肌が白い方が美しい、なのであればこの男は美しくない。美しくないというのは直接的なので、美しいとは言えない、に訂正しておこう。いわゆる平々凡々。瞳が見えないので中の下かもしれない。あひるの頃もそうだったように、目は相手とコミュニケーションを取るうえで大切なもの。瞳が見えないというのは目が合わない絵画に話しかけているのと同じだ。男はまだ返事をしてくれるので絵画ではないが、あひるはそもそも言語が無いからちゃんと向き合って話すなんてことはもっぱらない、というかできない。くちばしでつついて意図を汲み取れ、としかできない。だからこそ目を合わせるというのは、今あなたに向かって言っているんです、という意志表示となるわけで、あひる界では欠かせないのだ。
とりあえず、また男が来るまで仕事をこなすしかない。
人間は身を守るためではなく、自身を美しく見せるために体を鍛えると聞いたことがある。はたしてこれは私の知識なのかこの人間の中にあった元々あった知識なのかは分からなくなってきているが、もしそういうこともあるのだとしたら、男の力が強いことは私の杞憂に終わることとなる。全くそれでも構わないのだが、ここで延々とあひるを捌いているだけなので何か刺激になるものが欲しいというのはある。男には申し訳ないが私の気分転換のために疑いをかけさせてもらう。
「さてさて、順調かい?」
いつもの言葉で部屋に入ってきた男は、相変わらず柔和な笑みを浮かべている。疑うようになってからは男の笑顔が本来の顔を隠す仮面のように見えて心地が悪い。この包丁でその仮面を叩き割ってやってもいいんだぞ、と思いつつきっと今の私では力でねじ伏せられてしまう。私は刃物を持っているというのに。無念。背中に刃物を隠されていては堪ったものじゃない。それこそ八つ裂きにされてしまう。人間の肉って美味しいのだろうか。
「今日は君のためにこれを持ってきてあげたよ」
そう言って男がポケットから取り出したのは、名称不明の何かだった。だが見たことがある。手を鍛えるために使うあれだ。果たして何と言うんだったが、こういう時に人間の中にある知識がものを言ってくれればいいのに、知識を持たない私をあざ笑う様に静かなままだ。しかしそれは仕方がない、元絶世の美あひるであっても、知らないことの一つや二つはあるものだ。
「働きづめも大変だろうから、休憩しよう。とは言ってもこれは休憩にはならないかもしれないけれど」
部屋の端に寄せてあった椅子を二つ持ってきて、二人で腰掛ける。よいしょ。ずっと立ちっぱなしだったから大変助かる。強張った体から力が抜けてこのまま溶けていきそうだ。
汚れた手を汚れたタオルで拭くと、多少はましになる。そろそろ新しいタオルを持って来てくれないだろうか。それくらいのことならやってくれますよねだってあなたまえに仕事環境が悪いとうんたらかんたらって。
「グリップを片手で握って、握ったり力を緩めたりを繰り返すんだ」
見本として男がグリップを握ると、きこきこと小さな音を立てて動き出す。きこきこきこきこ。握ったり力を緩めたり。きこきこきこきこ。やってごらんと渡されたそれを手のひらに乗せて、いざ実践。
…………?
さて、いざ実践。
……………………??
さてさて、いざ実践。
………………………………。
思わず男に視線を向けると、いつもの顔で私を見ている。ちょっと憐れんでいるような気もする。確かに私は男の真似をしてグリップを握り、力を込めているはずなのだ。それなのに、手の中のそれはきこきこのきの音も立てない。なんてこった、あまりにも非力すぎる。私はこれまでここであひるを捌いているのに、人間としての最低限の力は備わっているはずなのに。こんな非力ではお箸も持てやしない。いやそもそもだとすれば、私はこれまでどうやって包丁を持っていたんだ?
「やっぱりそうか。『あひるを捌く』ということはできても、それ以外のことは一から教えないと難しいみたいだね。『持つ』ということはできているからそれは問題なさそうだね。これはできる?」
男は目の前で二本の指を立てた。人差し指と中指、ピースの形だ。おそるおそる指先を動かそうとしてみるが、なんと立ち上がったのは親指と小指。全然違う。これじゃ浮かれているアロハだ。その後も挑戦するが、男と同じポーズをとることはできなかった。これでは突然カメラを向けられた時にポーズも取れない。アロハならすぐにできる。
「大丈夫、練習すればすぐにできるようになる。そんな簡単に体が馴染むとは思っていないから、順番にできることを増やしていこう」
その後男と練習を続け、歪だがピースの形を作ることはできた。ただ今のままでは突然カメラを向けられてもすぐにはポーズは取れない。今のところはアロハで乗り切るしかなさそうだ。
あひるを捌くことができていたためか、他の人間ができるようなことは当然のようにできるのだと思い込んでいた。しかし実際はそんなこと無くて、練習をしなければできるようにならない。人間とあひるの中身を入れ替えてしまったために、うまく融合していないのだろう。人間は哺乳類、あひるは鳥類、種類が違ったために馴染みにくいのかもしれない。私があひるではなくてうさぎであれば上手くできたのかもしれない。ただ練習すればできるようになるというのは、できるようになったピースを見れば嘘ではないようだ。これは練習あるのみ。あひるを捌いているときの気分転換にたまに練習してみよう。目標は卒業:カメラを向けられた時にアロハポーズ!
去った男を見送り、ひとまず仕事に戻る。一輪車には死んだあひるが山積みだ。早く処理をすればするほど部屋の異臭は強くならないということを学んだので、放置する理由はない。ところでさきほど男がなにかを落として行ったようだけれど、どうやら一冊の手帳らしい。革の表紙に包まれた金具の付いた手帳だけれど、今の私に開けられなかった。こんな単純なこともできないなんて。そもそも手帳の中身なんて見られたくないものだろうし、今回ばかりはそれが正解のようだ。次にやってきたときに返すとしよう。
きょうはおしまい