──その時だった。
 近くから鼻を慣らす音が聞こえてくる。生き物が鼻を鳴らす音が聞こえてくる。それはどうしたって聞き馴染みしかない音であり、その音に恐怖心がざわめく。
 その恐怖はどのように彩られているか。それはその鼻を鳴らした生物に対してのものじゃない。その生物が目の前の大蛇に命を奪われてしまわないだろうか、という不安からの恐れ。
「──ニエルっ!」
 鼻を鳴らしたニエルは、その鼻息を勇猛と称するようにして俺よりも前へと進んでいく。そう俺がニエルの名前を呼んでも、目の前にいる大蛇に対して動きは止まらず、勢いはどんどんと加速する。
「まて、ニエル、待て──」
 がさつにニエルを止めようとする。強張っていた身体の節々に動力を与えるように、なんとか持っていた刃物とは言えない欠片のような道具を振り回そうとして、それでも動かない自分自身に焦る。
 それでも、ニエルは蛇に対峙する。その状況は出来上がってしまった。
 ニエルの相貌の先には奴がいる。奴がいて、奴もニエルを見据えている。だが、先ほど俺たちとの間にあった互いに牽制をきかせる行動は既になく、ニエルが前へと踏み出した時点で、その戦いは始まっていたようだった。
「──ニエ──?!」
 ニエルの名前を吐き出し、彼の勢いに巻き込まれるように足を前へと踏み出す、踏み出して、俺以外の大切な命を犠牲にしないように、その身を投げ出そうとした。
 けれど、そうはならなかった。
 手を、手を引かれていた。手を引かれていて、そうして前へと歩みだすことが出来なかった。
 温かい手のひらの感触がする。その優しい温度とは逆に、こちらを強く引く手の握りが感触として残っていく。
「アリエス──」
「──だめ、だめなの。あなただけは、絶対に──」
 その否定は優しさだった。俺の手を引いてくれることは優しさでしかなかった。それがわかっていてもなお、目の前で犠牲になろうとしている命に対して、俺はこの命を使わなければいけないという気持ちがあった。
 アリエスは俺を優しい人間だと言ってくれていた。それは最初から、今日までの日のこと。繰り返し呟く彼女の言葉が確かにあった。
 けれど、それは間違いだ。優しくもないし、正しさはどこにもない。ただ自分が苦しくなるから優しく振舞っているだけで、それ以外のことなんてない。きっと、こんな感情を読み取られれば、彼女には失望されてしまうけれど、もう彼女には天使の翼がない。こういったことを考えているのだって、結局、彼女には伝わらないことがわかっている都合のよさからでしかない。
 だから、俺は前へと踏み出さなければいけなかった。
 まえへ、まえへ──。
 ──そうして、踏み出そうとした足は、止まる。
 アリエスが繰り返して俺の名前を呼ぶ。目の前で戦おうとしているニエルの姿さえ視界に入らないように。
 けれど、俺は目で捉えている。目の前の景色が映っている。
「──なん、で……?」
 そんな映った景色に対しての、一言だけの感想。
 意味がわからなかった。よくわからなかった。どうしてそうなっているのか、どうしてそうなったのかはよくわからない。ただ、少し非現実的とも思える現実性、どこかで聞いたような情報が頭に過っては、目の前で助かっている命に、俺は目を丸くする。
 ──なんてことはない、大蛇が消えたのだ。
 消えた、というのはきっと違うのかもしれない。暗闇の中にいたから、単に黒の鱗が闇に紛れて、消えたように錯覚するだけだった。
 それでも、そうして黒光りしていた蛇の縦に長い相貌は、いつの間にかに消えていた。俺がアリエスのを手を振り払おうとした時だろうか。意識をそちらに向けた瞬間に、それはもういなくなっていたのかもしれない。
「に、ニエルっ!」
 暗い景色の中にいる。そして闇に溶け込んでいる視界の中、ニエルの姿を必死に探す。黒色に目は慣れていたと思っていたのに、それでも木々の影が重なり合って、もしくは元あった光とのコントラストで、それは見つけづらかった。
 それでも、聞こえるものがある。
 ぷひ、ぷひ、と鼻を鳴らす声。
 先ほども聞いたニエルの音。
 すぐ先に聞こえる。足元にすり寄ってくる。
「よ、よかった──」
 安堵の息を吐こうとしたのもつかの間。
「──やだ、だめ、だめなんです、言っちゃ、言っちゃだめなんですから」
 まだ状況を飲み込むことが出来ていないアリエスが、未だに俺の手を強く引き続けていることにようやく気が付いた。
 もう大丈夫だよ、と彼女に声をかけても、その手は震えて、目が揺れているようだった。暗い景色の中、それを適切に把握できていたのかはわからないが、彼女の目の中には俺しか映っていないのか、もしくは俺さえも映っていないのか、夢うつつと言った具合で。
「大丈夫、大丈夫」
 落ち着かせるように、静かな声で、低くも高くもない話声で。それを繰り返し、繰り返し彼女へと伝えていく。
 ふう、ふう、と呼吸を促すようにして、彼女がそれに同調することを待っている。俺の音、リズムに合わせて、次第にその肩は大きく揺れる。ふう、ふう、と俺に合わせて呼吸は続く。握り続けていた手の握りが緩和され、ようやく締め付けられていたみたいに硬かった指先の感触に、血流ができたと実感をした。
 そんな俺にニエルはゆっくりと擦り寄ってくる。小柄とは言えない体躯を俺の足に絡ませては、何度も何度も身体を擦りつけてくる。
「……」
 ……本当に、何があったのだろう。
 俺はよくわからない気持ちを抱いてはいたが、とりあえずするべきことはこの場からの脱出でしかない。
 俺は、まだ繋いでいる彼女の手を連れ引くようにして、それから暗い昏い森の奥から脱け出すように、歩き始めていた。
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彼女の翼を捥ぐ話 第三十二話
初公開日: 2026年06月06日
最終更新日: 2026年06月06日
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堕天した天使とそれに付き添われている主人公のお話の三十一話目を書きます。