ここに配属された後に、この人間の体に入ったということは、私の前にこの体の中に居た人物は、自分から志願してこの仕事を選んだのだろうか。前科があるとかとてつもなく金に困っているとかいう理由が無いと、こんな仕事選ばない気がする。もしくはそれこそ特殊性癖があれば喜んでくるかもしれないが、だとすれば私がこの体を奪ってしまったことは、その人にとってはとても悲しいことになってしまう。恨んで殺されたりしないだろうか。その時は返すから許してほしい。
そうだとすると、元々のこの体の持ち主は一体どこに行ってしまったのだろうか。そもそもどこかにいるのだろうか。もしかしたらこの体の持ち主──言いにくいのでヒューちゃんと呼ぶことにするが、ヒューちゃんは死んでしまって、もういなかったりするのだろうか。だとしたらこの体を奪われたことで恨んで殺される必要はない。良かった良かった。しかし、中の意識だけ死んでしまうことなんてあるのか少し疑問だ。体にあまり傷のない状態で亡くなる脳死というものはあるが、死んだ脳に私が入るのは難しいはずだ。そういう技術が出来上がっていれば話は別だが、そんな知識はこの体には入っていないのできっと有り得ない。
だとしたら。ヒューちゃんはまだ生きているということなのだろうか。それこそ、別の体に入っている可能性だってある。
もしかして、私の体に入ったのだろうか。だとしたら私が人間になった事も頷けるが、残る疑問はその必要性だ。人間とあひるの中身を入れ替えることができるかという非現実的なことは置いておいて、そういうことができるよう技術が進歩していると仮定しても、わざわざ人間とあひるの中身を入れ替える理由が分からない。この体は大人の体つきをしているから、短くとも二十年は生きていると思う。ヒューちゃんがこの体で二十年かけてできるようになったことを、私は今からまた二十年かけて習得しなければならない。まあヒューちゃんの体が少しは覚えているからその分ハンデはあるかもしれないが、だとしても効率が悪すぎる。あひるの体よりも人間の体の方が便利だから? だとしてもわざわざ入れ替えるのは手間だと思う。人間を脅して使役した方がよっぽどいいと思うけれどな。あひるでは人間に敵わない? そんなのやってみないと分からないじゃない。あひるが八匹重なれば人間くらいの背丈になれるかもしれないし、くちばしを鍛えれば武器だって持てるかも。……それの方が現実味がないかもね、私だったらそんな作戦は認めない、却下。
ではヒューちゃんが私の、あひるの体に入ったとする。だとしたら、いつの間にか私がもう捌いてしまている、ということはあるだろうか。
ない、それは断じてない。なぜならあひるだった頃の私はすごく綺麗だったからだ。白く癖のない羽に滑らかなくちばし、歩けば誰もが振り返る絶世の美あひるとは私のことだ。まあ部屋の隅に蹲っていたからそんなことは全然なかったんだけれど、そんなことをしていなければ私は絶対にそうだった。誰もが振り返る美あひるだった、これだけは譲れない。食事にこだわったり寝る前のケアを欠かさなかったりだの、そんなことは一つもしていない。皆と同じ生活をしているのに、生まれたてのような純粋な美しさを維持していたのだ。これぞ生まれ持っての美貌。そんな美しいあひるだった私の体がここに運ばれてきて、気づかないわけがない。私の体はあひるだけでなく人間でさえ引き留めてしまうものだ、きっとそうに違いない。しかしここであひるを捌いていて、そんな見目麗しくて神々しいあひるが来たことは無かった。羽が黒ずんでいたり、少し剥げていたり、顔に傷があったり、美しいとも醜いともとれない普通の容姿だったり、そんなあひるしか見ていない。
ヒューちゃんはまだ生きている。今はあひるとなって私の中で生きている。多分。私とヒューちゃんの中身が入れ替わっていればの話。
だとしたらヒューちゃんもそんなに不満は無いのではないだろうか。何せ私はあひる界では絶世の美あひる。異論は認めない。この際だから前世を盛って盛って盛りまくっておこう。絶世の美あひるだ。そんなあひるに生まれ変わることができて、ヒューちゃんも嬉しいのではないだろうか。ヒューちゃんがどんな人なのかは一切分からないけれど、なんとなく私と少し近い気がしている。その方が体が馴染みやすかったりするんじゃないだろうか、適当なことを言っているけれど。ヒューちゃんの体に入ったからこそ、類は友を呼ぶではないけれど、同じにおいがする。人間同士で出会っていれば、親友になっていても可笑しくない。もしかしたら双子かも。来世に期待。
ヒューちゃんと会って話してみたい気持ちが膨らんでくるが、いくら前世があひるの私でも、今の状態ではあひると話すことはできない。残念。これもやはり来世に期待。そう思いながらあひるの足を切り落とす。なんだか少し楽しくなってきた。ヒューちゃんの中には私が持っていなかった知識がたくさん入っている。それを踏まえて色々考えていると、あひるを捌いていることなんて忘れてしまう。ありがとうヒューちゃん、もしかしてヒューちゃんは人間の中では結構賢かったりするのだろうか。私自身はあひる並みの知識しか持っていないから、ヒューちゃんが賢いのかどうかなんて分からない。けれど多分、賢い気がする。だからきっと、あひるになったとしても何とかしているよね、ヒューちゃん。
「調子はどうだい?」
薄暗かった部屋に光が差し込む。振り返ると相変わらずの笑みを浮かべている男がいた。このセリフで入ってくるときは、大体暇つぶしで来るときだ。
「大分人間の体にも慣れてきたんじゃない? 動きとはすごく自然だよ」
男は手元を覗き込むと、うんうんと頷いた。目を開けているのか開けていないのか分からない。瞼の筋力が衰えているのだろうか。美しい容姿を意識する上で、くりくりとした瞳も欠かせない。せっかくならこの男にも目の筋肉の鍛え方でも教えてやろうかと思い、包丁を置いて男の方を向いた。汚れた手を服で拭いてから、男の目元を親指でぐりぐりと押した。
「何してるの?」
男がじっとしていてくれるからとてもやりやすい。
「目のマッサージ。目が開いていない。視界が悪いと転びやすいし、見た目が悪い」
「僕の容姿を貶してる?」
男の言葉は無視して、マッサージを続ける。あひると人間ではきっと体のつくりは違う。あひるであった頃は当然指でマッサージなんてできなかったから、目を大きく開いては閉じての筋トレをしていた。これはおそらくヒューちゃんの知識だが、この辺りを指で押したら効く気がしている。多分筋肉を鍛えるのではなくほぐしているだけなのだが、これで多少は目が楽になると思う。目が軽くなれば瞼が開く、これは私の考え。
「うーん」
男はそう唸った後、私の手首を掴んで引き剥がしてしまった。そんな、まだ途中なのに。
「まだ力を入れるのは難しいみたいだね。くすぐったくて仕方がない」
なんだか馬鹿にされたような気がする。おっ、やるのか? 相手を突いた時は喧嘩の合図だと前世あひるがそう言っている。まあ美あひるだった私は喧嘩なんてほとんどしなかったけれど、これはあひる界では常識だ。知らないと痛い目を見る。
「あひるを捌くことはできているから、細かい指先の動きがまだ難しいのかな。その辺りはやって慣れていかないとね」
そう言いながら男は、私の指先を眺める。おっ、喧嘩か? 今引っ掻けば男の顔には大きな傷ができる。と思ったけれど今は人間なので立派な爪はない。短くぼろぼろの爪は血にまみれ、軽く拭いただけでは落ちてくれないのだ。
手首を掴まれて反射的に振り払おうとした時、腕は全く動かなかった。男は私が身動き取れないほど強く握っていたのだ。もしかしてこいつ、喧嘩に強いのか。だとしたら喧嘩なんてすれば私なんてひとたまりもないかもしれない。喧嘩にならなくて良かったと思うと同時に、微塵も動かない腕に少し困惑する。なんでこいつこんなに強いの?
「指先の動きを意識するようにしてみようか。今度何か持ってきてあげるよ」
男が力を緩めた瞬間を見て、すぐに腕を引っこ抜いた。男は一瞬鼻で笑ったけれど、そんなことよりも、圧倒的力の差を見せつけられて本能がうずいている。
「じゃあ、仕事頑張ってね~」
ひらひらと手を振って部屋から出て行く男から、少しも目を離さなかった。
これは前世あひるとしての私の本能だが、あの男は何かを企んでいる気がする。あひるが体を鍛える時は、ボスになりたい時か、何か良からぬことを計画している時と相場が決まっているからだ。
きょうは おしまい