――まぶしい。
夢の残滓が濃く残り、泥濘の眠りが強くアベンチュリンの手を引いてくる。
焚き火。熱を飛び越え祈りを捧げ、たくさんの楽器が、人が、楽しそうに音を紡ぐ。――先ほどまで見ていた過去の懐かしい夢の余韻が、脳内で揺れ、輪郭が曖昧になり、……ついに外から聞こえる鳥の声におきかわった。
――朝だ。
朝がきた。
ならば起きねばねらない。日差しから逃れるように寝返りをうち――盛大にベッドから転げ落ちる。声を上げるまもなくしたたかに全身を打ち付けた。とっさに顔をかばうことに成功したが、腰だか腹だかに衝撃がジぃンジぃンと響いている。
「い、……ったぁ……」
ぽてぽてぽて、と可愛らしい足音が近寄ってきた。うずくまるアベンチュリンを小さな3つの気配が取り囲む。「ご主人?」「おきた?」「すごい音」「起きたけど落ちた?」「ごしゅじーん」――にゃごにゃごと耳に届く可愛い鳴き声を、共感覚ビーコンがつぶさに翻訳する。余計な心配をかけたらしい。手を伸ばし、一番近くにいた子を数度なでる。途端、「おはよー!」「起きた!」「朝だよー」と連鎖するように鳴き声が激しくなった。
「うん、おはよう。びっくりしたね、気にしてくれてありがと……」
床から体を起こせば、待ってましたとばかりに膝の上に気配が飛び乗ってくる。そのうち一匹はお転婆にもアベンチュリンの肩に乗りたいのか、ばりばりと腕を伝って登りはじめた。落ちないように尻尾のあたりを手で支えていると、膝の上の二匹がずるいとばかりにみゃごみゃご鳴き始めたので、空いている手で交互に撫でてやる。満足そうに目を細めて丸くなる姿は、ただの、どこにでもいる猫のようだ。
餡が詰まったまんじゅうのような、はたまた小さな箱にこもる猫のような姿をしたこの不思議な生命体は、ビジネスパートナーであり友人――だとアベンチュリンは思っている――のベリタス・レイシオから譲り受けたものだ。すったもんだのなんだかんだで、どうにかこうにかピノコニーの一件を解決したあとのこと。彼が「ペットに興味はないか」と声をかけてきた。曰く、アベンチュリンがもっと命に執着するように“重し”をつけたいらしく、その一環で提案されたのが、ペット――ルアン・メェイ女史が創造した、お菓子生命体を引き取り手になることだった。
もちろん最初は断った。自身の身の振り方がいかに破滅的なのかはアベンチュリンが一番良く分かっている。命を預かり育てるなどできるわけがないし、してはならない。いつ死ぬとも分からず、囚人として刑が実行されないとは限らない。無責任に手を出してはならない領分である。だからこそレイシオは、アベンチュリンの“重し”になると考えたのだろうが、その程度のことで命を利用しようなどと傲慢はなはだしい。
「やっぱりぼくたち、どこにもいらないみたい」
そうやって宇宙ステーションの一角でアベンチュリンがレイシオに主張しているさなか、さみしそうな声が聞こえた。はっとし、口を閉じる。レイシオがある一点を指し示すので、そちらに視線をむけると……三匹で寄り添いあいながら、ふるえ、互いを毛づくろいしあうお菓子生命体がいた。
「ママがいらないっていうんだから、ほかのひともいらないんだ」
「でも、他の子たちはみんな新しいお家にいったのに」
「他の子はかわいいから」
「ぼくたちは? かわいくないの?」
「このまま捨てられちゃうのかな……」
共感覚ビーコンが言葉を拾うことに驚き、会話の内容に衝撃が走り、なぐさめあう姿に憐憫が誘わる。
あれはなんだ。視線でレイシオに問う。レイシオは腕を組んで目を伏せ、少しの沈黙のあとに答えた。
「いっただろう、彼らは天才クラブのルアン・メェイ女史につくられた生命体だ。知性も、それに伴う感受性も一等豊かで、……豊かであるがゆえにああなっている」
実験によりお菓子生命体が多量に増え、ステーションだけでは手一杯になっていること。里親を募集した結果、派手で特徴的な見目の生命体から引き取り手が見つかり、今はあの三匹だけが残っている状態なのだそう。
「特徴がある見目ではない。配色も地味。少々ナーバスで悲観的、おまけに人見知りも激しい個体で、里親探しに難航している」
「ママもいらないっていうのは、……」
「……ルアン・メェイは、ひととおりの研究を終えたからという理由で、彼らとの接触の一切を絶っている。ステーションからの定期連絡だけで事足りると言っているようだ」
二人の会話を聞いているのであろう生命体は、うみゅう……と小さく声を上げる。話の行く末を待っているらしい。新しい主人が決まるか、はたまた選ばれずにまた捨て置かれるか。
「教授」
「なんだ」
「彼らは僕の重しになんてならないよ」
「…………」
「けど、……彼らが前向きになる手伝いなら、したい、かな」
レイシオはかすかに目を丸くし、すぐにふっと表情を緩めて「充分だ」とつぶやいた。そうして、どれを選ぶかと問われ「全員」と即答したがために、生命体は三匹仲良くアベンチュリンの家にやってきたのだ。
アベンチュリンの肩にたどり着いた一匹が、ふふんっ、と自慢げに尻尾を揺らす。それが首あたりに触れてくすぐったくてたまらない。笑ったら、ころん、とその子が転がり落ちた。慌てて受け止めるために両手を広げると、今度はその勢いのせいで膝でくつろいでいた子がころころと落ちていった。
「ああああ、みんなごめんっ。大丈夫かい!?」
「へーき~」「いたくな~い」「元気ー!」
「そ、それはよかった……」
受け止めた一匹をそっと床におろしてから立ち上がる。
時刻は7時から少し過ぎた頃。冷たい水を飲んでストレッチをしながら新聞を広げて日付を見て、そこで気づく。
――今日、僕の誕生日だ。
そうか、だから故郷の夢を見たのか。ひとり納得をする。
忘れたわけではないけれど意識すると辛いから、普段はあまり思い出さないようにしている。けれど、今日は少しだけ特別だ。特別な日だ。
いつもの仕事着へ着替えて、無意識に左手を開いては閉じてを繰り返す。そのたびにショートグローブの革がぎゅっ、ぎゅっ、と音を立てた。
荷物をまとめるたびに、ぽてぽてぽて、と小さい足音がついてくる。その様子が愛らしい。つい、ふふ、と笑みがこぼれた。
「ご主人、朝ご飯は?」「また食べないの?」「ぼくらのは用意したのに?」「だめだよー」「たべてっ、たべて!」「自分のぶんも!」
「分かった分かった、食べる、食べるから。踏みそうだからちょっと、足元から離れて、」
食卓についていないことを見抜かれ、一歩進むたびにもにゃもにゃと絡みついてくる彼らは大変に可愛らしい。可愛らしいけれど踏み抜きそうでヒヤヒヤする。冷蔵庫からゼリー飲料を取りだして、テーブルに座って封を切る。……足元からじとっとした三対の眼がむけられた。
──まったく。これじゃあどちらが世話を焼かれているのか分からないな。
「ここからはプライベートな話をしたいのだけど、構わないかな」
ジェイドの執務室にて。必要な報告と書類の受け渡しを終えてから、アベンチュリンが問うた。渡された書類を確認していたジェイドは「ええ」と軽い返事とともにそばに控えていた部下を退室させる。
「珍しいわね、坊やの口からプライベートだなんて」書類の端を揃えながら「なにかあったのかしら」
「夏の新作、見たかい?」
ほら、あそこの……と続くブランド名に、ああ、とこぼす。ジェイドがアベンチュリンに教えたブティックだ。今年の夏服はもちろん、小物やメンズ展開も含めてチェックしている。
素直にそう答えれば、ふわ、と珍しく柔らかな笑みが返ってきた。
「君のお眼鏡に叶うものはあったかい?」
デスクの前でしゃがんだアベンチュリンがふちに手をかけて、下から覗き込むようにしてジェイドを見る。少々甘えた仕草だ。高級幹部としての威厳はどこにもない。
そこでジェイドは、今日の日付と彼との関連性に気がつく。同時に、求められているであろう言葉にも察しが付いた。なるほど、確かにこれはプライベートな話だ。カカワーシャを知る自分にくらいは素直に告げればよいのにと思うと同時に、彼をともに砂に屠った自分が言えたことではないとも理解している。
「ええ、もちろん。他にも気になっている店がいくつかあるのよ」
二色に分かれた瞳を見つめ返し、にっこりと笑みを返す。
「どこかに都合のいい荷物持ちはいないかしら。心当たりはある?」
――ゆえに。不器用に甘えたがる彼の願いを叶える程度の距離が相応しかろう。
ジェイドの返答を聞いたアベンチュリンは、ぱっと表情を輝かせる。
「なら、君に付き従う名誉を僕がもらっても?」
「ふふ。ええ、もちろん。あなたならなにも心配ないわね。“ありがとう”、アベンチュリン」
待ってましたとばかりに提案に飛びつく彼に、求められていたであろう言葉を渡す。するとアベンチュリンは嬉しそうに「どういたしまして」とはにかんだ。
当日は、彼にたくさんのショッパーを持たせてやろう。そのついでに、ちゃんとした贈り物も見繕うのだ。決定的な言葉を避けて満足しようとする無欲な彼に、こちらから欲をぶつけてやる。それに気がついたときの彼の反応が今から楽しみで仕方ない。
日取りの約束を確認しながら、ジェイドは近い未来に思いを馳せて、ゆるく目を細めた。
――この調子なら、あの惑星への定期監査ももうじき必要なくなるだろう。
アベンチュリンはピアポイントに戻る星艦で、今回の資料を見返していた。自身が担当した案件にしては穏当に、そして順調にことが進んでいる。報告に上がっている数字にも特別な違和感はないし、返済見込みも充分にある。あえて問題をあげるとすれば少々回収がゆったりしている程度だろうか。
――ま、圧をかけるほどじゃないな。
目的地に到着した。星艦が緩やかに停泊する。時刻はちょうどお昼どき。今頃本社内の食堂はたくさんの人であふれかえっていることだろう。うっすらとした空腹を自覚してはいるものの、人混みに揉まれてまで欲を満たしたいかと言われると、……いささか返答に困ってしまう。
――席があるか確認してから決めても遅くはないか。
自分の幸運からして、空席がまったくないというのも想像がつかなかった。執務室によって重要データの保存を済ませてから、食堂にむかう。
案の定、食堂は大盛況であった。会話。笑い声。たくさんの人が行き交う音に、厨房が稼働しているのであろう音。それから食欲を鷲掴んで引きずり出そうとする料理の香りが満ちている。休憩中というのも相まって、席についている職員の表情は穏やかだ。
空席を探すためにざっと中を見回して――ある一点に視線が縫い留められた。雪のように白い髪の彼女と、燃ゆるあかがねの瞳の彼が相席している。しかも、彼のほうは時折ふっと表情を緩める瞬間さえあった。
珍しいと思った。同時にチャンスだとも思った。空席を見つけるなんかよりも、もっと大きな幸運が巡ってきた。
すぐさま来た道を引き返し、廊下に設置されている適当な自動販売機の前で足を止める。少々考えてから温かいミルクティーを二本と、その隣にあるどこのものとも知らないコーヒーを一本購入した。腕のなかに抱えるようにしてそれらを持って、急いで食堂に戻る。……よかった、まだいる。小さく呼吸を整えてから、普段通りを意識して二人のもとへ近づいていく。
「トパーズ! 教授!」笑って、空いている手を上げて「珍しい組み合わせじゃないか。相席しても?」
振り返った白髪の彼女、トパーズは、アベンチュリンを見るなり顔をしかめた。嫌がる様子を隠しもしない。対しあかがねの瞳の彼、教授ことレイシオは、アベンチュリンが近づいてきていたのが見えていたこともあってか、特別な反応は示さなかった。
トパーズに断られてしまう前に、さっとレイシオの隣に腰掛ける。四人がけの四角いテーブルの上には、食後のデザートであろうケーキが3つ置いてあった。――3つ?
「おや、……すまない。先約があったのかな。もうひとりはどこに?」
さっと二人が目配せする。そしてすぐに正面のトパーズが「私たちふたりだけだよ」と答えた。
「それより、ギャンブラー」
ではなぜ、ケーキが3つもあるのか。アベンチュリンが問うよりも先に、レイシオが口を開く。
「昼食はどうした。まさか、それで済ませようと言うわけじゃないだろうな」
「ああ、これ?」
さも今気づきましたと言わんばかりに腕の中を見てから、笑みをつくる。
「そうだ、せっかくならもらってくれないか? さっき自販機で押し間違えてしまったうえに、アタリを引いてしまってね。困っていたんだ」
そういって、二人の前にボトルを差し出す。ついでに、本当はこれが飲みたかったんだと言わんばかりに缶コーヒーを振って見せた。甘いものを好むレイシオと紅茶が好きなトパーズ。押し間違いを主張して二人に渡すなら、ミルクティーが最適だ。アベンチュリンならば、アタリを引くのだってそう珍しいことでもない。
ボトルを渡された二人は、アベンチュリンを抜いて視線で会話したあと、片方はくすりと笑って白い髪を揺らし、片方はため息とともにあかがねの瞳を瞬かせる。
「“ありがとう”、アベンチュリン。遠慮なくいただくね」
「……僕も彼女にならうとしよう、“ありがとう”」
「ふふ。どういたしまして」
二度も繰り返されたアイコンタクトのせいでちょっとの疎外感を覚えたが、目的の言葉を引き出せたので良しとしよう。缶のタブを持ち上げて開封し、口をつける。……コーヒーのくせに甘い。改めてパッケージを確認して、微糖の文字を見つけた。反対側を選べばよかったかもしれない。
「それじゃあ、私たちからも。このケーキ、もらってくれないかな?」
「そうだった。どうして3つ目のケーキがあるんだい?」
トパーズが皿ごと動かして、アベンチュリンの前にケーキを置く。おそらくチーズケーキだろうそれは、レイシオの手元にも、もちろん彼女の手元にもあった。
「券売機で押し間違えたんだ」短くレイシオが答える。「手が滑って必要分より多くボタンを押した。仕方がないから交換した。トパーズの姿を見つけて、引き取ってもらえないかと思ったんだが……」
「同じものを注文してたから、困ってたわけ」
「ふうん、なるほど。そういうことなら遠慮なくもらおうかな」
――教授がそんな凡ミスをするなんて珍しい。
らしくない、と思ったのが率直なところだ。けれどレイシオは、普段から凡人を自称している。アベンチュリンの勝手なイメージで、ヒューマンエラーさえ許されないとなったら、たまったものじゃないだろうそういうことだってあるだろうと己を納得させる。
では早速、とデザートフォークを手に取ったところで「待て」とレイシオに止められる。
「もう一度聞く。昼食はどうした」
「あー、っと。……これが代わり、ってのは、……ダメだね。分かった。注文してくるよ」
ギッッ、と。音が聞こえそうなほどにきつくレイシオに睨まれたので、両手を上げて降参の意を示す。ケーキは食事の代わりにならない。オーケー分かった。トパーズは我関せずの態度を貫きながら、ぱきっとミルクティーのキャップをあける。ふわりと優しい香りが広がった。
「こうして顔を合わせたんだし、せっかくなら君たちの近況を聞かせてくれよ。それぐらいの時間はあるだろう?」
「構わないが、……そちらは?」
「いいわよ。ケーキもミルクティーもあるしね」
アベンチュリンの提案に、三度目のアイコンタクトをしてからふたりが頷いた。
さっきからなんなんだ。三回目ともなると気になって仕方がない。アベンチュリンは戻ったら絶対聞き出してやると決意し、さっさと注文を済ませようと券売機にむかった。
◆
「まさか、本当に君の言う通りになるとはな」
孔雀の尾羽のように派手なジャケットが離れていくのを見ながら、レイシオがつぶやいた。それを受けたトパーズは「ふふ」と小さく笑ってミルクティーに口をつけ、すぐにキャップを閉じる。
「言ったでしょ、今日は特別だって」
「そうだな、普段に比べれば幾分か素直なように感ぜられた」
ミルクティーを渡してきた言い訳も、ケーキを受け取る際の態度も。仕事でやり取りをするときに比べれば素直――というよりも、気が抜けていると称するほうが正しいか。他のことに意識が回っているような様子が見受けられた。
――12時になる少し前のことだ。
昼食時の食堂にはなかなか空席が見つからないうえ、休憩で羽目を外すバカアホマヌケが散在する。石膏像を被って五感を制限していたとしても、どうにも意識から締め出すことは難しかった。
そんななか。白髪の彼女――トパーズを見つける。彼女がいる一角だけは人が少ない。どうやら遠巻きに彼女を観察している輩がいるようだが、それでもトパーズのそばならばいくらかマシだろうと考えて相席の提案をした。トパーズは突然現れた石膏像に面食らったものの、すぐに了承する。
「ああでも、もしかしたら……。あとでアベンチュリンがくるかもしれない。それでも平気?」
「彼と昼食の約束をしていたのか?」
「ううん。でも、絶対くるから」
トパーズとの直接的な関わり合いは少ない。アベンチュリンが合流するのであれば、レイシオとしては願ったりかなったりだ。共通の知り合いというのは、それだけで場の緩衝材になり得るのだから。
――それにしても、“もしかしたら”の次に“絶対”と続くのか。
トパーズも、自身の発言が食い違っている自覚があったのだろう。石膏像のままじぃと観察してくるレイシオに耐えかねて、ごまかすような笑みをこぼす。
「今日は多分、彼にとって特別な日だからね」
「ほう? 初めて聞いたな」
「私も直接聞いて確かめたわけじゃないけど、感覚的に知ってるの。きっと私たちが二人でいたら、甘えにくるよ」
「あのギャンブラーが、……甘えに?」
想像できない。いや、したくない。脳が思い描くのを拒否していると言ってもいい。石膏像を外し「根拠は?」と尋ねる。
いわく、この時期はいつもより素直になる。いわく、“ありがとう”と言われると分かりやすく破顔する。いわく、普段よりも会話をしたがる。いわく、いわく――。
トパーズの経験によってつちかわれたそれらは、しかし根拠と呼ぶには弱い。が、それだけのことが毎年この時期にのみ現れるとなると、なるほど、特別な日と呼称するのも頷けた。
「だから知り合いがこうして集まってたら、彼はくる。絶対くる。間違いない」
「ふっ、そうか。君が言うなら、そうなのだろうな」
「……あっ。レイシオ先生。よかったら知恵を貸してくれないかな」
彼女は、分かりにくいながら毎年必ず甘えにくるアベンチュリンをしっかり甘やかしたいらしい。しかし、目を見て誠実にお礼を伝えても、忙しそうにする彼を手伝おうとしても、怪訝な顔をされるばかりでうまくいかないのだそうだ。「どうすればいいと思う?」と真剣な表情で、レイシオに助言を求めてくる。
たまらず、ふ、と表情が緩む。トパーズ当人は真面目に考えているのだろうが、どうにも厄介な兄に振り回される妹のようだ。アベンチュリンのことを苦手な同僚だと公言してはばからないのに、そんな相手にも誠実であろうとする。それがトパーズの美点なのだろう。
「では、こういうのはどうだろう」
レイシオは求められるがままに“3つ目のケーキ”の案を出し、トパーズがそれをいたく気に入り、作戦を練って実行し――そうしているうちに、本当にアベンチュリンが食堂にやってきた。
トパーズもレイシオも、渡されたミルクティーが間違えたものだとは思っていない。本当に間違えたのであれば、廊下を歩く適当な誰かを捕まえてさっさと押し付けていただろう。アベンチュリンとはそういうやつだ。わざわざ二人の好物を選ぶくせにそれを隠そうとする、そんなやつである。
温かいボトルを両手で包んで暖を取る。熱が逃げてしまうのがもったいなくて、レイシオは、しばらくは封を切れそうになかった。
数字、数字、とにかく数字――。どれだけ処理しても次から次へと新しい数字が追加される。
「やってられっかー!」
うわーーーんっ、と泣き真似をしながら、俺はデスクに突っ伏した。隣の先輩は「ははっ」と短く笑うだけで、手伝ったり励ましたりしてくれることはない。それはこの一ヶ月でよくよく学んだ。学ぶしかなかった。
4月。戦略投資部への配属が決まったときが俺の幸運の絶頂だったように思う。どの部隊に配属されるんだろうか。もしかしたら不良資産清算エキスパート……通称“十の石心”のもとに振り分けられるかもしれない。それでそれでもしかしたら、トパーズ総監のピケ部隊に配属されるなんてこともあったりしちゃったりしてぇ、総監と話す機会が増えて仲良くなっちゃったりしちゃったりして~~! ……などと、夢の翼を広げて逞しく妄想していた頃が懐かしい。
実際、俺はめでたく石心のもとに配属された。――アベンチュリン総監の部隊に、だが。
配属先が決まった瞬間、俺は、終わった……と察し燃え尽きた。だってそうだろ? あの、ギャンブル狂いで有名な、博戯の砂金石を持つ、なにを考えているか分からない胡散臭い笑顔の、元奴隷でエヴィキン人の部下になるのだ。絶対頭からつま先までガッツリしっかり使い潰されて、最後にポイされるに違いない。
とにかく生きねば。危ないことからは遠ざかるように、うまく立ち回らねば。外勤でも警備でもないのに、なぜこうも命の危険を感じねばならないのか。恨むぞ人事――ッ!
……と緊張していたのは最初の一週間だけだった。というのも、俺の教育担当になった先輩が最初に任せてくれた仕事は、過去の不良債権の報告書と、経費申請の履歴……もとい、アベンチュリン総監の治療歴が記された書類たちの整理だったからだ。なんだこの経費の流れは。というか総監、病院の世話になりすぎだろ。
「びっくりした?」
「はい、とても」先輩の柔らかい声に、素直に頷く。「なんでこんなにケガしてるんですか、あの人。ロシアンルーレットでふっとばしたり、ハンドナイフトリックでざくっと指いったりしたんですか」
「あははっ、総監へのイメージがよく分かるなあ」
先輩が一緒に経費関連の書類を覗き込む。そしてひとつずつ指を指しながら、歌うように教えてくれた。
「これはよそ見をした部下をかばって、鉄骨を背中で受けたときのやつ。これは取り立て相手がやけになって民間人を巻き込もうとしてしたから、子どもの代わりに撃たれたときのやつ。こっちは……そうだ、火事になった家屋にまだ人がいるって飛び込んでいったときのやつだね」
「……なん、と、いうか。それは、」
「びっくりした?」
今度は返事ができなかった。なんとか、こくり、と頷けば「だよね」と先輩が笑う。
ここに配属される新人は、みな、なにかしら、よくない想いを抱えている。大抵はアベンチュリン総監への嫌悪であり、嘲りであり、隔意であり、……それらは最終的に恐怖に帰結して、距離をおいて理解を拒む。
「だから先輩は必ず、新しく入った子にデータを見せる。ぼくらは商人だらね。昨日今日会ったばかりの相手が紡ぐ言葉よりも、雄弁に語る過去の履歴と数字のほうが信じられるものだ。そうだろう?」
先輩に言われたあの日から、報告書を見たそのときから――。俺は、ひとまず噂は一旦忘れることにしようと決めた。俺らは商人だ。価値を見定めて本質を見抜き、取引をする。なのに、上司の不確かな噂だけを見て実態を確かめず、そういうものだと思考を止めてしまうのは、確かにもったいないと思ったのだ。
その結果――。
5月現在。アベンチュリン総監への印象は、大量の仕事を回してくるクソ上司へと変貌した。
しかもこのクソ上司、どうやら部下の適性を見て仕事内容を決めているらしい。俺にはありとあらゆる数字の処理を回しているようだが、先輩は次から次へと湧いてくる案件の整理や下調べなどが回されているらしかった。任される量も絶妙で、文句を言い、すねて駄々をこねながらやっても、ぎりぎり残業をするかしないかの瀬戸際程度しかない。性格を見越されている気がする。大変にムカつく。
デスクの上でごろごろと額を転がして「もぉやだぁ、計算したくないぃ」と呻く。先輩は変わらず笑っていたが、ぼそっと「分かるわぁ……」とつぶやいたのを聞き逃さなかった。やっぱり先輩だって嫌なんだ。よかった、俺だけじゃなかった。
「いやあでも、一ヶ月で君が馴染んだようでなによりだよ」
「仕事量のせいで馴染む馴染まないどころじゃないんですよこっちは」
書類の受け渡しにあたって、部署内のメンバーとの会話は強制的に発生する。分からない処理が出てきたとき、「分からないから後回し」なんて言う余裕がないから、とにかく先輩にヘルプを出す。石心の仕事は他の石心とも密接に関わっているから、必然的に戦略投資部内のあっちこっちを訪ねて回る――…………。
「これで“部署のみんなと仲良くなれるか不安ですぅ”とか抜かす余裕あるヤツがいたら、とんでもない神経してんなって思いますね、俺は」
「はは、それに関しては同感。スパルタだよねえ、総監は」
「まったくだ」
それでいて、“俺には無理だ”と思うようなことを任されたことがないんだから、ホント、あの上司もとんでもない。一体いつどこで、俺たちのことを見てるって言うんだか。
「君たち、随分と余裕そうだねえ。もう少し任せても大丈夫そうだな」
唐突に、いやぁにねっとりとした声がかけられる。驚き、反射で背筋がビシィっと伸びた。「これ以上数字見てたら爆発します!!」と叫べば、存外子どもっぽい笑い声が返ってきた。
「それは困るな。爆発したとき損害がいくらになるか、計算してみる?」
「やだー! 余計な計算したくなーい! やだぁ!」
ころころと笑う背後の声――もとい、アベンチュリン総監は「冗談だよ」と俺の肩を数度、ぽんぽんと軽く触れた。この人は冗談みたいな言葉とともに仕事を増やしていくから、油断ならない。隣の先輩はやはり「ははっ」と笑うばかりで助けてくれないみたいだ。そっちもさっきまでサボってたくせに!
「ま、おやつ時で集中が切れてくる時間帯だしね。多めに見てあげよう」
「……別にサボってないですが」
「分かってるよ。君の仕事を見ていれば、ちゃんと分かる」
ぐぅ、と喉が鳴る。ホントに、この人はいつどこでなにをどこまで見てるんだ。
視界のはしをきらきら輝くものがころんと駆けていく。なんだと思って顔をむければ、小粒なキャンディがいくつか並べられていた。
「差し入れ。他の子には内緒ね。二人で食べて」
つい、振り返る。
総監の、特徴的な瞳とかち合った。
驚いたようにまんまるになった目が次第に照れくさそうにやわくなって、それから、口元に人差し指をあてて、しぃ、と吐息をこぼした。
「あ、」
――そんな顔、するんだ。
「“ありがとう”、ございます」
「うん。どういたしまして」
離れていく総監を見送ってから、デスクの上に転がるキャンディにもう一度目を落とす。透明度が高いカラフルなそれは、小さな宝石のように見えた。先輩の指先がその中から緑色のものを選んで取っていく。
「改めて。この部隊にきて、どう?」
赤いキャンディに伸びていた手が一度止まる。それから少し考えて、……俺も、緑の粒を選んで口に放り込んだ。
「まあ……、悪かないですよ」
うっすらと青みを帯びてはいるものの、辺り一帯はほんのり薄暗い。低い位置にある陽のせいで長く長く伸びた影が、一層暗い印象を増長させているのかもしれない。
オフィスに残っていた部下のことごとくを追い出したアベンチュリンは、外に出たところで珍しい人物を見つけて、思わず足を止める。
灰色の髪と金の瞳。オーバーサイズの白いシャツと丈の長い黒いコート。それが風にはためくたび、裏地の黄色がチラチラとまたたく。――星穹列車のナナシビトがひとり、穹がいた。彼はビルから出てくる人をひとりひとり確認しては、退屈そうに唇を尖らせている。
どうして穹がいるのだろう。アベンチュリンは考える。誰かを待っているとか? 誰を。――彼と仲が良い人物といえば、トパーズが思い浮かぶ。あとは、技術顧問のレイシオだろうか。彼は穹を大学に誘うくらいには気に入っていたはずだ。
そうして脳内で思考を巡らせていると、不意に穹と目があった。瞬間、彼がふわりと微笑む。
――おや? なにか、……なんだ。
アベンチュリンが拾い上げたかすかな違和感について考える前に、穹が大きく手を振って駆け寄ってきた。
「遅いぞ。待ちくたびれたじゃん」
「あれ、」首を傾げる。彼となにか約束をしていただろうか。「待たせてごめんよ、マイフレンド。なにかあったのかい?」
「なにかなきゃ来ちゃだめだった? お前に会いにきたんだけど」
軽く首をかしげた穹は、アベンチュリンの反応をうかがうようにじっと見つめてくる。そういうものかと納得する自分がいるものの、頭のどこかが訴えてくる違和感を無視できない。
「このあと時間はある? せっかくだし遊びにいこうぜ」
返事を紡ぐ前に手を取られ、強引に引っ張られる。もつれた足を不器用に踏み出せば、穹にからからと笑われた。
穹はピアポイントを歩くのが初めてなのか、目に映るものひとつひとつに「あれはなに?」「こっちはなんだ?」と好奇心をむけて、アベンチュリンに解説を求めてくる。本社から歩ける範囲にある施設はたいていスターピースカンパニー関連のものだから、説明すること自体はたやすい。あの港に並ぶ、たくさんの艦の、積荷のほとんどが琥珀の王に捧げるための建材だし、角砂糖みたいな白い建物は技術開発部の実験・研究室だ。そのむこうにあるひときわ目立つ建物は業務強化部が専用で使う建物で、社員の約半数があそこを利用している。
「じゃあこのゴミ箱にはどんな秘密が……!?」
「ゴミ箱はピアポイントでもただのゴミ箱だよ」
「そんなことない。地域ごとにデザインも違うし、中に収まるものも違うんだ。いわば人間生活に寄り添った、無限の可能性を秘めた宝箱!」
「ううん、そうかなあ……? 君の感性、独特すぎやしないか?」
道の端に設置されたゴミ箱に釘付けになっている穹は、やれ「ここのは一等無機質だ」だの「これは空洞の響き……!」だのと言葉を尽くしては、きらきらと輝く瞳をむけてうっとりしている。
青みをたもっていたはずの空は気がつけば赤く染まり、夕暮れと呼ぶに相応しい色になった。薄ぼんやりとしていた影も濃さを増して、建物と建物の隙間から差し込む陽光が、真横から瞳を突き刺してくるようだ。
この頃にはすでに、アベンチュリンは己が抱いていた違和感の正体に気づいていた。気づいたうえで、目の前の“穹”の好きなようにさせていた。目的を探るために、“彼”がなにかをしでかさないように監視をかねて。……しかし、待てど暮らせど尻尾を出さない。“彼”と本社前で合流してから、ゆうに2時間は経とうとしている。
――そろそろ潮時だな。
「もういいんじゃないか、愚者」
ビルとビルの隙間に設置されていたゴミ箱に頬ずりをしていた“穹”は、ピタリと動きを止める。それに抱擁したまま、ゆっくりとアベンチュリンを振り返り、ニタァ……と口角を持ち上げた。
「あっれぇ~? いつ気付いたの?」
「少なくとも本社前で会ったときから、なにかがおかしいとは思ってたよ」
「なぁんだ、つまんな~い。ノリ悪いなあ」
“穹”の顔で、“穹”がしないような表情をして、“穹”が使わないような言葉を紡ぎ出す。
緩慢な動作で彼が立ち上がる。その瞬間、突風が吹き込み、たまらずきつく目を閉じた。己の髪が頬を叩く。……落ち着いた頃にゆるりとまぶたを持ち上げれば、すでに“穹”は消え去り、代わりに艷やかな黒髪を高い位置でふたつに結んだあどけない少女がいた。少女はキツネの面を手の中でくるくるともてあそぶと、異国情緒あふれる赤い衣をふわふわ揺らして笑い、ゴミ箱の上に腰掛ける。そうして自分のももに肘をついて、じぃ、とアベンチュリンを見つめた。
「わざわざ彼の姿を使ってまで僕に接触して……一体なにが目的だ、愚者」
「え~? さっきも言ったじゃーん。花火は、孔雀ちゃんに会いにきたんだよ?」
「本当かい? 僕はあのときと違って面白いショーを開く予定もないし、盛大な花火の打ち上げを頼んだ覚えもない。僕のそばになんのイベントもないというのに、君がわざわざ会いにくるって?」
途端、少女はぷくぅ~~と頬を膨らませ「どぉして信じてくれないのかなあ」と足をばたつかせる。幼子のような純真さを感じさせるその仕草が、ピノコニーのすべてを吹き飛ばすボタンを渡そうとしてきたときと同じような空気を想起させ、警戒心を強く刺激する。
ぴょんっ。とゴミ箱から飛び降りた少女は、からりんころんと靴を鳴らしながら、夕暮れに身をさらす。長い長い影ができて、アベンチュリンの体にかかった。
「芦毛ちゃんに頼まれたからってのはもちろんあるけど……でも、それを抜きにしても、花火は花火が会いたいから、遊びにきたんだよ」
――芦毛ちゃん? 一体誰だ。
尋ねるよりも先に、少女がゴミ箱から離れ自由に歩き始める。ひとまず、その背中についていこう。二人分の影が重なった。
からりんころん。こつ、こつ、こつ。中心街からだいぶ離れた道の上に、足音が響く。周囲に人の気配はない。アベンチュリンの記憶が正しければ――間違っているとは一切思わないが。――この先にあるのは倉庫街だ。自動機械を配備して、黙々と貯蓄しておくべきものを集めてしまっておくだけの場所である。
「花火ねえ。こうやって、ちゃんと施設の見学をすることって、あんまりなかったんだよね」
「へえ? 意外だな。役者はいろんな知識がいるだろう」
「もちろん、ただ眺めるだけならいくらでもあるよ? でもねえ。ああやって、誰かと一緒に見て回るのは初めてだったから」
倉庫街に入る。運送用の小型ロボットが、梱包された荷物を抱えて走り過ぎていく。空箱を運ぶ一体に目をつけた少女が「えーいっ」と勢いよく押し倒した。ガシャーン! と派手な音を立てて倒れたロボットがコンベアの底面をさらして空回る様子を見て、けたけたと少女が笑う。
しょうがないなと思いつつ、倒れたその子を起こして箱を改めて乗せてやる。ピピピ……と電子音を数度鳴らして、何事もなかったかのようにごろごろごろ………とアベンチュリンから離れていった。
「星艦から積荷を下ろすのを見ているだけであんなに楽しかったのははじめて! きっとああいうのって、社会科見学とか言うんだろうね」
「まあ、そうかもね。見て分かることの説明ばかりだったけれど、楽しんでもらえたのならなによりだ」
「うんっ」
くるりっ。振り返った少女は夕日を背中に背負って、逆光のなか満面の笑みを見せる。
「だから“ありがとう”、孔雀ちゃん! すっごーく楽しかった!」
「、は」
不意打ちの言葉に思考が止まった。じわりと滲むように、胸に言葉が落ちて広がっていく。
分かりやすく目を大きくして驚くアベンチュリンの様子を観察していた少女は、猫のように目を細めてニンマリと満足そうだ。またくるりと方向を戻して歩を進める。
「花火が今日芦毛ちゃんに頼まれたのはね、孔雀ちゃんの足止めとぉ、時間になったら連れてきてほしいってののふたつ!」
「……僕と取引をしたがる潜在的顧客がいたとはね。それも、愚者を通じての招待だなんて、なかなかシャレているじゃないか」
「あっれれ? もしかしてー、まだ気づいてないの?」
ついに倉庫街を抜ける。並ぶ大きなコンテナの代わりに現れたのは、開拓の運命をひた走る星穹列車の姿だった。
「な、んでこんなところに」
「孔雀ちゃんが言ったらしいじゃん。“港に列車が停まる余裕はないだろうから、ピアポイントにくるときは倉庫街に停泊できるようにしておく”って。芦毛ちゃんたちは律儀にそれを守っただけでしょ?」
そう言われれば……ピノコニーでナナシビト一行と別れるときに、そんなことを言った気がしないでもない。アベンチュリンの発言を聞いたトパーズやジェイドも乗り気になって、倉庫街に場所を用意する旨を約束していたはずだ。
と、なると。少女が何度も口にしている芦毛ちゃんというのは、やはり――……。
「……あれ、いない」
視線を外した一瞬のうちに愚者の少女は姿を消していた。
赤かったはずの空は、いつの間にか夜のカーテンを用意し始めたらしい。ちらほらと星のボタンが覗き始めている。主張していたはずの影も周囲の薄闇に溶けるように馴染んでいて、列車の照明によってかろうじて生まれている程度だ。
結果的に列車の前に取り残されたアベンチュリンは、出入り口の扉をじっとりと見つめる。念のため端末のメッセージアプリを立ち上げてみるが、穹とのトーク画面は更新されていない。
――愚者にからかわれたか?
疑念が湧く。けれどすぐに、胸に広がった少女の言葉を思い出す。とても、……とても、うれしかった。
――ま、騙されたならそのときはそのときだ。
案内された先がナナシビトの列車ならば、そしてそこにアベンチュリンの友人がいるのであれば、立ち寄らない理由もないだろう。
乱れたジャケットを羽織り直し左手を開いて、閉じて、脱力する。
「よし、――行こう」
「お誕生日、おめでとー!」
アベンチュリンが星穹列車に入った途端、パンっ、と軽く爆ぜる音がして、次いで色とりどりの紙吹雪とカラーテープが視界の中を舞い踊る。一番近くでクラッカーを鳴らしたらしい穹は非常に満足げに胸を張っており、状況を理解していないアベンチュリンの手を引いて、ラウンジの中に引き込んだ。
クジラを模したやわらかな照明。アンティークな蓄音機から流れるのは、明るく弾む楽しげな音楽。宇宙の星々を余すことなく魅せるのであろう大きな窓はガーランドで飾り付けられており、ラウンジの中央にはどこからか出してきたのだろう見慣れない大きなテーブルが設置されており、ホールケーキをはじめとした様々な料理が並んでいる。
誰がどう見ても、バースデーパーティーの会場だ。疑いようもなく、完膚なきまでに、祝いの席である。呆然とするアベンチュリンの肩から、はらり、引っかかっていたカラーテープが落ちた。
当然、ほかの列車組もそろっている。姫子とヴェルトは穹に手を引かれ放心気味のアベンチュリンを微笑ましげに見守っているし、なのかはこのパーティーをアルバムに収めんとカメラを構えている。ピノコニーの狂騒に途中から参加した丹亘は、黙々と人数分のカトラリーを用意していた。
いつまで経ってもまともな反応を見せなかったからだろう。穹は少々困ったように眉を下げて、遠慮がちに手を離した。
「こういうサプライズは苦手だった?」
「いや、……。……そんなことはないさ。けど、どうして今日が僕の誕生日だなんて思ったんだい?」
「ブラックスワンが教えてくれたんだ。彼の特別な日をお祝いしましょう、って」
ほら、そこに。と穹が一角を示す。
ラウンジの奥、テーブルの影。ソファーに悠々と座るヴェールをまとった女性――ブラックスワンはアベンチュリンと目を合わせ、甘やかに微笑んでみせた。
――いつ僕の記憶を覗いたんだ。
誰にも告げていないアベンチュリンの誕生日を知り得るのは、共犯者のジェイドを除けばメモキーパーたる彼女以外にないだろう。エヴィキン人唯一の生き残りの記憶というのはガーデン・オブ・リコレクションからすれば喉から手が出るほど魅力的だろうし、ブラックスワンとはピノコニーで接触する機会も多かった。だから彼女がアベンチュリンの誕生日を把握していても不思議ではない。不思議ではないが……。
表面上はにこやかな表情を維持しつつ、無意識のうちに背後に回した腕に力が入る。アベンチュリンの記憶を覗いたのだとすれば、今日がなんの日なのか分かっているはずだ。なのに、なぜ。わざわざ、こんな。
ブラックスワンがソファーから立ち上がる。そのまま穹の隣に並んで、しっかりアベンチュリンと目を合わせた。
「私はね、アベンチュリンさん。お祝いごとはきちんとお祝いするべきだと思っているの。記憶は、記憶であると言うだけできらめくものだけれど、それをより素敵にする機会はいくらあってもいいはずよ」
「これがガーデン流のもてなしだというなら、相手を選んだほうがよかったな。メモキーパー。僕は他人とポケットを共有する趣味はないんだ」
はからずもふたりのあいだに挟まれた穹は、剣呑な空気を察して、せわしなく視線を動かしている。ブラックスワンの楽しげな笑みを見て困惑し、アベンチュリンの怒気を含んだ笑みにさらに眉を下げる。
「もしかして、祝われるの自体が嫌だった?」
返答に詰まる。言葉を探りながら考える。けれど、どうにもぴたりと当てはまるものが見つからなくて、首をふって否定するだけにとどまった。決して嫌なわけじゃないのだ。親しい人が自分に笑顔をむけて紡ぐ言葉が、嫌なわけがない。……ただ、アベンチュリンがその祝福を素直に受け取れないだけで。
カメラを抱えたままなのかは、ハラハラと落ち着きなくヴェルトのそばでそわついている。姫子と丹亘は成り行きに任せるつもりらしい、口も手も出さないようだ。
せっかく用意してくれたであろう料理が冷めてしまう。楽しげに流れる曲ばかりが空回っている。愚者の少女に頼んで場を設けてくれたのに、うまく空気に乗り切れない。
「じゃあさ、慰労会ってことにしない?」
ぽんっ、と手をうちながら穹が言う。いいことを思いついたとばかりに顔を輝かせて、どう? とその場の全員を見回した。
「ピノコニーのあれこれが終わったから、それのお疲れ様会ってことにしようよ」
「……いいのかい?」
「もちろん! 俺は誕生日を祝いたいんじゃなくって、お前が喜んでくれることがしたいんだ」
自然におろしていた右手と背後に回していた左手をとられ、そのままぎゅっと握られる。アベンチュリンよりも少し高い温度がじんわりと馴染んでいくようだ。
「それに、ケーキがあって料理があって一緒に楽しめる仲間がいれば、それだけで特別な日になるもんだよ」
「特別な日に、……」
「そう、特別な日! ついでに、そこにマイフレンドが加わってくれれば完璧だね。せっかく教えてくれたブラックスワンには悪いけど……」
「私は、アベンチュリンさんが今日を素敵なものと記憶してくれれば、理由はなんだって構わないわ」
じわり、じわり。胸をひたひたにひたす感情が上がってきて、目頭が熱い。滲む涙を数度の瞬きで瞳全体に広げてごまかす。ぱしゃっ! とシャッターが落ちる音が聞こえた。なのかが撮影したらしい。しまったな、情けない顔を撮られたかもしれない。
アベンチュリンの様子に気づいていないらしい穹はぱっと笑顔を咲かせて「よかったあ」と安心したようにこぼした。それからつながっている手をそのまま引いて、テーブルの料理の前まで導かれる。
中央に置かれているケーキには“お誕生日おめでとう”と書かれたチョコレートのプレートが乗せられていた。あっ、と穹が声をあげたかと思ったら、素早くプレートをつまんで口の中に放り込む。証拠隠滅の瞬間を見てしまった。むぐむぐと口を動かす穹に、丹亘が「行儀が悪いぞ」と小言をこぼす。
ぴしっと綺麗だったケーキは、乱暴にプレートが剥がされたことで表面のクリームが乱れてスポンジが覗いていた。それがなんだか滑稽で、おかしくて、腹の底から笑いがこみ上げてくる。抑えきれなかったそれがこぼれてくすくすと揺らせば、隣の彼も同じように口をおさえて笑い始めた。
「俺のわがままに付き合ってくれて“ありがとう”、アベンチュリン」
「こっちこそ。招待してくれて“ありがとう”、マイフレンド」
今日は特別な日だ。
地母神に祈りを捧げる祭日であり、――カカワーシャが生まれた日である。
祭日のために生贄を求めた父が流砂に飲まれ死んだ日であり、カンパニーの助力を得られると信じた一族がカティカ人への報復を決行した日であり――姉が死に、ひとり生き延びてしまった日である。
復讐だとか誇りだとか、地母神の声だとか。本音を言えばどうだってよかった。黒い服の人と一緒に行ってほしくなかった。嵐の中、この手を握ってともに逃げてほしかった。姉はカカワーシャに「たったひとりの家族なのだ」と説いて、「危ないことはしないで」と乞うたのに。形見よりもカカワーシャが生きて隣にいることのほうが大事なのだと言ったくせに。どうしてそれを姉自身に適用してくれなかったのか。
「いやだ、いやだよ! 姉さんも一緒に逃げようよ!」
だからあの日、ギリギリまで叫んで、すがって、離さぬように、ありったけの力をこめて強く強く姉を抱きしめた。カカワーシャの精一杯のわがままだった。
「聞いて、カカワーシャ。あなたはひとりでも逃げるのよ。あなたさえいれば、一族の血は途絶えたりしない」
背中に回った腕が抱きしめ返してくれたから、願いを聞き入れてくれると思ったのに。それなのに――。
「さあ、行って。振り返ってはだめ。どこまでも遠くに、誰の手も届かないほど先まで逃げるの」
彼女に回していた腕を無理やり引き剥がされて、代わりと言わんばかりに母のメダルを握らされる。互いの左手を重ねた姉は「お願いを聞いてくれて“ありがとう”、カカワーシャ」とほほえみ、呆然とする幼子の背を押した。
だから、カカワーシャは走った。
どこまでも、どこまでも走った。
大粒の雨が視界をさえぎり風の音が鼓膜を叩くなか、不安で不安で、怖くてたまらなくて、母が授けてくれたメダルを握りしめ泣きながら走ったあの夜が、どれだけ恐ろしかったか。必ず復讐を成功させると言いながら、誇りある死を叫び、カカワーシャひとりを逃がした矛盾が、どれだけ苦しかったか。
姉に捨てられたのだと感じた。一族から切り捨てられたのだとさえ思った。たったひとりの特別だなんて、群れから外れた失敗作と一体なにが違うというのか。
――地母神よ。我らがマザー・ファンゴよ。
――どうしてあの夜、僕には声を聞かせてくれなかったのですか。
◆
玄関の扉を開けて「ただいま」とアベンチュリンが声をかけると、部屋の奥から一斉にお菓子生命体たちがぽよぽよ足元に駆け寄ってお出迎えをしてくれた。しゃがんで一匹ずつ抱きしめて撫でてやれば、お菓子たちはみゃう~~ととろけてぺったり伸びていく。可愛くて仕方がない。
生命体の食事を用意して、三匹みんながしっかり食べてくれているのを確認しながら就寝の用意を整える。シャワーを浴びてスタイリング剤とメイクを落とし、最近気に入りのナイトウェアに着替える。生命体たちは食事中……というより、食後のまったり時間のようで、リビングのすみでなにやら仲良くにゃごにゃごしていた。内緒話をするように互いの耳に口を近づけて、くすくすおしゃべりしている。楽しそうでなによりだ。
彼らの邪魔をしないように、そっと寝室に移動する。そうして、部屋の片隅にあるクローゼットに手をかけた。数度の深呼吸を経て意を決して扉を開き、奥に仕舞い込んである小さな箱を取りだした。
模様も飾りもない簡素な箱は、けれどアベンチュリンにとっては大きな意味を持っていた。中には父が見繕ってくれた子供服と、母が贈ってくれたお守りのメダルがしまわれている。大切で、大切で――大切すぎて、いつもなかなか蓋を開ける勇気が取り出せない宝箱だ。
今回も例年に違わず、箱ごと抱きしめるようにしてベッドの上に座る。
蓋のふちに指をすべらせながら、家族の姿を思い描く。顔を描いて、一緒に過ごした日々を脳内に並べて、それから、苦労しながら声を思い出す。
人間ははじめに、相手の声を忘れるらしい。それを知ったときアベンチュリンは愕然とした。会話の内容は確かに覚えているのに、どうしてもうまく姉の声が再生できないことに気づいてしまったからだ。時間をかければかろうじて“姉はこんな声だったかもしれない”という音を紡ぐことはできたが、母のものはすっかりアベンチュリンの中から失われていた。たくさんの祈りと祝詞を捧げてくれたのは覚えているのに、それを紡ぐ声音を思い出せない。
だから今日は、たくさんの“ありがとう”が聞きたかった。最も強烈に焼き付いているあの日の姉の声を忘れないよう、その道標を欲していた。誰かの声を聞くたびに「この人よりは高い声だった」「姉はもっとゆったりとした話し方だった」と比較して、比較できるだけ覚えていることに安堵するのだ。
周囲に甘えている自覚がある。それも、とんでもなく捻くれた甘え方だ。性格の悪さがうかがえる。――嫌になる。
覆いかぶさるようにして体を丸めて、ぎゅうううと強く箱を抱きかかえる。外敵から身を守るようなその仕草は、アベンチュリンの中にいまだ残り続ける幼さの発露のようだ。でも、だって。もう、誰にも、なににも、奪われたくなかった。時間にすらあらがいたかった。なにひとつとして、大切なものを失いたくなかった。
不意に。かりかり……と寝室の扉をひっかくような音がした。どうやら生命体たちのおしゃべりが一区切りついたらしい。「あーけーてー」とにゃごにゃごねだる声が聞こえた。
抱えていた箱をベッドの上に置いて立ち上がる。扉を開けてやれば、三匹の生命体はぴゅんっと寝室に飛び込んできて、朝のときと同じように足元にじゃれついてきた。
「あのね、ご主人」「聞いてほしいことがあるの」「お話、お話しよ!」
「うん、うん。分かった、聞かせて。あと踏んじゃいそうになるから、ちょっと離れてね」
生命体はベッドの上にぴょいと飛び乗って、見慣れぬ箱に興味を惹かれたようだ。匂いをかいで周りをぐるぐると歩き回り、最終的には箱の両隣とその上に陣取った。先に箱をしまっておくべきだったかとも思ったが、害意があるようには見えない。……まあ大丈夫だろう。
「それで、どうしたの?」
「ぼくたち、きめたの!」「ママが迎えにくるかもしれないから、」「そのときにたくさん、お話できるようにしとこうねって」「お話できるような楽しいことを、いっぱいつくって」「知らないことをたくさん知って、」「えらいねって褒めてもらえるようにしようねって、きめたんだ!」
里親の条件の中には“ルアン・メェイが求めた場合、お菓子生命体を返却することに同意する”といった旨が記載されている。アベンチュリンはその項目を三匹に伝えていたし「だからいつか迎えにきてくれるかもしれないね」となでていた。当時の生命体は三匹とも睨むように目をすがめていて、アベンチュリンの言葉を信じていないことなど一目瞭然であった。
――なのに、いつの間に。
「ご主人がね、いつもいろんなお話をしてくれるから」「ぼくたち、お話大好きなの」「お話して、にこにこしてるの見るの好きなの」
だからママにもお話して、にこにこになってもらうんだ。
ぴょんぴょん、みゃごみゃご、にゃんにゃんと。三匹はそれぞれが思い思いに、一生懸命に鳴いている。一匹が視線を合わせるために床に座っていたアベンチュリンの膝の上に降りてきて「ずるい!」と即座に他の二匹もやってきた。お転婆な一匹が、また朝と同じように腕を伝って肩に登ろうとしていたので、尻尾のあたりを支えてやる。その子が肩にたどり着いたとき「“ありがとう”!」と鳴いて、頬を舐めてきた。ざりざりとしてちょっと痛い。
――けど、……彼らが前向きになる手伝いなら、したい、かな。
そうか。自分はちゃんと、彼らの手伝いができていたのか。独りよがりではなかったんだ。
「だから今日はね、お礼がしたいの」「にこにこのお礼に、ご主人がねるまでうたったげる!」「きらきらぼし、うたったげるね」
だから早く横になれと三匹それぞれにせっつかれたアベンチュリンは、肩の子をおろして、膝の子を両方おろしてから、宝箱をクローゼットの奥にしまってベッドに潜る。それを確認した生命体は、それぞれ尻尾でリズムを取って歌い出した。
……少しリズムがずれている。なんなら音程も上がりきらず、下がりきらない。ユニゾンのはずのメロディなのに、時折和音が聞こえる気さえした。その不器用な歌声が可愛くて。アベンチュリンのために紡いでくれるのが嬉しくて。つい、ふふ、と吐息がこぼれた。
――もし、家族のもとに行けたなら。
きっといつか、アベンチュリンも準備を終えたら地母神の導きにしたがってオーロラのもとに行く。そしてそこで家族に会うのだ。そのときに笑って話せる、笑ってもらえる話題がほしいとぼんやり思う。もしも久しぶりに会った家族がつらそうにしていたら心配してしまうだろうし、好きなものや楽しかったことをひとつも口にしないとなったら悲しくなる。
――姉さんたちも、きっと同じだろうから。
たとえばそう、手始めに。今日という特別な日の出来事から話すのはどうだろうか。