雨粒が眼球を穿つ感覚が最初だった。
次いで感じたのは「大丈夫か」と肩を揺らされる感覚。
ひどく痛む体に小さくうめき声がこぼれ、最後に鼻をツンと突くすえた匂いがした。
「大丈夫か兄ちゃん、立てるか」
耳がまともに働き出す。ざぁざぁと降りしきる雨の音が、体温を奪っていった。
にじむ視界を何度も瞬いてようやく見えたのは、つなぎを着た男性が心配そうにこちらを覗き込む姿。うながされるままに立ち上がろうと身じろげば、肌に張り付くビニールの不愉快な感触ともに、ずくんと鈍く響くような痛みが体に走った。
思うように動けない。まるで手足の動かし方を知らないみたいだ。自分を伝い流れていく雨が赤く染まって地に落ちるのが見えた。
のろのろと鉛のように動く俺を見かねてか、つなぎの男が助け起こしてくれた。そのとき、駐車されたごみ収集車と、自分が倒れていたのであろうゴミの山が見えた。
――捨てられたんだ。
ずどんと胸を貫く衝撃。一度立てたはずの足がふらつき、今度は固いコンクリートの上に転げて座り込んだ。さっき張り付いていたビニールは、ゴミ袋だったんだと気が付いた。つなぎの男性が「おっと」と声をあげながら、一緒にしゃがんでくれる。心配の色は健全だ。
「貧血か? ひどい怪我だもんな。救急車呼ぼうか」
「いや、」声が喉に引っかかる。咳き込む。「ひとりで帰れるよ。支えてくれたのに、倒れちゃってごめんね」
「それはいいんだが……」
つなぎの男は、ゴミ捨て場に視線を向けた。つられるように、俺も一緒にそちらを見る。積み上げられたゴミ山は、真っ赤な色で塗りたくられたように染まっており、相当な出血があったことを物語っていた。そのそばには羽飾りのついた帽子が落ちている。
つい、自分を見る。ずいぶんと狭い視界は左側の世界を重点的に教えてくれた。自分がベストにジャケットといったわりかしフォーマルな服装をしていること。見える肌はどこもズタボロで、内出血や刺創が散見されること。なんなら、服にも赤いシミをつくっていて、その下の惨状は見えなくても想像がついた。
「なあ、」男が、視線を合わせる。
――その目、やめてくれ。
「やっぱり救急車を呼ぼう」
――同情がにじむ目で見ないでくれ。
「雨の中でこれだけ血が残ってるんだ。しかもゴミ捨て場で」
――俺がゴミだって突きつけないでくれ。
「訳アリなのかもしれないけれど、見過ごせないよ」
――ゴミに優しくしないでくれ!
ぎしぎしきしむ体に命令を下す。筋肉の動かない頬に必死に信号を流して“笑顔”をつくる。痛い。あちこちが痛い痛い痛い。どろりと体のどこかから液体があふれる感覚がした、けれど知るものか。
ひょいと立ち上がって見せ、ゴミ山に転がっている帽子を拾う。どう考えてもこんなしゃれた帽子、俺の物だ。つなぎの男を見下ろす気分で両足で立つ。
「だーぁいじょうぶだよ、お兄さん。見た目はひどいが、俺の頑丈さは一級品さ。ちゃんと自分の足で病院に行くよ」
「けど……」
「だってあれでしょ、救急車って順番すっ飛ばして診察してもらえるんでしょ? 朝から並んでたおじいちゃんおばあちゃん飛ばしちゃうのかわいそうじゃない?」
きょとんとした様子だった男性はしかし、徐々に破顔した。
「そんな冗談が言えるんだったら、本当に大丈夫そうだな」
「だから最初からそう言ってるじゃん。もー、心配性だな。ありがと、すっごいうれしい!」
「仕事の邪魔をしちゃってごめんね」と言えば、「それは気にしなくていいさ」と笑われた。
じゃあねと手を振ったとき。にこやかな男の目にはしかし――同情が浮かんだままだった。
―◆―◆―◆―
流れていた血は、いつの間にか止まっていた。
コンビニで消毒液を買うお金がないことに気づいたのは、ポケットに手を入れたときだった。固めの紙のようなものが一枚、ぺらりと入っているのみ。取り出して見てみる。なにか文字が書いてあったらしい、“生きる絵画を”までは読み取れるが、それ以降は雨でにじんでぐちゃぐちゃだ。
傘をさして歩く人々とすれ違う。俺の右側を通っていく人に何度かぶつかった。本格的に、右に視力がないらしい。すみませんとお互いに謝りあうとき、ほとんどの人は俺が赤く染まった服を着ていることにぎょっとして、そそくさと逃げていくように去っていった。
――というか、俺って“だれ”なんだろう。
四人目にぶつかる頃には俺はすっかり謝り慣れて、相手が口を開く前に謝罪の言葉がすらすらと流しながら、思考は別方向に飛ばすことができた。
俺って、誰なんだろう。名前が分からないことに気が付いてしまった。それだけじゃない。家がどこなのか、家族がいるのか、今なんの仕事をしているのか、なにも分からないのだ。友達も、知り合いも、顔見知りも、なにも出てこない。頼る当てがない。怪我をした経緯も分からない。右側が見えない理由も分からない。なにが分かっているのか分からない。
唯一分かるのは、“生きる絵画”とやらの、うさんくさいなにかに関わっているらしいことだけ。
――数学の問題じゃないんだぞ。
基礎ができてないから応用ができないとか、そういう勉学の話ならよかったのに。そうしたら、どこから分からなくなったのか、さかのぼって整理ができた。……ああいや、整理をするにしても、相手がいないと“分かってる”ことの確認ができないか。
どれだけ脳裏を探っても、俺自身の顔すら分からないのに、知り合いが思い浮かぶはずもない。分からないだらけで笑えてきた。笑っている場合じゃないのに。今日、雨の中、それを凌ぐ宿すらないかもしれないのだ。……この調子じゃ、確実に宿なんてないんだろうけど。
どんっ。とまた右側が誰かにぶつかった。人通りが少ないと思って油断した。謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、ぱっと右手が捕まれる。
「怪我してませんか」
女性の声だった。顔を大きく動かして視界に彼女を収める。ジーンズにスニーカーと、ずいぶんと活動的な服装だ。
「それにすごく濡れて冷たい……。お家は? すぐそこですか?」
「え、いや……」
「ふらふらしてましたし、心配です。送りましょうか」
「それは大丈夫、心配ありがとう。だから、腕を放して?」
無理やり腕を振り払ってもよかった。けれど、彼女の目には同情の色はなく、言葉の通り心を配ってくれているだけのように感じられたから。
「やっぱり心配です。私のためだと思って、手当てされてくれませんか?」
――だから、強く拒絶することができなかった。
―◆―◆―◆―
――同じように水が降ってきているのに、全然違う。
シャワーを頭からかぶりながら、ぼんやり思う。冷たい水が温かいお湯に変わるだけで、こんなに心持ちが変わるなんて知らなかった。なんだかやわらかくて、やさしい。――まあ、知っていることなんてほとんどないのだけど。
結局俺は、あのまま女性を断りきることができず、半ば強引に彼女の家へと連行された。そうして、「手当てするにしても、まずは冷えた体を温めないと。ついでに傷口も洗ってくださいな」と浴室へと突っ込まれたわけだ。
服にはべっとりと赤い色がついていたけれど、思っていたよりも体はきれいだった。傷口が少ないのだ。浅い擦り傷や、青黒いあざ、深めの切り傷はあるようで、肌を流れていくお湯がひりひりと染みるけれど、あんなに服が汚れるほどの怪我を負っているとは思えない。
備え付けられているボディーソープを使うかどうかしばらく悩み、“絶対しみて痛いだろうから”という理由で断念、浴室から出る。ラックの上には、柔らかなタオルと一緒に、男性物のスエットと思しきものが置いてあった。洗濯機はごうんごぅんと音を立てて、俺がもともと着ていた服を洗っているのか、あるいは乾燥をかけているのか……ともかくよく働いている。
若干袖が余るスエットを着て、リビングに向かう。そこには救急箱を広げた女性がいた。彼女は俺が出てきたのを見ると、ぱっと顔を明るくさせた。
「ちゃんと着れたようでよかった。手当てをするので、そこに座ってください。お洋服があれだけ汚れていたんです、おなかとか背中も傷だらけだと思うので、その手当てもさせてくださいね」
示された椅子におずおずと座る。柔らかいクッションと、木の固い感触がして座りやすい。
彼女の手によってスエットがめくられる。腹部の切り傷を見て顔をしかめた彼女は、消毒液をかけながら「痛そう……」とつぶやいた。ガーゼが貼られて、次の傷へ。擦り傷も丁寧に消毒して、大きいばんそうこうをぺたりと貼って、刺し傷は皮膚同士をくっつけるようにテープで引っ張って貼り合わせて――。そんな調子で、背中、腕の手当てを終わらせて、足は裾がまくれる範囲の傷に手当てが施された。
ぱたんと救急箱の箱を閉じた彼女は、テーブルを挟んで正面の席に座る。
「なにがあったんですか。なにか力になれますか」
真剣な声色だった。
消毒液よりも優しさが染みる。
女性の厚意が痛くて、捨てられた俺に差し伸べられる手があたたかいから痛くて。どうすればいいか分からなくなる。
ゴミに優しくしないでくれ、なんて。すでにこれほどの厚意を受け取っておきながら、とんだわがままだ。
「……分からないんだ」
つい、口からこぼれた。
女性はそれを丁寧に拾い上げて「なにが、分からないんです?」と穏やかに返す。
「ぜんぶ。全部分からない。名前も、なんで怪我していたのかも、どこに帰ればいいのかも分からない。だから君が送ってくれるって言ったとき、すごく困って、どうすればいいか分からなくて」
小さく女性が息を飲む音が聞こえた。わずかに目を見開き、けれどまっすぐに俺を見つめている。その視線が、少し、いたたまれない。
「今も、お礼ができないのに……君に迷惑をかけて申し訳なくて。服もシャワーも手当ても、うれしかったんだ。でも、それに見合うものを、俺は差し出せない。君に損をさせてしまう。なにができるか分からない」
俺はゴミだから――と、飛び出しそうになった言葉はなんとか飲み込む。
彼女の反応を見るのが怖くて、うつむく。自分の行動が、なにか幼い気がして恥ずかしい。彼女の優しさから逃げ出したいのと相まって、椅子の上に大人しく座っていることが難しかった。
「お礼をしてくれるんですか?」
彼女が言う。だから俺はすぐにうなずいた。恩義を返せるのなら、返したかった。
「それじゃあ、食器を洗ってくれませんか? 朝のものがそのままになっちゃってるんです。面倒くさくて」
「……そんなこと、で、いいの?」
「もちろん! 大助かりです。そんなことじゃないですよ」
椅子の上が辛かった俺はすぐに立ち上がる。キッチンに立ち入る許可を得てから流しを見れば、彼女の言う通り大きな平皿やお茶碗、箸などがそのままになっていた。
すぐにスポンジに洗剤をつけて洗い始める。水につけてあった食器はするりと汚れが落ちて、すぐに水切りかごに入れるだけとなった。
――一人暮らしなんだろうな。
一膳ぶんの箸、ひとつの茶碗。ワンプレートの大きな食器。これだけ話し込んでいても誰かがいる気配はなく、玄関から帰ってくる様子もない。……よそ者を招き入れるには不用心だ。
洗い物はすぐに終わった。キッチンからリビングに戻ると、女性は先程と変わらず椅子に座ったまま、にこにこと嬉しそうに俺を出迎える。
「君、ひとり暮らしなの?」だからたまらず、居心地の悪さから口が動く。「よそ者を入れるのは不用心過ぎない?」
「あなたはなにかするんですか? 乱暴? 盗み?」
「……しない、けど」
「なら問題ありませんね」
「けど、誰にでもこんなことしてたら、危ないよ」
「誰にでもなんてしませんよ。傷だらけのあなただったから、拾いたくなったんです」
そうして、ふふ、と楽しそうに笑った彼女は「愛ですねえ」なんてのんびりつぶやいた。
――どこから出てきた。なにが愛なんだ。
首を傾げる。訝しく思っていたのが顔に出ていたのか、女性はさらに笑みを深めた。
「だって初対面の私のことを思って心配してくれる。これからのことを気にして助言までくれた。その優しさは、愛じゃないですか?」
「そんなつもり、なかったけど」
「じゃあ覚えてください。優しさってね、愛なんですよ」
優しさは、愛。……本当に? ゴミでも、誰かに愛を渡すことができるの?
それが本当なら、どれだけ素敵なことだろう。そうだったらいいなとも思う。けれど、なにかずれている気もする。素直に信じていいのか分からなかった。
「それじゃあ、俺に優しくしてくれる君のも、愛なの?」
きょとん、と女性が目を真ん丸にする。けれどそれもすぐに溶けるようにくすくすと笑いだした。
「本当だ。私のも愛かもしれませんね。あなたに優しくできていたならよかった」
本当に嬉しそうにくすくすと笑う彼女の目はあたたかくて、先ほどまで浴びていたシャワーのように安心する。
そうか。優しさって愛なんだ。素敵なことをひとつ覚えた。最初に覚えたのがこれでよかった。なんだかようやく、満たされたような気がした。ゴミでも愛を与えられて、ちゃんと愛を受け取れることが、うれしかった。
―◆―◆―◆―
彼女の名は、四谷恵香というらしい。恵みの香りという字なのだと教えてもらったとき、なんて似合うのだろうと思った。ゴミの俺にもその恵みは健在で、ふわりと優しく包んでくれたのだから。
その後はとんとん拍子で、彼女の家に泊まることが決まった。俺は男性平均より少し背が低いらしい。だから女性平均より背が高い恵香が、普段使っているスエットが着れたのだと言われた。
「お布団はさすがに予備がないので、あなたにはソファで寝てもらうことになるんですけれど……」と申し訳なさそうに言う恵香にたまらなくなって、「俺ってものすごく愛されてるね」と返せば、彼女は冗談を聞いたかのようにくすくすと楽し気に笑ってくれた。それが、とても、うれしかった。胸がぎゅっと熱くなるくらいには、うれしかった。
夕飯をごちそうになって、食器はまた俺が洗う。それだけで「ありがとうございます」と喜んでくれるから、自分が大層なことをしたような気になれた。
翌日。
朝日に照らされながら、恵香と一緒に朝食の用意をする。……といっても、俺は食器を取り出したり、並べたりする程度だったが、それでも、穏やかな時間が流れているようで楽しかった。
朝食を食べ終えたあと、食器を片付けるよりも前に恵香が口を開く。
「名前を決めましょう」
「……名前?」
「そうです、あなたの名前」
たしかに、ずっと恵香に“あなた”と呼ばれ続けるのは少し寂しい。それに、自分だけの名前という響きにも憧れるし、恵香のように“似合う”音を手に入れられるのなら、素敵な提案のように思えた。
「どんな名前がいいですか、希望はありますか」
「……」素直に、君のようなきれいな名前がいいというのは、気恥ずかしかった。「なんでもいいよ。恵香が選んでくれるなら、きっと素敵だ」
恵香は少しだけ目元を赤くする。そしてにっこり笑うと「じゃあ、愛の詰まった素敵な名前を考えなきゃですね!」と張り切った様子でノートを開いてボールペンを握った。そして「赤が似合うよな」とか、「きれいな響きを、」とかとつぶやいてはなにかを書き、それを上から消してを繰り返す。
ボールペンが走る音だけが響く静かな空間。このあいだに食器を片付けてしまおう。ゆっくりと自分のぶんと恵香のぶんを持って流しに向かう。そうしてもはや慣れた動きで皿を洗いながら、うんうんとうなる彼女を見た。ずいぶんと苦戦しているようだった。俺が最後の箸を流して水切りかごにいれたとき、「これなら!」とはしゃいだような恵香の声が響く。両手の水気を拭きとって、椅子に戻る。
「“ちかげ”なんていかがでしょう」
「ちかげ……どんな字を書くの?」
「千の景色と書いて千景です。これからあなたに、たくさんの美しい景色と経験を積んでほしいから」
「へえ、」あまりにもきれいな理由に気後れする。「素敵だね。そんなふうに思ってくれたの? ……それも愛?」
「ふふ、そうかもしれません」
大きく千景と書かれたノートを受け取る。丁寧に書かれた、けれど跳ねが強い字だった。
愛の詰まった名前をもらった。けれどあまりに美しすぎてゴミには不相応。ノートぶんの重さしかないだろうに、支え切れる気がしなかった。
だからテーブルにノートを置いて、不思議そうにする恵香からボールペンを受け取った。
「俺の希望も入れていい?」
「もちろん! あなたの、これから名乗る大切な名前ですから」
確認を入れてから、“千景”に三本の線を書き足して“千影”にする。
たくさんの人の足元に踏まれて、透明のように扱われる影のほうが、俺には似合いに思えた。
俺の手元を覗き込んでいた恵香は、ほう、と小さく息を吐きだす。そして「その字も素敵ですね。万華鏡の中に映る、たくさんの色の影みたいで」とささやいた。――彼女はなんでもいいようにとらえる。それも優しさなら、“愛”なのかもしれない。
「じゃあ今日から俺は四谷千影だ。改めてよろしくね、恵香」
「えっ」顔を赤くした彼女の視線が泳ぐ。「苗字、私のものでいいんですか」
「そうだなあ。せっかくなら、お揃いがいいな。恩人だし、たくさんの愛をもらったから、その証としてとっておきたい。……だめ?」
「だめ、じゃ、ないです。どうぞ、もらってください」
しおしおと勢いの無くした恵香は「私が愛だって言ったから」とほほを赤くしながらつぶやいた。それ以降口元に手をやり隠し、何事かをもごもごとこぼしていたけれど、音がこもって聞き取れなかった。
恵香のほほから赤みが消えた頃。彼女が「よし」と気合を入れた。そして俺をまっすぐに見て「名前も決まりましたし、役所に行きましょうか」とのたまった。
「役所……? どうして」
「千影くんの状態は、記憶喪失という状態です。自分に関することを全部忘れてしまっている。……そうですね」
「…………」無言でうなずく。いまだになにも思い出せていなかった。
「この国はね、なんとなくわかっているかもしれないけれど、身元が分からない人には厳しいんです。だから国に保護してもらいましょう。そうしたら病院にも行けるし、記憶喪失の理由も分かるかもしれません」
今度はすぐにうなずけなかった。体か、頭か、はたまた心か。俺のどこかが一生懸命に叫ぶのだ。“国に捕まったらまずい”、“俺は隠れていなければいけない”――と。分かっていることも覚えていることも少ないけれど、だからこそ、この直感は無視してはいけないと思った。
だから、にこりと笑って「分かった」と応えてから、首をかしげる。
「恵香は昨日、俺に譲ってたからシャワー入ってないよね。出かけるのなら入ってきたら?」
「よ、よく覚えてますね。でも、千影くんのは一刻を争う事態ですし……」
「手当てをしてもらって傷も支障ないし、急いだって記憶が戻ってくるわけじゃないでしょう。シャワーに入る時間くらいあるよ。それくらい変わんないって」
ううん……と悩むようなそぶりを見せた恵香だったけど、一日入浴できていないというのがよほど不快だったのだろう。「なら、お言葉に甘えて入ってきます」と、まっすぐ浴室に向かっていった。
シャワーの音が聞こえ始めたのを確認してから、俺はスエットから乾燥をかけてもらった元の服に着替える。赤く染まった個所はそのままだが、乾いているというだけでも随分と快適だった。
さらさらとノートに書置きを残す。
“玄関のカギは開けっ放しだから、ちゃんと閉めてね。たくさんの愛をありがとう。きっとずっと忘れない。”
――これで、よし。
シャワーの音が続いていることを確認して、俺は玄関から堂々と外に出た。
俺はゴミだけど、ゴミでも愛を渡せることを教えてくれた。ゴミでも愛を受け取れることを教えてくれた。
おそらく俺は本当に、ずっと恵香のことを忘れないだろう。恩人を愛するのは、きっと当然のことだから。
―◆―◆―◆―
その日からの俺の生活は、享楽的と言えばいいのか、堕落していると言えばいいのか、分からなかった。
行政につながってはいけないと強迫観念めいた思いが強くあった。ゴミが迷惑をかけてはいけないという焦りがあった。だから俺は記憶喪失のことを誰にも言わないようになったし、右側の視力がないことを隠すようになった。
最初ぼろぼろで赤黒く汚れた服を着ている俺を見つけたのは、とある繁華街で人と一緒にお酒を飲んでおしゃべりをする仕事をしているらしい男だった。彼は「訳アリの人間なんてたくさん見てきたから」と、俺に新しい服を買ってくれた。これも愛だと思った。だって、優しかったから。服を買ってくれたお礼に、その男の店で三日ほど、“ホールスタッフ”というのをやった。注文されたお酒を運ぶ、お客さんが吐いた吐しゃ物を片付ける。時折テーブルに座って、女性とおしゃべりをすることもあった。そうして、この職種がホストと呼ばれるものだと知った。男は俺のことを歓迎してくれて、「四谷くんさえよければこのまま働かないか」と誘ってくれたけれど、断った。だって、過去がない俺は、女性とおしゃべりするときに困ってしまうことに気づいたから。全くお客さんとしゃべらないということが無理だった。何度も、たくさん、いろんな人が俺に声をかけてくれたから。もしスタッフの仕事だけをできるのだったら、受け入れていたかもしれない。男は「残念だよ」と笑いながら、三日分の給金をくれた。初めて自分で稼いだお金だった。
そのあと俺は、その繁華街を中心に活動をした。どうやらこの街には、訳アリの人間が、それこそ山のようにいるようだった。だから、名前と愛想とちょっとの勇気があれば、たいていのことはなんとかなった。
あるときは女性を口説いて、彼女たちの家に泊めてもらった。その対価に様々なことを要求された。
その中には、ベッドでの愛を欲しいという女性もいた。だから俺が今まで学んだおしゃべりで、たくさんの“愛”を伝えようとすれば、「言葉で伝えようなんて無粋だね」と、ベッドの中の作法を教えてくれた。きっとこれも愛だと思った。だって知らないことを教えてくれるのだから。盛り上げるために好意を伝える。それはタイミングが重要。体に触るときは優しく。けれど様子を見ながら、強く触るのもアリだ。口で愛でる方法もあるが、潔癖な人もいる、相手をうかがい順番を気にして。……言われたままに実践して、不器用ながらにこの女性に喜んでもらおうと努力する。彼女は「上手」と俺を撫でた。やっぱり愛だと思った。撫でられたことなんてなかったから。
たくさん愛して、たくさん愛されたけれど。その女性とは一晩の宿と食事を持って一旦のお別れをした。「気に入ったからまだおいで」と俺に帽子をかぶせてくれたのはうれしかった。ただ、ゴミがたくさん触ってしまったのは少し申し訳なくて。「ゆっくりシャワーに入るんだよ」と伝えれば、その女性は小さく笑って「その無粋さも気に入ったよ」と見送ってくれた。
――そうやって。
俺はたくさんの人とつながった。ホストの店主とは顔を合わせればホールスタッフを頼まれて給金をもらうし、道行く人の性別関係なく「俺を拾ってくれる?」と頼めば、案外受け入れてもらえた。中にはおしゃべり以外の特殊なお礼を求めてくる人ももちろんいた。労働、ベッドでの愛はまだわかる。得意かもしれないという自負もあった。喜んでもらえることが多いから。それでうれしくなれるから。
けど、中には少し苦手意識がある“お礼”もあった。
「やあ、四谷くん。偶然だね。今日の宿はあてはあるかい?」
――ああ、苦手な人がむこうからきた。
ネオン輝く繁華街の端っこで、今日はどうしようか。馴染みの人のところに行こうか、それとも新しい誰かに声をかけてみようかと考えていたところだった。背後から、男性のねっとりとした声がした。
振り返れば、会社帰りのサラリーマンといった風貌の、スーツを着た男性がいた。人畜無害そう……というとちょっと言葉が悪いけれど、どこにでもいる、いかにも優しそうな雰囲気を持った人だ。
俺の口角が一瞬ひくりとはねる。……よかった、相手には見られていないみたいだ。
「今ちょうど考えてたところ! お兄さんは、……声をかけてくれたってことは、泊めてくれるの?」
「もちろん、そのつもりだよ。君に会いたくてこっちの道を通ってきたんだから」
「えー、うれしいな。そんなの愛じゃん。俺もちょうどお兄さんについて考えてたところなんだよね、最近会ってないなーって」
「はは。じゃあお互い思いあってたってことだね」
「そだね、運命かも!」
会話をしながら、男性と並んで道を行く。
彼は医薬系の研究職についていて、名をなんと言ったか……ヒロシとかタカシとか、ありきたりな名前だったのは覚えている。正直苦手な“お礼”を求めてくる人という印象が強すぎて、彼本人の基本情報が抜け落ちている。だから“お兄さん”呼びをしているのだけれど、きっと彼にとっての俺も“特別なお礼”を支払ってくれる人という印象しかないんだろう。
楽しくおしゃべりをしながら男性の帰路をともに行く。今日はラットの実験がうまくいったのだとか、薬品の組み合わせを変えてみただとか、職場の後輩とのコミュニケーションが難しいだとか。……時折“それ社外秘じゃないの?”と思うような話題も飛び出すことがあるが、そこらへんは理性的な人なので、おそらく大丈夫だろう。社外秘だとしても、俺がしゃべらなければいいだけだ。
男性の家につく。扉を開けて先に中に入れてくれる彼にお礼を言って中に入る。
「それじゃあ、今日も“いつも通り”でいいね?」
「はぁーい。じゃあ、シャワー借りるねー」
もう通い慣れた家だ。玄関からすたすたと廊下を歩きシャワーを浴びる。
コックをひねってお湯を出す。これからのために、なるべく体をきれいに清める。そして一緒に覚悟も決めるのだ。深呼吸しながら頭を洗い、さざめく感情を抑えながら体を洗う。
――ああ、このあいだの、治り切ってない。
腕、肘の裏付近に深く入れられた切り傷の跡を見つけ、ぼんやり思う。
彼が求める“お礼”。それは、四谷千影を加害すること。
正直、殴る蹴るのサンドバックとして俺を求める人はほかにもいる。暴力をふるってはいけない社会だからこそ、“いけないことをやる快感”を求めてしまう心理がどこかにあるのだろう。けれど、彼の加害はちょっと違う。血を見ないと高ぶらないのだと言っていた。だから毎度、カッターで丁寧に丁寧に、手足や腹、背中を裂かれている。
正直、暴力それ自体は構わないのだ。ゴミをどう扱おうが、人間が決めてくれるならそれでいい。けれどことを成したその後の手当てが、まるで恵香を思い出すくらい優しいから、心の大事な部分を踏み荒らされるような気分になってしまう。だから彼は、すごく苦手だ。
コックをひねってお湯を止める。
――さあ、覚悟を決めよう。
浴室から出て、タオルで水気を切る。彼と知り合ってから、体のあちこちに傷跡が増えた。きっとゴミ捨て場に捨てられたときよりも、たくさん、たくさん増えたのだろう。目視できる範囲できれいな肌は、どこにもなかった。……足は比較的きれいかもしれないが、それは彼が「出血が鈍い」という理由で好んで切らないから。それだけだ。
用意されたパジャマのズボンを履いて、上の服を持って上裸のままリビングに行く。
リビングにはテーブルの上には、救急箱と消毒済みのカッター、それからスプーンが置いてあった。
「……スプーン?」
つい声に出る。
男性はにこっと笑うと「これは最後のお楽しみにしようと思っているんだ」と告げた。
「これも滅菌してあるから、安心してね。まずはいつも通り“お礼”から先にもらおう。そのあと食事にしようね」
「はぁーい。今日はどんな感じに切りますかー?」
美容院はこんな感じで声をかけてくるらしい。行ったことがないから知らないけれど。
ちょっとのおふざけはそのまま流されて、肘の内側にある傷口をじっと眺められた。
「やっぱり、四谷くんは普通の人よりも治りが早いね。結構深く切ったのに、もうかさぶた程度にまで落ち着いたんだ」
「そうなの? お兄さん、いつもそういうけど……ほかの人と比べたことないから分からないなあ」
男性がカッターを握り、治りかけだった内側の傷跡をなぞっていく。くっつきかけていた皮膚が再度無理やり開かれた。痛い、より、熱い。声を上げないように、ぐ、と唇を噛んで声を殺す。つぅ、と腕を伝って血液がフローリングに落ちた。突き刺されないだけマシだ。刺し傷より、切り傷のほうが絶対マシだ。だからこれは我慢すればいいのだ。
「ああ、こんなところに青あざが……また誰かに殴られたのかい?」
「ふふ、どうだったかな。お兄さんみたいに切るほうが珍しいから」
腹部に見つけた青あざの上をカッターが滑る。先程よりも深く入ったのか。熱を伴った痛みが背筋を凍らせる。のぼってくる痛みを逃すため、「は、」と小さく息を吐いた。パジャマの腰部分に、あふれた血液がつく。だくだくと赤が止まらない。
「四谷くんは、」男性のカッターが、次はどこを切ろうかとさまよう。「痛みに強いよね」
「そう? 人と比べたことがないから分からないや」
「強いよ。深く切っても声を上げない。顔をしかめるだけじゃないか」
「……それは、強いの?」
「強いよ。……だからね、僕は考えたんだ」
さまよっていたカッターは、結局俺の肌を切り裂くのをやめた。かたりとテーブルの上に置かれる。
――二か所で終わるなんて珍しいな。
訝しげに男性を見る。お楽しみだと言っていたスプーンを使うのだろうか。
案の定男性は、滅菌済みだといったスプーンを手に取る。そして俺の顎を思い切り鷲掴みにして、顔を固定してきた。力が強い。呼吸が苦しいぐらいだ。
「君の悲鳴が聞きたくて。どんな風に声を上げるのか気になって。それでね、考えたんだ。――四谷くん、右の視力ないよね」
ぞ、と体温が下がる。バレた、と思った。同時にヤバイ、と脳が警報を鳴らす。ごまかせ、ごまかせと頭を回すが、下がった体温のせいか、冷えた脳は動かない。
「どんな声が聴けるんだろう。どんな顔が見れるんだろう。ずっとそれを楽しみにしてたんだ。……大丈夫、終わったらちゃんと処置をするからね。救急車も呼ぶから安心してね」
「ねえ、なにをする気? 救急車とか、視力の確認とか、……あんまり、いい感じしないんだけど」
「はじめて見る顔だ。怖い? いいね、普段の四谷くんはずっと楽しそうだから、ああ、いいね」
興奮したような男性の息遣い。スプーンを持った手が、右目をなぞる。男性の両目はらんらんと輝いて、瞳孔が開いていた。
普段だったら“恋人を見つめるような瞳”とでも揶揄していたかもしれない。が、今はそんな余裕がない。恐怖で震える手を必死に動かし、顔を固定してくる彼の手を外そうと抵抗する。けれどそのときだ。切り裂かれた片腕がずきりと痛んで、どろりと血液をあふれさせて、指先まで痛みとしびれが走り力が入らない。
「神経までは切ってないと思うけど、手当て前だからね。あんまり暴れると、痛いよ」
今は優しい男性の声が恐ろしい。
スプーンが右目に近づいてきた。見えない。分からない。左で見る景色の様子から、慎重に狙いを定めているようだというのが分かる。
――どちらがマシだ?
全力で抵抗し暴れながら、拘束が外れることを期待しながらえぐられるのと。大人しく覚悟を決め、きっと誰も知らない極上の痛みを耐え忍ぶのと。
――一体、どちらがマシだ?
迷って体の動きが止まった。その瞬間、右の目元にひやりとした鉄の感触が触れる。
――ああ、終わった。
スプーンが差し込まれる。
視界がちかちかとはじける。
体が勝手にもがく。
男性の腕をひっかいた。
だめだ。
眼孔の中でなにかうごめいてる。
だめだ。混ぜないで。
だめだ。体が冷える。汗が噴き出す。
だめだ。動かさないで。
やめて。お願い。
ぶちりと千切れる感覚があった。
喉から音がこぼれる。聞いたことのない音だった。
スプーンを持つ男性の手にすがる。
やめて。やめて。やめて。おねがい。やめて。
これ以上、俺をぐちゃぐちゃにしないで。
意識が混濁する。呼吸がうるさい。まだスプーンは抜かれない。
いつおわるの。もうやめて。こわさないで。
だらりと右目からなにかが伝ってこぼれる感触がした。
「ふふ、ふふふ……やっぱり、痛みには強いんだね。もっと悲鳴を上げていいんだよ。この家は防音だ」
ようやくスプーンが抜かれた。
体が熱い。いや、寒い。分からない。がたがたと震えが上がってくるのに、汗が噴き出して止まらない。
えぐられた右目を押える。どろどろとした液体が手を汚した。
呼吸が乱れる。走った後みたいだ。不規則に踊って、浅く浅く、なんとか息をする。
意識がぐらぐら揺れる。俺を、楽しそうに男性が見てる。彼の手にはまだスプーンが握られていた。
「ああ、いいなあ。いいねえ。ようやく四谷くんを追い詰めた気分だ。最高だ……! 食事どころじゃないよね。救急車を呼ぼうか。大丈夫、治療費は僕が払うから。それもお礼の一部だよ」
手に持っていたパジャマを羽織る。救急車はまずいと明滅する意識が告げる。たとえるなら赤信号だ。右目を押えていた手を外すと、どろ……となにかがほほを伝い落ちてくるのと同時に、手のひらにゼリーのような水っぽい固形物がくっついていた。
パジャマのボタンを留めながら「今日は、別の宿を探すよ」と伝える。声はかすれ震えていた。
……男性の空気が変わる。獲物を逃がさんとする獣のようだ。らんらんと輝く瞳はそのままに、獰猛さが加わった。
「その状態でどこにいこうって言うんだい? 絶対みんないうよ、救急車を呼ぼうって。手当てをしようって」
「もうお兄さんには、関係、ないことかな。カッターまでなら、別によかったけど、これは、だめでしょ」
ボタンを留め終わる。左腕の袖部分が真っ赤に染まり、腹部の傷にパジャマが張り付く。
は、は、と呼吸が乱れる。言葉に吐息が混ざる。
「瞳は、ひとりにふたつしか、ないんだよ。それは、こわしちゃダメでしょ」
「どうせ見えない目なのにかい」
「それでも、だめだよ。人のカタチが保てなくなっちゃう」
悲鳴、上げなくてごめんね。
そこで初めて、男性の瞳に困惑が映る。獰猛さが陰った。
その隙に、彼の横を通り過ぎて玄関へ。右側が見えないのはいつものことだ。だからいつも通りに靴を履いて、パジャマのままに外に飛び出した。
住宅街の夜は、繁華街とは打って変わって静かだった。どこかの家から笑い声が聞こえてくる。あたたかい家族の様子がうかがえて、うらやましくなった。
右側が見えないのはいつも通り。それはそうだ。けれど、体がぐるぐると混ぜられているように、熱くて寒くて、汗が出て寒気がして、吐き気がしてめまいがして、まっすぐ歩けなくて意識がふらふらして、ああもう本当、これだからゴミはだめだ。手足は無事なのに、歩ける気がしない。
ついに力尽きて、へなへなとその場に座り込む。俺、これからどうなるんだろう。家々の明かりのずうーっと向こうに、いつも拠点にしている繁華街が見えた。――あそこまで行ったとて、どうにかなるものなんだろうか。
「――――?」
男の声が聞こえた。
振り返る。
見えない。暗い。
息を飲む音が聞こえた。
足音が近づいてくる。
「大丈夫!?」
金髪。長い髪。夜なのに丸い黒のサングラス、どこかチャイナを思わせる布のたっぷりした服。――一言でいえば、怪しい男。
「……――だあれ?」
「自己紹介はあとでしよう。なんだこれ、ひどい……。すぐ病院に、」
男の髪を引っ張る。それから「びょういんは、だめなの」とつぶやく。
「びょういんも、ぎょうせいも、だめなの。おれ、どこにもいっちゃだめで。ごみだから、このままでも、」
「良いわけあるか! 大丈夫、絶対助けるから!」
どうしてこの人はこんなに必死なんだろう。見えているはずの左側すら明滅してきた。視界が暗くかすんでなにも見えない。男は、俺の体を支えるように、抱きしめる。
「ふふ、……あいじゃん」
こんなに心配してくれるなんて。なんていい人なんだろう。素敵な人だ。だから、迷惑をかけちゃいけない。離れなきゃ。
そう思うのに。心とは裏腹に、意識はそのままブラックアウトした。
―◆―◆―◆―
知らない天井だ。
打ちっぱなしのコンクリートのような、灰色の、無機質な天井だった。
腕からは点滴の管が伸びていて、透明な液体が、ぽとん、ぽとんと一定間隔で落ちていた。
身じろぎ、起き上がろうとする。……が、体に力が入らない。脱力して、支えられなかった。
「あ、起きた?」
あの人の声だ。あの、とても優しい金髪の人。
視線だけをのろのろと動かせば、俺が横になっているベッドの横で椅子に座っているようだった。
「大丈夫、安心して。医者には見せたけど、“事情がある人専門”の医者だから。君のことは詮索されないし、俺もなにも言ってないよ」
彼は続けて「大丈夫? 痛いところない?」と、俺を気遣ってくれる。だから「痛くないよ」と伝えれば「……そう」と微妙な反応をされた。どうしてだろう。素直に本当のことを言ったつもりなのに。
「点滴には痛み止めも入ってるんだって。切り傷も多かったし、目のこともあるし、点滴が終わったら錠剤の痛み止めも出るってさ」
「なんだか大事だね。やっぱり、目がひどかった?」
「ひどいなんてもんじゃないよ!! 医者の見解では無理やりえぐり取られたみたいだって言ってたよ、どんな状況になったらそんな悲しいことになるのさ」
「……悲しいの? 君が? なぜ」
男は一瞬息を詰まらせて、それでもサングラス越しでも分かる優しい声で「当たり前だろう?」と続けた。
「誰かが怪我をしたら悲しいよ。痛い思いなんて、誰にもしてほしくない」
「……、……愛だねえ」
この人も、愛にあふれた優しい人だ。……迷惑をかけたくないな。
俺のつぶやきにその人は不思議そうな顔をしながら、「自己紹介しよう。きっと長い付き合いになるからさ」と言った。
彼は黄杜というらしい。画商をしていて、絵に関してはちょっとしたこだわりとたくさんの知識があるのだと自慢げに語った。
「黄杜さん」
「うーん、それだと他人行儀だなあ。呼び捨てとかどう?」
「ちょっと照れるなあ」嘘だ。ゴミは優しい人とは距離を取らなきゃいけない。「それなら黄杜くんはどう?」
「あ、いいね。友達って感じがする!」
「……友達?」
「そ。これから僕とお友達。……いやかい?」
「わ、からない」
ああ、久しぶりだ。“分からない”なんて素直に口に出したのなんて。黄杜くんの優しい雰囲気のおかげか、それとも眼球をえぐられて思いのほか弱っているのか。なんだか、自分がぐずぐずに溶けだしていくようだ。
黄杜くんの表情は、サングラスも相まってよく見えない。それでも、俺の言葉を待っているような気がした。
「友達、いたことない……から」
「そうなの? 君はこんなに話しやすいのに」
「おしゃべりは得意だよ。でも、おしゃべりをしたら友達ってわけじゃないでしょう。友達は、対等なはずだから」
――俺はゴミだから、誰かと対等になるなんてありえない。
「じゃあ僕が君の初めての友達ってことだね!」
彼は、黄杜くんは、ゴミなんかと対等でいてくれるの? ……とっさに言葉にしようとして、なんとか飲み込む。これは無粋と言われるもので、場合によっては相手を傷つける言葉だ。自分がちゃんと考えてから話せるタチでよかった。
「ねえ、名前を教えてよ。僕の友達。これからいろんな話をしたいんだ」
声音だけで分かる。笑ってる。優しいがたくさん詰まった声だ。
やっぱり、こんなの愛じゃんね。いいのかな。こんなにたくさんの愛に包まれてしまって。とろけた気分になりそうだ。
「俺は、俺の名前はね――」