「別れよっか、僕たち」
「へ、」
唐突に告げられた言葉。星の頭は、理解を拒否したようだ。音は聞こえたのに、意味を拾えなかった。チーズケーキがフォークから転げ落ちた。
カフェのテラス席。その一角。空は青く風も穏やか。街の喧騒は賑やかで心地いい。日常のテンプレートがあるなら、きっとこんな時間を指すのだろうと思うほどである。
衝撃を投げつけたアベンチュリンはいつも通りの笑顔で、落ちてしまったケーキを己のフォークで刺し直し星の口に運ぶ。その仕草も、視線も、なんなら残酷を告げた声すらも優しいままだったから、一層混乱する。
「そのままでも美味しいけど、ソースを添えてもいい感じだよ。ベリーとオレンジ、どっちがいい?」
「なんで、」
「ん? 君は甘いものが好きだろう。だから、」
「そうじゃなくて。なんで、別れるって、」
「ああ、そうだなあ」
チーズ部分のとろりとした舌触りとタルト生地のサクサクが口の中で弾ける。いつもなら美味しいとはしゃげるだろうに、味覚の情報まで遠くに行ってしまったような気がした。
コーヒーカップに口をつけたアベンチュリンは言葉を探すように空白を弄ぶ。ソーサーに戻したカップの持ち手部分を指先で数度なではじめたそれが、平常心を保つためのクセであるのを知っている。直接教えられたわけじゃないけど、自力で彼の仕草の意味を見つけるくらい長く一緒にいたのだ。生半可な理由では、はいそうですかと納得できる気がしなかった。
「言いたくない、……っていうのは、ナシだよね」
「ストーカーが増えていいなら」
「あはは、それはいやだな。君は本当にやりそうだ」
口を開いて、閉じて。……もう一度開いて、また閉じる。
黙って次の言葉を待つ。星は、こんなに言葉に難儀しているアベンチュリンをはじめて見た。だから待った。誠実な彼が選んだ言葉なら、ウソでも受け入れようと思った。だからただひたすら、待った。
「記憶が、不確かになってきた」
ピノコニーの一件で黄泉の一太刀をあびたアベンチュリンは、虚無の侵蝕を受けていた。はじめは穏やかな夢が虚無にのまれ、次に味覚の一部を失い、最近は色覚が危うくなってきてるらしい。混沌医師の世話になっているけれど、それでも不安だよと笑いながら教えてくれたのを覚えている。「白黒になっても、君の髪は光の色のままだね」となでてくれた指先も、「どれだけ強く火を入れたんだい!? 僕でも苦いのが分かるんだけど!」と失敗したパンケーキを星の代わりに食べてくれたのも、まだ、はっきり、覚えている。
「君の名前が、思い出せないんだ」
吐息のような声だった。
アベンチュリンは笑顔だった。
星も表情を変えなかった。
「君が甘いものが好きなことも、果敢なくせに怖がりなことも、真っ暗の部屋じゃ眠れないことも、ゴミ箱が大好きで変なこだわりがあって行動的で、人のために一生懸命になれることも、――それらを丸ごと愛していることも分かるのに、君を、呼べなくなっちゃった」
よどみない声だった。
アベンチュリンはまだ笑っている。
「“星核ちゃん”でいいよ」
「いやだ。君がそれをよく思ってないことを知っている」
「じゃあマイフレンドでも」
「いやだ。僕らは恋人だろう」
「別れ話の最中だけどね」
「うん。ごめんね」
変わらず優しい声だった。
やっぱりアベンチュリンは笑っている。
「――ソース、」
「うん?」
「どっちがおすすめ? 選んでよ」
ようやく彼の表情が変わる。目を丸くして戸惑ったように視線が泳ぐ。それから絞り出すように「ベリー、かな」と告げる。うなずいて素直にベリーソースの小皿を取って、チーズケーキの上に回しかける。鮮やかな赤が白いケーキに広がった。
「いいよ。別れよっか、私たち」
「……うん。ごめんね」
「今日までありがとうね。楽しかった」
「僕もだよ。すごく、幸せだった。……自分には過ぎるくらいに、幸せだった」
「ならよかった」
机上に信用ポイントが置かれる。おそらくこのカフェの飲食代のつもりなのだろうけれど、どう考えたってゼロが二つくらい多い金額だ。……もしかしたら、手切れ金も含まれているのかもしれないな、と、ふと思った。
イスを引く音がして、コツコツと革靴が遠ざかっていく。孔雀のような派手で鮮やかな後ろ姿は、あっという間に雑踏に紛れて見えなくなってしまった。
星はソースのたっぷりかかったケーキを一切れとって、口の中にいれた。ベリーの酸味がよく効いている。
「――うそつき。甘くないじゃん」
ツンと目頭を刺すような熱がわきあがる。瞳のふちから涙がこぼれた。あまりにもソースが酸っぱいから、だから涙腺が刺激されたのだろう。そうに違いないし、そうでなければならない。
――だって、あんたはずっと笑ってたんだから。
もう一口、ケーキを食べる。向かい側に残されたコーヒーカップを見つめて、ゆっくり咀嚼する。どれだけ味わったところで甘味を見つけることは難しかった。ベリーと名のつくすべてが嫌いになりそうだ。