微睡んだ貴方へさようなら
虫の声が泥みたいに纏わりついて、離れることを知ろうともしていなかった。地面は秋の色を帯びて、遮光の中に枯れ葉を照らす。それが、ひどく羨ましく己が名前を呼ぶようだった。
その光景を瞳が映すのが嫌であるかと問われれば、厭なものだと答えただろう。誰もが、自分自身を呪って、恨んで、妬んでいたのだから。
「秋人」
一番に嫌な声が後ろからかかる。低くも、どこか不安定な妙に気持ちが悪い声。脳が何かを否定して、警鐘を鳴らしている。
「……湊?」
「いや、うん、そうだけど」
「本当に、湊か?」
「僕を化け物とでも言いたいの?」
まさか。まさか、そんなはずはない。いくら信用ならないとはいえ、早々に嘘を吐くような人ではない。
「いいや、ただ……」
「信じなくていいよ、信じないだろうから」
「あ、ああ」
何かがおかしい。おかしいと、叫んでいる。ふと、あの喉にへばりついた焼け野原の欲情を吐き出したトイレの中の虚ろに優しさを包んだ瞳と、今の遠く遠くを見つめるどうしようもない欲動を孕んだ瞳が重なり続ける。何かが、何かが、違う。誰かに似ている。知っている。知っている、瞳。よく知っているはずだ。
「なぁ」
ふと、カマをかける。メスのカマキリが同族を捕食するみたいに、鋭くて大きな手の鎌で、首を跳ねる用意をするような言葉が喉から漏れ出そうとする。
「お前って、嘘ばっかりだよな」
目の前の知っているはずの誰かの喉が生き物みたいに、大きく動く。これが何か、何なのか知っている。見たことがある。吐き気がする程に匂う薔薇の綺麗に捨てられた臭さと、その臭さが染みまくったすぐに汚される柔らかなベッドの上で。
誰かが、ようやく薄い唇を動かして答えを吐き出し始める。
「……そうなんだ、知らなかった」
「お前」
「うん。おかしいって、思ってる……自分でも、自分でも、思ってる。けど、こうしなきゃ見てもらえないから」
「だとしたって、なんで。もっと、早くに現れてくれれば」
「できないから。できないから、こうやって真似事ばっかり、しないと」
あの嘘つきと同じ顔で、あいつが絶対にしない顔で、歪んで必死な顔が見える。虫の声がすぐ近くで警鐘を鳴らし続けている。でも、逃げろなんて言っていない。
「俺は、お前が誰だってどうでもいい。どうでもいいけど、湊をどうしたって俺みたいになるだけだ」
変な自白。独白。告白。嗚咽はあがってこない。
「……ご忠告、有り難う」
ただ、それだけだ。やっぱり、こいつは湊じゃない。
指が、以前よりも激しく震えている。指だけじゃなく、全身まで。もう無理だ。もう限界だ。それが近いなんて、分かってる。分かってるんだ。
終わるが、暇なので短編をついでに書く。
剥いで剥がれた木の葉隠れ秋の中に、熱を浴びるだけの秋が紛れていた。それを可哀想だとか、助けてあげたいだとか、綺麗事を気取った仮面をつける気にもなれなくて、仮面をつけるのも忘れて隣へ影を寄せた。その中で、何を言うでもなく名前を呼んだだけだった。
それが何のトリガーになったのか目の前の彼の瞳が、厳しくなったような気がしてほんの少しだけ、嬉しくなった。誰も見てくれなかったから、たとえ警戒だとしても嬉しくなっていた。
「お前って、嘘ばっかりだよな」
その声が少し、ほんの少し、嬉しいと思えば、何とも言えない不器用で、成立してもいない契約が破綻したような気がしなくもなかった。
それを敢えて隠しもせずに「そうなんだ、知らなかった」と抜かしもすれば、そりゃあバレるに決まってる。心の中は子供のように無邪気に笑っていて、その時だけは本当の自分だった。そのまま吐き出し続ける異端児の音楽を重ねる内に、隣の審査員が一言だけ呟いた。
「俺は、お前が誰だってどうでもいい。どうでもいいけど、湊をどうしたって俺みたいになるだけだ」
その言葉に感謝を注ぎ込んで、敢えて、嫌味っぽく言葉を舞台上で返す。
「……ご忠告、有り難う」
心の中が、最後の最後まで笑っている。笑うことが、ようやくできた。今でも良い人だと思っている。