春一番、という言葉がフランスにもあるかどうかは知らないが、ともかく風の強い日だった。メイン通りを抜け、小道に入ってさらにすこし進んだ入り組んだ路地の奥に、目的の場所はある。目深にかぶったキャップから飛び出た黒髪はうなじを隠すほど長く、すらりと高い背に比して体幹は薄っぺらい。少年かはたまた青年か。壮年の安定感はなく、どちらにせよ若い男、の外観だった。道行く人々から顔を背けるよううつむいて少々背中をまるめコートのポケットに手を突っ込んでよたよたと歩いている。道なれた風ではない、けれど観光客が紛れ込むにもまたどこか違和感のある通りだ。ジーンズはデザイン性をもってあちこち擦り切れ、ハイカットのスニーカーは深い緑色でずいぶんとくたびれている。薄手のタートルネックから覗いた白い顎先もマスクに覆われ、長い前髪の奥はサングラスに隠されていた。
 こういった風体なので、彼が目的の建物の前で足を止めた時、たまたま近くを通りかかった地元の女性は、おや、と振り返ってしまった。それからその建物をちらりと見る。看板のない、ウィンドウの大きな造りだ。中はがらんと広く、壁に額が展示され、その手前によくみるとトルソーが数点並んでいた。けれど服屋という様子でもない。なにせ店員がだれひとりいない。彼女は立ち止まらずそのまま通り過ぎ、だから帽子の彼だけが取り残される。
 ほう、とマスクの下で彼は小さく息をついた。それからポケットからなにかメモを取り出そうと俯く。がさがさしばらく手を動かし、それから、あれ、と首をひねってうつむいた。
 その拍子に、一陣の風が吹く。
「んあ、」
 彼が首をめぐらせるのと、かぶっていたはずのつばのある帽子が宙に浮かぶのはほぼ同時だった。サングラスの向こうで見開かれた目。彼は、あわてて手を伸ばす。強い風にさらわれ浮かび上がった帽子は、すぐに弧を描いてその先へやわらかく落ちていく。落ちる。落ちても、でも車も走ってないし、ととっさに考えながら、けれど予想とは異なり帽子は地には落ちない。そのまま、目の前のひとがあやうく砂に汚れる前の帽子を軽くつかみあげた。
「開場より三十分もはやいのだけれど」
 呆れたような声で彼が帽子を両手でつかみなおす。軽く埃をはらうように手を動かし、それから白い顔を上げた。切れ長の瞳は一見相手を委縮させるような威圧感を放つけれど、彼を知る人間にとっては決して怖くはない。鋭さは生真面目さのあらわれだ。この人はいつでも、常に、真剣に相手に向き合っているだけだから。
「お師さん!」
「似合わない変装をしたものだね、なんのために?」
 やれやれ、と肩をすくめながら宗は大股でみかの方に歩み寄る。サングラスを外しマスクをずりさげ、みかはもとの顔をさらすと急いで両手を伸ばして帽子を受け取ろうとした。
 のだが。
「んあ、」
 ぽすん、と顔がなにかにぶつかる。顔というか顎先が彼の鎖骨のあたりにぶつかった。軽く抱き寄せられ、ぽん、と背中を叩かれる。そのまま軽くビズ。ちゅ、とリップ音が響いて、みかはおもわず肩をすくめてしまった。このあいさつは、いまだに慣れない。
 密着すると彼のまとう香水の匂いが漂う。今日の宗は、すこし大人っぽい匂いだった。華やかだけれど、何の匂いだろう、スパイシーな気配がある。
(おとなのひとみたい)
 どきどきして身じろぎできないでいると、耳元で低い声が囁いた。
「おかえり。日本はどうだった」
「あ、えっと、撮影は順調に終わったで、プロデューサーにも合格点貰えたし」
「そう」
 香りだけじゃない。なんだか話し方もおちついていて、いつもよりずっと優しくて、なんだか、いつもの彼だけどいつもの彼じゃないみたい。こんなにくっついてたらどきどきしている心臓の音が相手に聞こえてしまうかも。そう気づいて、咄嗟に身体を離そうと両手を相手の胸に当ててみるが、なぜかかえって強く抱きしめられた。
「んあっ」
「それで。パリについて早々にここにきたの? 僕の展示会に?」
「だって今日初日やん! ぜったい見に行きたくて……お花は送っておいたけど」
「うん、届いていた」
 すり、と頬に頬が触れる。まるで甘えるようなやり方にみかはいよいよ戸惑ってしまった。くっついてるのは、うれしい。でもここはたぶんお外だ。でも、こっちのひとたちは距離感が日本とはちがうからこのくらいは普通なのだろうか? ぐるぐる頭の中で思考が走り回っていて、けれど彼の腕のあたたかさとか力強さとか、匂いとか、そういったすべてのものの前では、結局みかの戸惑いなど無力なのだ。
 おそるおそる両手をあずけた胸を、押す。つっぱねるというより体重をかけるように。宗もわかっているようで、「どうしたの」と笑うように呟いた。
「会いたかった」
「僕も」
「お師さんの展示会、はじまってしもたらお客さんたくさんでゆっくりみれへんやろなって。せやからいっちばん最初に来たかったんよ」
「そう」
 宗はおだやかに頷いた。彼の気配に包まれて、みかはほうっと息をつく。パリの空気は乾燥していて、風が強くて、まだ言葉もあまり聞き取れない。日本とは全然違う。こんな遠いところに来てしまった。そう何度も思って、不安になるけれど。
「お師さん、ただいま」
 自分の居場所はここだ、とみかは思った。しみじみ感じて、それをどう言葉にしていいのかわからない。当たり前のことすぎて、けれど、その都度新鮮にうれしくなってしまう。彼がいてくれること、自分がそばにいてもいいということ、一緒に、歩んでいこうと手をとってくれること。
「おかえり」
 宗の大きな手のひらがゆっくりと背中を撫で、それから手に持ったままだった帽子をみかの頭にかぶせてくれる。
「仕方ないね、特別に、先にいれてあげようじゃないか」
「え! ほんまに? でも、ええのん?」
「かまわないよ、どうせ準備は終わっている。お茶でも飲んでいようかと思ったところだ」
 腰を抱かれるように促され、みかはおずおずと歩き出す。先ほど見ていた正面のドアではなくどうやら建物の横に裏口があったらしい。宗はここから出てきたのか。建物と建物の隙間に入ると日が差さない分温度がぐっと下がったように感じる。
「お師さん、おれがいるからでてきてくれたのん」
 狭い隙間を並んで歩けば肩がぶつかってしまう。それでもくっついていたくて、みかは彼を見上げてそう尋ねる。宗は、目を細めたようだった。ここまで薄暗くなるとみかにはよく見えなくなる。
「――――まあ」
 あ、と気付いたときには彼の顔が間近にある。そのまま、先ほどのビズではなく、しっかりと唇に唇が触れた。数秒の、挨拶というより事故みたいなふれあい。ぱ、と離れて、宗はみかの腰を抱いたまま、もう片方の手でドアノブを掴んだ。
「君がどこにいようと、どんな格好をしていようと、見つけてしまうんだから仕方ないだろう」
 
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