うたた寝をしていたらしい。かくん、と自分の頭が揺れる動きで斎宮宗は目を見開いた。軽く額をおさえ、目の前にちらばったままのデザイン画を見る。そのまま視線をすべらせば、窓の外はまだ明るい。日本の夕暮れと違い、パリはずいぶん遅い時間まで日が昇っている。おかげで時間間隔がおかしくなりそうだ。
喉が渇いていた。大ぶりのグラスは空になっていて、思わず舌打ちをしてしまう。
「チッ、影片、紅茶を――」
そういいながらふりむきかけて、動きを止めた。しんと静まり返った部屋の中、人の気配は、当然ない。ここはパリの下宿先であり、マドモアゼルが困ったように微笑んでいるのに気づく。首を振り「なんでもないよ、マドモアゼル」と小さく呟いた。
(まったく)
短い前髪をかきあげ、ため息。春からひとりパリの地に滞在している。新しい環境は戸惑うこともあるがなにより刺激的で、ひどく充実していた。制作にも熱が入る。つい時間を忘れて取り組んでしまいがちだ。ここではだれも窘めてくれない。邪魔をするものがいない。どちらも正しく、だから宗は、自分で自分を律することをより徹底せねばならない。そんなことは得意だ。何も問題がない。そう思っている。そう思っていたが、
デザイン画はどれもまだまとまっておらず、捨てるも取るもできない状況だった。がさがさとかきあつめ乱暴にまとめて机の端に追いやり、気分転換に紅茶を淹れようと立ち上がる。クロワッサンもつまんでもいいかもしれない。ペンを片付けるため引き出しをあけたところで、しまい込んでいた写真がかさりと手前に滑り出した。
満面の笑みでこちらを見ている子のバストショットだ。制服姿で、なにか面白いことでもあったのだろうか、それとも楽しいこと? とにかく、愉快そうに、嬉しそうに、色違いの両目を輝かせている。きつく見えがちな目元も笑うとずいぶん柔らかくうつること、綻んだ唇からこぼれる声はやわらかく甘いこと。そのすべてが急に胸をついて、宗は動けなくなった。
「――――影片」
その名前を呼んでも、答える者はいない。あたりまえだ。ここには宗しかいない。彼は日本で頑張っている。この時間は学校だろうか? 時差を計算するまでもなく、ただ、手を伸ばしその写真を撫でた。何度となく触れ、日に焼けないようしまい込んではいるけれどどこかくたびれてしまった一枚を、宗は愛おしく、切なく眺めている。
この子が隣にいない。それだけで、こんなに胸が締め付けられるなんて。
(寂しい、だけではないのだろう)
頻繁に声を聴いている。寂しいなら寂しいと言えばいいとうながせば、相手は困ったように笑っているだけ。自分が物足りなさ、幾ばくかの欠落を抱えているのだから相手もそうだろうと思って聞いているけれど、もしかしてこの気持ちは宗だけのものなのだろうか? こちらばかり、こんなに。彼の不在の大きさを感じている?
「存外、薄情な子だものね」
そううそぶいてみる。そんなことはないと知っている。彼がどんなときも宗を見捨てなかったこと、傍を離れなかったことを知っている。それと同時に、彼には宗以外にも友人や、大切な人がいることも知っている。それは喜ばしいことであり、同時に、なんともいえない重たさがこみあげてきて、宗はあえてそれに蓋をするよう目を閉じた。
紅茶をいれよう。一息入れて、この湿っぽい感情を整理しよう。気分をかえ、再びデザインに取り掛からねば。締め切りは見えてきているのだから。
自分に喝を入れるようそう考え、ゆっくりと目を開けた。
そのタイミングで、きらきらと青い粉が目の前を過った。
「……?」
見間違いだろうか。光の加減? 目をかるくこすり、もう一度ぼんやりと机のあたりを見る。何も見えない。目を閉じていたから、その影響だろうか。眼精疲労かもしれない。温かいタオルをつくってすこし休めようか、と踵を返したところで再びきらりと光るものが視界を過る。
まるで鱗粉のような、一瞬で儚く消えてしまう青い細やかな光。
「蝶か?」
蝶でも迷い込んだのだろうか。窓を開けた覚えはないのだが、と首をひねったところで、すぐ目の前を黒い影がよぎった。
ひらりと音もなく通り過ぎたそれは、手のひらほどの大きさだろうか。蝶にしてはやや大きい。こんな蝶が生息するような土地なのか? いや、蝶でいいのだろうか。
ひらひらと上下にかすかに揺れながら部屋を横切っていくその影にむかって、つい、手を伸ばした。間抜けな蝶はあっさり手の中につかめてしまう。触れることができたことにぎょっとしながら、そうっと手を自分の方に近づけ、手のひらを開いた。
「んあ、」
なんだか間抜けな声がした。宗は自分の手のひらの中をまじまじと見つめる。漆黒の闇に縁取られた大きな羽の内側は透き通るような深い青。うっとりするような色合いが二枚重なり、下に伸びた細長い羽根は同じく深い黒だ。いや、羽というより、棒。二本の脚にちかい。
黒い爪先から膝、太ももをとおりすぎて、体幹にいたると赤に切り替わる。黄色の格子でつつまれた胸は薄く、いや、格子とうより肋骨のような幾何学さ。そしてまっしろな顔。そう、顔だ。闇色の髪につつまれ、小作りで、整った人間の顔がそこにある。
蝶というより妖精のようなありさまだ。宗は、ぽかんと口をあけた。
薄い目蓋がふるえ、ゆっくりと押し開かれる。
「ああ、びっくりしたぁ……お師さん、急につかまへんで」
手のひらの中、どうにも見慣れた子が仰向けに倒れたままそうつぶやいた。
「……なにがおこっているのかね。夢か、夢なのだね?」
手のひらの中に影片みかがいる。いやいるはずがない。第一ここはパリだ。第二に宗の知る限り、あの子はこんなに小さくない。
けれど宗の困惑をよそに、影片は人の手のひらの上でぐーっと伸びをして、ちょこんと膝を折って座った。蝶々のように美しい羽が細かく震えている。見慣れない黒い衣装は裾が長く、腰回りから太ももまでを隠すように広がっていた。黒が基調なのにどこか怪しく華やかな印象を与える配色だ。陰鬱で、ゴシック趣味で、悪趣味ぎりぎりだと思う。すくなくとも宗の手はこういうものは生み出さない。だが、美しい。
「んあ~お師さん、おれのこと夢にしたいのん? 冗談にしてしまいたいのん?」
黙っていれば精巧なドールのように美しい顔だというのに、口を開くと途端に台無しである。ふわふわとやわらかく、甘ったるく、くすぐったい気持ちになる。どう見ても影片みかの顔をしたそれは、こてんと首を傾げた。そのやり方は宗の記憶にあるみかそっくりで、余計に違和感が募る。
「……では聞くが、どうしてそんな姿なのかね?」
「おれ、お師さんに会いたかったんよ。お師さんはおれに会いたくないのん?」
「説明になっていないのだが」
「だからお師さんに会いたいなーって思ってたんよ」
宗がいくら聞いてもみかの返事は要領を得ない。会いたかった、だけでどうしてこんな姿でこんな場所にこんなふうに登場するのだ。夢と思うべきだろう。現実ではない。ありえない。
「夢だろう、つまり」
「んもう、お師さん頭ええのにどうして大事なことわかってくれへんのん? おれ、お師さんに会いたいんよ、ずっとそばに居たいんよ」
みかは小さな頬をふくらませ、そう訴えた。なんとも胸をくすぐるような、都合のいいことを言ってくるではないか。宗は呆れ半分、自分の作り出した夢のあまりの出来の良さに半分感心しながら、「あ、そう」と呟くにとどめた。夢と言い争いをしてもしかたがない。
「それで君、そんな格好でどうするの」
「んあ? んあ~えっとぉ」
手のひらの中でみかが腕組みをして首を傾げた。宗の知るみかの大きさとはかけ離れているが一つ一つの動きは彼そのものだった。こてん、と首を反対側に倒す。髪がさらさらと揺れる。この体をメンテナンスするのはひどく神経を使いそうだ、と宗は考えている。
「あ、メンテナンスしてくれるのん?」
突然そう言われて、宗は瞬きをした。もしや独り言をつぶやいてしまったのだろうか。だが宗が聞き返す前に、みかは万歳するように両手を挙げにっこり笑った。
「うれしい! おれ、お師さんにいっぱい触ってもらいたい!」
その笑顔は、先ほど見ていた写真の中と全く同じなのだった。