おそるおそるノックをしてみると、少しの物音の後、ドアを開けてくれた。緊張しながら口の中にたまった唾を飲み込む。
 そろりと扉の隙間からその腕が見えた瞬間、けれど、みかは落胆してしまった。
「あー、影片か、斎宮先輩だよな?」
 申し訳なさそうな顔をして答えてくれる真緒にみかは軽く頭を下げた。どこまで伝わっているかはわからないが、この気まずそうな顔からなにひとつ知らないということもなさそうだ。
「えと、お休みの日にごめんなぁ。お師さん、居るやろか」
 居るにきまっている、とわかっていながらそう聞くと、真緒は扉をあけみかを中に通してくれた。おじゃましますぅ、とそろりそろりと中に入る。大きなベッドが四つ壁際にきれいに配置され、それぞれの個性がにじみでるインテリアで彩られている。四人部屋といえどほとんど海外に滞在している二人と多忙な二人であるので、今日もどこかがらんとした室内だった。そう、部屋の中には真緒以外だれもいない。
 みかは、そろりと部屋の中を見渡した。おあつらえ向きに大きめのクローゼットがある。当然の如くそこの扉はきっちり閉じられており、マドモアゼルが机の上で穏やかに微笑んでいるのと目が合った。
「えーっとな、……あ、俺、ちょっとりっちゃんに用事があるんだよな」
 しどろもどろに言って、真緒はいま開けたばかりの扉から出ていこうとする。みかが呼び止める間もなく「しばらく帰ってこないから、じゃあ、よろしくな!」と半ば逃げ出すような格好でこちらの返事も待たずに廊下に出ていってしまった。ひとり残されたみかは、仕方なく扉を閉める。他人の部屋に長くいるのはすこし気まずいのだが――はあ、とため息を飲み込んで、それから顔をあげもう一度マドモアゼルと目を見合わせる。彼女は静かに微笑んでいて、今日はおしゃべりをしてくれる様子はなさそうだった。
「マド姉ェ、ちょっとおじゃまするな? うるさくせえへんようにするから」
 彼女に軽く頭を下げ、みかは慎重にクローゼットに近づく。足音を立てないようにしながら、けれど先ほどの会話で自分がこの部屋にいることはすでにわかっているはずだ。それでも、何の物音もどこからも聞こえなかった。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ)
 みかは言い聞かせるように心の中で繰り返す。なにが大丈夫か、なんていうのはわからない。けれど何か考えていないと気まずくて逃げ出してしまいそうだから、呪文のようにそう唱えて、軽く右手を握り、クローゼットをノックした。
「お師さん、居る?」
「……」
 静まり返った部屋の中、かすかに吐息が聞こえた気がした。先ほどまでもひそやかながら規則的な呼吸はあったはずなのだ。それがいまの声掛けで一気に緊張し、こちらを伺うようにすこしだけ速まっているのだろう。些細な違和感を耳というより肌で感じながら、みかはもう一度ノックをする。
「えっとぉ、あけてくれへんやろか」
「……いやだ」
 返事がくるのは悪い兆候ではない。みかはそうっとクローゼットの取っ手に手をかける。返事をするというのは会話をする意思があるということで、つまり、こちらにも挽回のチャンスがあるのだ。
 大きな音を出さないよう気をつけながらそうっと開けば、案の定、クローゼットの壁にもたれかかるようにきれいに腰を下ろし膝を立てた格好で、宗がいた。ちょこんと座っている、という形容が正しいのか、それなりに上背のある人なのにまったくきれいに小さくおさまるものである。みかは思わず眉を下げてしまった。
 宗はこちらを睨むように眉を顰め、口をとがらせる。クローゼットの中には移動式の小さなライトが持ち込まれ、彼の周りを明るく照らしているようだった。手元は細い編み棒と毛糸、レースが半分ほど形作られている。いったいいつからこんなところにいたのか。みかは膝を折り、宗の目線に合わせた。
「んと、お師さん、お尻いたくなるで? こっちでやろ?」
「……君こそ部屋に戻ったらどうかね?」
 顔を覗き込むと一瞬怯んだように瞬いた後、すぐにそっぽをむいてしまった。むっとふくれた横顔は、怒っています、という意思表示にほかならない。両手の編み棒の動きはすっかり止まってしまって、硬いクローゼットの壁に背中を押し付けるように座りなおすのでついみかも膝でにじり寄ってしまう。
「お師さんがそうしてほしいなら、おれ、言うこと聞く」
「うそばかり」
 短く言い返されてもみかは別に腹も立たない。むしろ、彼がなにか話したがっている雰囲気を感じて、穏やかに答えた。なんだか故郷の妹たちを相手にしているような気分になってきた。主張したいことがあって、でも、それをうまく言えない。相手に伝えるのが腹立たしい、あるいは、こわい。
(人間って複雑やねえ)
「うそやないって」
「僕のいうことなんて聞きやしないくせに」
 きゅっと眉をひそめそう言い捨てる横顔は、でも、なんだかやっぱり寂しそうだった。みかはよじよじと膝で床をすすみ、彼のすぐ隣に腰を下ろした。小首をかしげて相手の顔を覗き込む。
「お師さん、あの、おれなんかした?」
「……自分の胸に聞いてみたまえよ」
「んと、おれいっぱいかんがえたんやけど、どうしてもわからんくて。次の衣装、気に入らへんかった? お師さんにぴったりのレースだと思って、どうしても首元に使いたかったんよ。あと手首のカットもいつもより大きめにスリットいれてしもたけどああいうの嫌い?」
「ちがう、あの案は悪くない、もうすこしブラッシュアップしてから再度見せたまえ」
 どうやらこの件ではないらしい。怒っていながらも律儀に返事をしてくるのがおかしい気もしたがここで笑ったらもう喋ってくれなくなりそうなのでこらえて、みかは別の方向から問いかける。
「ほんなら、ライブの舞台背景のはなしやろか? 副所長からも再三譲歩をしてもろてどうにかあっこまでこぎつけたやん。そりゃお師さんの計画通りにはいかへんかったけど、でもあの大きな鏡をつかうのすごくええと、」
「ちがう、そんな話ではない」
 ぴしゃりと言い返され、みかは口をつぐむ。衣裳でもなく舞台の話でもない。あとはなんだろう? 両手を床につき、膝を折ってぺたりと尻に床をつけた。この格好をすると宗はぎょっとして「君、いくらなんでも関節がやわらかすぎないかね」と驚いていたものだが今日はそれもない。
「えーっと、あ、この間の電話にすぐ折り返さなかったこと? ごめんなぁ」
「……どうせ忙しかったんだろう」
「ちょうどドラマの現場で、」
 そこまで説明しかけたところで、急に宗が顔をあげた。間近で睨みつけられ、みかは思わず首をそらしそうになる。だが彼の激しい瞳がそれをゆるさない。
「あのドラマはなんなんだね!?」
「んあ!? な、なにっていわれても、」
 腹から声を出すような怒り方をされ、みかは目をぱちぱちさせるよりなかった。いま、みかはドラマ撮影に時間をとられている。五話程度の短期集中ドラマではあるが、珍しく主役級に抜擢されたので演技が下手なりに努力して精一杯頑張っているのだ。まだ撮影風景は現場の中でか見られておらず、したがって宗の目にも入っていない、と思っていたのだが。
「えと、お師さん? おれの演技があんまりにも下手やって怒っとるのん?」
「それはそうだがそうじゃなくてだね!」
 そこは否定しないらしい。けれど宗はまだなにか言い足りない様子でかっと目を見開く。編み棒を握る手の甲に力が入ったのが見えた。
「――――相手役の女優とたいそう仲がいいようじゃないか」
「んあ?」
 なんのはなし、とみかはぽかんとしていると、宗はぎゅうっと眉をひそめて舌打ちをした。クローゼットの中ということを忘れるくらい、それはそれは迫力のある怒り方だった。
「SNSで仲睦まじい写真があがっていると見せてもらったのだよ、それに雑誌のインタビューでもふたりで猫の話でもりあがっただのなんだの――ああもう、それにあのグラビアはなんだね!? 相手役の女性を片手で抱くようにして、密着しすぎじゃないかね?」
 矢継ぎ早に怒られながら、みかは、えーっと、と一生懸命考えた。考えて、思い出そうとして、あ、と瞬きをする。
「今週発売の雑誌? あれ? なんでお師さんしっとるのん?」
「瀬名が別のコーナーに載っていて、謹呈を見ていたのだよ」
「あー……SNSも、そういう?」
「ご丁寧に天城が教えてくれた」
「……んあ~」
 どうにも返事がしにくい。恋愛ドラマなので自然と相手の女優との絡みは多くなるしもちろん抱き合ったりそれ以上のシーンもないわけではない。ベッドシーンはさすがにないけれど、そういえば現場で宣伝がてらほかの共演者とも写真をとったりSNSにあげたりというのをやっていたはずだ。ちなみにみかは例の如く宗の規制の連帯責任でここ最近はアクセスできない状態になっている。なので自分のアカウントではなにもしていないのだけれど。
「君の恥知らず具合は今に始まったことではないがそれにしてもだね、首に手を回すだのああいうのは品のある行為とはいえないのだよ」
 かっかしている人を見つめながら、みかはちょっと考えた。いま自分はお説教をされている。それは理解している。その内容はどうやら仕事での態度にあるらしい。そこまでもわかった。それで。
(……それで?)
「お師さん、あの女優さんきらい?」
「好きも嫌いもないのだよ、僕の知ったことではない!」
 勢いよく答えられて、ますますわからなくなる。つんとすました横顔はまだ怒りが現れているが、実のところみかは宗の怒った顔が大好きなのでうっとり見つめていたりする。でも彼が機嫌が悪い状態でかつこんな狭いところに引きこもっていられるのも困る。体を痛めてしまうし、同室者も心配するだろう。
(うーん、どうしたらええかなあ)
 みかは考えた。考えてみたけれど、すぐに妙案も思いつかない。
 なので、腕を床からはなし、そのまま目の前の人の首にからめてみた。宗がぎょっとしたようにこちらを向くと、もはや鼻と鼻がぶつかりそうな距離になっている。近づくと彼の身に着けている香水の匂いがかすめ、ほっとした。安心する。大好きなにおい。
「お師さんも、こうしたいってこと?」
 ぎゅう、と抱き着いてみた。たしか、インタビューのグラビアページで、相手役の女優さんがみかの首にだきついていたのだ。そのままだと転ぶから、と慌てて腰を支えるように手を伸ばした。そのページのことをいっているのだろう、とあたりをつける。
 息を呑むような音が耳元でした。みかはそのまま頬ずりするように頭を動かした。すべらかな肌、しっかりした首と肩の厚み。温かい体温。すべてがこの人だ。みかはすっかり安心して、ぎゅうぎゅう抱き着く。
「こ、こら、影片、」
「お師さん、おれ、お師さんのことがいちばん大好きやで? 知っとるやろ?」
「あのね、僕は」
「それともこれは品のないこと? おれ、お師さんのことだいすきで、好きすぎて、もっとしたい」
 えい、と足をまたいで、狭いクローゼットの中で彼の膝の上に跨る。見下ろす格好になった彼の顔は先ほどの怒りは薄まり、驚きに染まり、けれどすぐに、また厳しい睨みつけるような顔になった。その目の奥に揺らめく苛立ちをみて、みかはおなかの底がそわりとくすぐったくなった。
 ああ、この瞳。
 この目に見つめられるのが、いっちばん好きだ。
「品がないこと、しよ?」
「――――この、馬鹿!」
「んふ、おれ、お師さんのことが好きすぎて馬鹿になったかもしれへん」
「君はうまれつきだよ、ひとのせいにするな!」
 抱き着いてそのこめかみやつむじにたくさんキスを降らせていく。宗は動きにくい体勢のままもごもごと文句を言い続けているが、ぎゅうっとだきしめると「ぐ、」と苦しそうな吐息をこぼした。みかの胸辺りに湿った息がかかって、くすぐったくて笑ってしまう。
「お師さんがもうこんなとこ籠らへんよう、ここでいけないことしよか?」
 んふふ、と笑ってそう囁くと、今度こそ強めの声で「馬鹿!」と叱られた。うれしい。
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