ひとつは、年老いた――いや、やつれた夫の顔。
そしてもうひとつは――ああ、許されるなら私は、六年のあいだ呼んでいなかったその名前を、恥も外聞もなく大声で呼び続けたかったが、誇るべき自制心を発揮してそれを我慢した。口をふさいだ分、我慢した分が目からにじみ出てきて視界を歪ませた。
歪んだ視界の向こうでも、その子の顔ははっきり見えた。六年も経っているのだ、すっかり大きくなっている。そして、肌色はやや白いものの、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。
声を聞きたい。抱きしめたい。いっそこのまま、ここから連れ去ってしまいたい。
その衝動を必死に抑え、私は懐から完成した霊薬(エリクサー)を入れた水のみを取り出す。この子がもっと小さいとき、何度こうやって薬湯を飲ませてやっただろうか。
魔理沙の喉がこくりと動いたのを見て、私は深く息をついた。
霊薬(エリクサー)には少量の睡眠薬を混ぜてある。魔理沙はややあって、すうすうと穏やかな寝息を立て始めた。
その寝顔を見ていると、できるだけ早くこの場を去らなくてはならないことがあまりにも呪わしくなってくる。だが、私はもう魔女なのだ。人間の社会にいられる存在ではないのだ。
最後に私は、その柔らかな金髪を撫でた。魔理沙はふにゃふにゃと寝言を言った。とても嬉しかった。
オニジョロウグモの糸でその場に絡め取られたかのように動こうとしない手足を無理やり引き剥がし、ふすまをそっと開ける。ローブに仕掛けた「隠遁(ハイド)」の呪いもそろそろ解けてしまうだろう。急がなくては。
最後に一目、魔理沙の顔を目に焼き付けておきたくて、閉じかけたふすまの隙間からその寝顔を振り返る。
さようならの一言も言えずに、私は部屋をあとにした。
来たときと同じように、屋敷を囲む塀に鈎縄を仕掛けてよじ登る。この塀を越えてしまえば、私は本当にもう二度と、人里を訪れることはないだろう。そしてもう、あの子と、魔理沙と会うことはない。
それでも私は、今しがた出てきたあの部屋から魔理沙が駆けてくる姿を思い描かずにはいられなかった。その思いに背中を引かれ、鉤縄を握る手が重い。重さをこらえて、塀の頂点を目指して上っていく。
その背中に、焼けるような痛みが走った。私に気づき追いかけてきた見張り番の繰り出した槍の穂先が、肩甲骨のあたりに深々と食い込んでいるのがわかった。さらに、鋭い風切り音とともに塀に数本の矢が突き立つ。
私の頭の中で、自分の背中から滴り落ちる血が地面を叩くまでのわずかな時間に考えを巡らせた。
「魔理沙に薬を飲ませる」という目的は果たした。もう二度とあの子に会えないという覚悟も済ませた。そしてどのみち、魔法の森の瘴気に内臓を侵された私の寿命は長くはない。なので、別にここで死ぬのは構わない。この塀をえっちらおっちら登ったあとで、さらに徒歩で帰ることを思うと、いっそここで楽になってしまったほうがいい。
いやいや、そんなことはできないと考え直す。
なぜなら、ここで私が死んでしまえば、私の正体がバレてしまうからだ。私はとっくの昔に魔法の森に捨てられてのたれ死んでおり、今夜人里の大店に忍び込んだのは誰ともしれない魔女だ。そうでなくてはいけない。……魔理沙には、なにも知られるわけにはいかない。
そう。私は魔女だ。人の世には属さず、あるときは怪異をあるときは小さな奇跡を引き起こし、誰にも正体を悟られずに去っていく。
なので私は背中の痛みを努めて無視して、無理やり体を引き上げた。塀の向こうに転がり落ちて背中を打って痛みにのたうち回りそうになりながらも、私は素早く起き上がってローブをかぶる。呪いはとっくに効力を失っているが気休めにはなるだろう。
茂みに身を隠した途端に、思い出したかのように背中の傷が痛みはじめ、私はうめき声を上げそうになる。激痛からの叫びも恨み言も弱音も、自宅に帰ってから思う存分吐き出せばいい。今はとにかく動き続けないと――。
そう思い一歩を踏み出した足の甲に矢が突き刺さったときには乾いた笑いが出た。激痛をこらえて矢を引き抜き、足を引きずりながら森を目指す。追手がいくらしつこくても、あの森の瘴気の中までは追ってはこないだろう。あの森が、今や私が一刻も早く逃げ込みたい安全区域になるとはお笑いだ。
そこからどこをどう歩いてきたのかはもう覚えていない。
気がつけば私は懐かしの我が家の扉に倒れ込み、そのままずるずるとナメクジのようにホコリが溜まった床を這いずり壁に寄りかかった。
そして、そいつはいい子で留守番していてくれたようだ。ベッドの上にちょこんと座ってぼんやりしていたが、私の方にちょこちょこ駆け寄ってきた。
いい子で留守番してたか?という言葉の代わりに、喉の奥からは血の混じった咳しか出てこない。それでも、まだなんとか動く右腕でそいつの頭を撫でてやることはできた。
そいつはいつものように目を細めてくすぐったそうにしていたが、珍しく神妙な顔をして聞いてきた。「しんじゃうの?」と。
ああ、そういえばコイツはことあるごとに私に「目の前にいるのは食べてもいい人類?」とかふざけたことを聞いてきたんだった。
まあ……やらなければいけないことは、すべて終わらせた。それに、この怪我では私は助からないだろう。
「たべてもいーい?」とそいつは聞いてきた。
「ああ」と答えるのももう面倒で、私はかすかに頷いた。
そいつは、「わかった」と答えた。
そいつの姿が見る間に崩れて闇の塊になっていくのは、私の目がすでにろくに見えていないせいだろうか。
そいつはたちまち、小さな女の子のサイズから私が初めて見たときの闇の塊に広がって、水が広がるように私の足元にじわじわと迫ってきた。
ああ……そうだ。最後に、言い残すことがある。私の、遺言だ。
頭を上げることもできない。頼りなくふるえる右手をなんとか上げて、そいつを静止する。ただでさえ人の話をろくに聞かないやつなのにこの状態で言うことを聞くのかと不安だったが、大口を開けて私の足を一口で平らげてしまうところだったそいつは、ぴたりと止まった。お利口でけっこう。
何回も咳をして喉奥をふさいだ血を吐き出してから、私は言った。こいつはあの子と違って人の話を聞かないから、よく言い聞かせてやらなければ。
人間の里に、お前とよく似た、金色の髪の子どもがいる。魔理沙っていうんだ。
もしその子に出会ったら、友だちになってやってくれ。
お前を世話してやったんだから、そのくらいのお願いは聞いてくれるだろ。
闇の奥から、「わかった」と返事が返ってきて、私は安心した。
安心して、分厚い眠気がやってきて、あの子の笑顔が頭の中に――
▲
おいしい。
おいしい。
おいしい。
こんなにおいしいもの、いままでたべたことがない。
あまくて、やわらかくて、あったかくて。
なにもはいっていなくて、からっぽだったおなかが、ほんとうにみたされていく。
おなかいっぱいになるって、いいなあ。
からっぽじゃないって、いいなあ。
いっぱいたべて、たべて、たべて。
わたしは、いままででいちばん、おなかいっぱいになった。
こんなにおいしいものがあるだなんて、しらなかった。
そうだ。
いつか、わたしにともだちができたら。たいせつなともだちができたら。
このおいしいものを、わけてあげたいなあ。
・エピローグパート
ベッドのすぐ上の窓を叩く小さな音に、魔理沙は目を覚ました。
「まりさー、まりさー、るーみゃだよー」
夜空に浮かぶ大きな満月を背にして窓の向こうにいたのは、見慣れたのんき顔。
「なんだ、ルーミアか……こんな時間にどうした?」
ベッドからもぞもぞと体を起こして窓を開けてやると、ルーミアはふよふよと漂ってきて、頭からもぞもぞとシーツの中に潜り込んできた。
「おいおい、なんだなんだ、どうした?」
魔理沙が困惑していると、ルーミアはシーツの上にひょっこり顔を出して、いつものようにふにゃふにゃ笑って答えた。
「まりさがねー、さみしがってる気がしたのかー」
「……なんだよ、それ」
図星とまでは行かずとも、当たらずとも遠からずなところを突かれて、魔理沙は視線をそらした。
家から勘当されてから始まった魔法の森での長い一人暮らしにはすっかり慣れたが、たまに今夜のように言いようのない孤独感と寂しさに襲われることがある。昼間が賑やかで騒がしければなおさらだ。窓の向こうに見慣れたのんき顔を見つけたときには正直ほっとしたが、もちろんそんなことは言えるはずがない。
当たり前みたいな顔をして抱きついてくるルーミアの体温が、孤独を溶かしてくれるようだった。枕に顔を半分埋めてルーミアの方を向くと、赤い瞳がうれしそうにこっちを向いていた。
「ねーまりさー、さみしいの、なくなったー?」
そう言ってルーミアはシーツの中から手を伸ばして、魔理沙の頭を撫でた。
瞬間、その感触がみちしるべとなって――思い出せなかった遠い記憶が、頭の奥の方からふわりと蘇ってきた。蘇ってきた記憶が、魔理沙の口からその言葉を引き出した。
吐息に混じって、その言葉はこぼれた。
――かあさま。
そう口に出すと、より鮮明な記憶が湧き出てきた。頭の中の底の底、真っ暗な夜空に光る一番星のように、夜空から地上を照らす満月のように、はっきりと光る、いちばん古い記憶。
生まれたときから病弱だった。夜中に突然苦しくなって、咳が止まらなくなって、このまま死んでしまうんじゃないかと怖くなって。
そんなときに、いつも頭を撫でてくれた。
かあさま。
物心ついたときには、影のように消えてしまって、その行方を誰も知らず、教えてもくれなかった、自分と同じ金色の髪の、かあさま。
「おかーさんー?」
当のルーミアは、きょとんとした顔で魔理沙を見つめている。と、ふと魔理沙の頭を撫でる手を止めた。
「あ……」という名残惜し気な声が漏れそうになるのはなんとかがまんした。
代わりに、ルーミアの頭を撫でてやった。
ルーミアは子猫みたいに目を細めて、くすぐったそうにしている。
「お前さ、こないだ、私のお母さんのこと、聞いただろ」
「うんー」
「……話してやるよ。秘密の話だから、誰にも言うなよ。霊夢にもだ」
そう言い置いて、魔理沙はベッド脇のランプを消した。そして、誰も見ていたいのにくっついているルーミアごとシーツを頭からかぶった。「隠遁」のおまじない。
シーツで作った暗闇の中で、赤い瞳が興味深げに輝いている。
そして魔理沙は話し始めた。
昔語りを。