たぁん!
細長い弓道場に矢の刺さる音が響き渡る。弓を放ったのは片目に傷のある男。水木その人だった。袴姿の左肩をはだけさせ、きりきりと次の矢を構える。その左肩には大きな火傷。顔の傷同様、戦時中にその身に受けた傷であった。
たぁん!
二回目に放たれた矢も的の中央近くに突き刺さる。戦時下では弓などという古風な武器は使用しなかったが、元々、水木は弓道を嗜んでいた。柔道や剣道もやらされたことがあったが、最も肌に合ったのが弓道であったのだ。しかも、その腕も買われて戦地では中~長距離用の拳銃を扱うことが多かった。確かに水木にはスナイパーの素質が無くは無かった。なによりも、弓を構えたとき、銃を構えたときの水木の集中力。それが他の者とは格段に違った。
「おみごとじゃ」
水木のしんと静まったその横顔を見ながら、ゲゲ郎がパチパチと手を叩く。ゲゲ郎も水木に教わって何回か矢を射てみたが、全く飛ばず今はただこうやって次々と赤い丸を打ち抜く水木の美しい横顔を眺めることに徹することにしていた。
「もう良いだろ、帰ろうぜ?」
鬼太郎が待ってる。
そう何度か水木が止めてしまおうとするのをゲゲ郎はまぁまぁとなだめてもう一回、もう一回と水木に弓を構えさせた。水木が弓を構える一瞬。すぅっと澄んだ空気を吸い込み、止める瞬間。その小さな風のそよぎが。真っ直ぐに的を見る青い瞳が。何度見てもゲゲ郎の胸を焦がすのだった。
「もう一回だけ。お願いじゃ」
「もういい加減終わりだ」
「一回だけ!」
「……本当にこれで最後だからな?」
最後の1本を構える水木のその清廉な空気をゲゲ郎は思いきり吸い込む。目に焼き付けるように背筋を伸ばした水木を眺めた。おかげさまで、その日の水木は34本もの矢を続けざまにゲゲ郎の前で射ることになったのは、大概水木もゲゲ郎に甘いということだろう。
その日は朝から水木の機嫌が悪かった。ゲゲ郎は鏡の前に立つ水木の後ろ姿を見ながら静かに寝転んでいた。
どうやら今日は接待があって帰りが遅くなるらしい。銜えタバコをしながらポマードで前髪をなでつける水木を遠巻きによちよち歩きの鬼太郎も眺めていた。
「そんなに機嫌悪くしておると鬼太郎も怖がって近付けんようだぞ? 水木」
ゲゲ郎の陰に隠れて水木を見守る鬼太郎の頭を撫でながら、ゲゲ郎が水木に声をかける。そうすれば、不機嫌顔のままの水木がくるりとゲゲ郎を振り返った。
「今日の接待先の社長がこの髪型が好きだと言っていたがめんどくさくて敵わん」
左目に傷、欠けた左耳。そうしてピッタリと上げられた前髪に銜えタバコ。しかも機嫌が悪そうにすがめられた眉とまで来ればまるで「や」の付く自由業の人間のような治安の悪そうな雰囲気を醸し出すものである。それを本人は解っているのかどうか? ゲゲ郎はその事実を水木に伝えるべきかどうか考えて、それよりもあくびをすることにした。
ふわぁっと寝転んだままあくびするゲゲ郎のぐぅたれた様子に水木の毒気も少し収まる。
「今夜は遅くなるから、冷蔵庫の余り物でどうにか夕飯にしてくれ」
「あいわかった」
「鬼太郎もいい子にしてろよ?」
タバコをもみ消して鬼太郎に近付けば、さっきまで不機嫌そうだった水木の様相も少しだけ崩れる。それに伴うかのように前髪が一房ふわりと落ちてきていた。そんなことには気にも留めず、水木はサッと腕時計に目をやる。そろそろ出勤しなくてはならない時間だった。
「今日遅くなる分、明日の休みはたっぷり遊ぼうな、鬼太郎」
鞄をひっつかみ、玄関に向かう水木の姿を追って、ゲゲ郎が腰を上げる。そうすればとことこと不安定ながらも鬼太郎が歩き出し、親子揃っていつもの違う様相の水木を玄関まで送りに行く。ゲゲ郎の着物の裾に捕まって遅いながらもしっかりと歩く様は愛らしく、益々、水木の表情を崩させた。
「いってらったい」
「いってきます」
後ろ髪を引かれる思いをしながらも、水木が玄関の戸に手をかける。少しでも接待を早く終らせて鬼太郎が寝てしまう前に帰れないかと算段するその顔は、鏡に映っていた剣呑な物とは打って変わって柔和になっていた。
龍賀克典は思いのほか新しもの好きだ。
その証拠に、東京に出れば流行の服を娘の沙代に買い与えたし、乗っている車も古くなってきたら新しい物に買い換えるという徹底ぶりだ。だから、時々帰ってきた哭倉村で娘の沙代から教わったその新しい動作をすぐにやってみたくなったのも仕方のないことだっただろう。
「指はーと?」
新しいワンピースを沙代にプレゼントした克典は、沙代から「お父様、これ、ご存知ですか?」と言われたのがいわゆる「指ハート」という物だった。
「そうです。最近、流行っているそうですよ?」
こうやって、と娘の沙代が女学校で友人に聴いた指ハートという動作をしてみせる。親指と人差し指を小さく交差させてハートのような形を作るのだ。写真を撮るとき、もしくは、友人に何か嬉しいことをして貰えたときに感謝の気持ちを込めてする物のようである。だから、先程、新しいワンピースを貰った沙代は父である克典に感謝を込めて指ハートをして見せたのであった。
「こうか?」
ニッと笑った克典の姿はどこか誇らしげだ。沙代はカメラでも持っていればその姿を写真に撮れたのに、と少しだけ残念に思う。
「そうです。是非、お父様もどなたかに教えて差し上げてください」
ニコニコと微笑まれた沙代の言葉に克典は一人の青年を思い浮かべる。水木くんは、この指ハートという物を知っているだろうかと胸躍らせながら。
最近、人の気配を感じる。水木はその違和感を「やつ」と命名していた。
なぜかといえば、それは人の視線のような物を感じるからだ。
ふと、食事をしているとき。ふと、鏡を振り向いたとき。どこからともなく「やつ」の視線を感じる。
その視線を感じ始めたのは、水木の真っ白だった頭が真っ黒に戻ったとき。墓場で赤子を拾ってから数ヶ月した頃。水木の中に忘れていた哭倉村での出来事の欠片がいくつかだけ思い出された頃。
その日を境に、墓場で拾ったその子供が時々宙を見て「あーあー!」と声を発するようになったのである。もしかしたらそれが切っ掛けだったかもしれない。赤子の指さす方向を見ると、なんとなく「やつ」の視線を感じるようになったのだ。
初めはそれは赤子がいるところでしか感じなかった。つまり、水木の家の中でのみ、もしくは赤子を連れて出かけたときのみ感じる物だったのだ。赤子が宙を見つめて何か言う。その視線を追う。そうすると「やつ」の視線を感じる。そんな流れだった。
しかし、もう、今は違う。赤子がいようといまいと、突然「やつ」の視線を感じるのだ。信号待ちをしているとき、電車に揺られ通勤しているとき、自宅の縁側でのびのびと寝ているとき。
そうして、今、地下鉄の改札口から出てきたときも。
「一体何なんだ……」
ひとりごちる水木が地下鉄の小さな鏡の横を通ったとき。その横顔を映しているはずの鏡には、水木の真っ黒な髪でなく、真っ白な髪の着流しの男が映っている。しかし、サッと通り過ぎてしまった水木はそんなことには気付かない。
水木がゲゲ郎と名乗る男に出会うまで、あと数日のことであった。
「もう寝たのか?」
公園からの帰り道、水木は背中に背負う鬼太郎を振り向いた。その小さな口は何か不満そうにとがらされているが、その片方しか見えない目はしっかりと閉じられている。風がさらさらと鬼太郎の前髪を揺らす。鬼太郎の閉じられた左目が見えるようになるのと彼の頭からひょこりと目玉姿のゲゲ郎が姿を現すのはほぼ同時だった。
「疲れたんじゃろ。よく遊んでおった」
「そうだな、走るのが速くなったな」
「それによう喋っておった」
「そうだな」
みじゅ、みじゅ、と水木を呼ぶ幼い鬼太郎の小さな手を思い出す。片目しか見えていないらしいそのまん丸の瞳で一生懸命に水木を追って走ってくる姿を思い出す。そうすれば自然と水木の口元は笑みの形を取っていた。
「ゲゲ郎、お前も日中に人の姿になれれば鬼太郎と遊べるのにな」
「構わん。夜だけでも充分じゃ」
そう思わぬか?
逆に訊ねられて水木は少しだけその言葉の意味に赤面する。鬼太郎が起きていなくてよかった。義父の顔でない水木の横顔を、父だけでない声音のゲゲ郎の声を聴かせなくてすんだのだから。むにむにと鬼太郎は寝ぼけながら水木のシャツの襟に吸い付く。
「サッサと帰るぞ」
「夕飯が楽しみじゃ」
素知らぬかおで話題を変える二人の姿を夕陽と静かな町並みだけが黙って見ていた。
町内会のくじ引きで沖縄旅行が当たった。その時のゲゲ郎の喜びっぷりといったらすさまじい物で。
「水木! すごいぞ! 沖縄2泊3日だ! 休みを取れよ!」
ぴょんぴょんと水木の周りを跳ね回った物だから、しばらくの間ご近所さんに「ちゃんとお休み取れました?」と何度か訊かれることとなった。
成田空港から沖縄に。人生初だとはしゃぐゲゲ郎は最初のうちは楽しそうだったが「この金属の塊が……飛ぶ?」と途中から不安になったらしく、飛行機のシートに小さく丸まってしまい、通路を挟んで隣に座った親子にクスクスと割らされる始末。
「心配しなくてもこの文明の利器はちゃんと沖縄まで俺たちを安全に届けてくれるさ」
「本当か?」
片目しか見えないゲゲ郎の不安げな様子はやもすれば彼のおどろおどろしさを垣間見せなくはない。そんなゲゲ郎に大丈夫大丈夫と言い聞かせ、離陸の時には手まで握ってやり、乱気流に入ったときは両手足をびんっと延ばして揺れに耐える姿に苦笑してしまい。
とにかく、珍道中だったのは言うまでもない。
だからだろうか? 夜にふらりと入った居酒屋。そこで飲んだ冷たいオリオンビールがいつも以上に美味しく思えたのは。
「「ぷはー!」」
二人揃ってそんな声も上げてしまうほどそのビールは美味かった。飛行機でのビクビクはどこへ行ったのか、沖縄に着いた途端アロハシャツに着替え、水木にも揃いのシャツとサングラスを用意していたゲゲ郎本人はといえば、おしゃれな麦わら帽子にハイビスカスまで付いた格好で南国気分大満喫である。
「このビール、美味いのぉ!」
「沖縄といったらオリオンビールだよな! 暑い日はこのさっぱりした喉越しが最高だ」
「沖縄、これて良かったの」
ふふ、と微笑むゲゲ郎は水木が2泊3日の休みを取るのに相当苦労したことを知っている。こんなにゆっくりと二人で過ごせる3日間はきっと、最近では久しぶりな事になるだろう。
「美味いが、あまり飲み過ぎてはいかんの」
「なんでだ?」
ぐびぐびと2杯目を飲みながら水木はゲゲ郎を横目で眺める。元々ゲゲ郎も水木も酒に強い方だ。ビールを何杯か飲んだくらいで酔い潰れて宿に帰れなくなることもあるまい。それとも、金額の心配をしているのだろうか? それならばこの旅行のためにたんまり現金を下ろしておいたのでそんなに気にすることはないと言おうとしたところで、ゲゲ郎が少しだけ水木のそばに寄ってきた。
「魔羅がたちにくくなるからの」
ぼそっと声を潜めて言われた言葉に、思わず水木はぶっと吹き出してしまいそうになっていた。
「馬鹿な心配してねぇで好きなだけ飲め!」
その夜、水木は自分の軽率な発言に後悔することになるが、それはまた別の話である。
お盆になると、帰ってくるやつがいる。そいつは、いわゆる幽霊という物らしく、足がなく半透明に透けている。そして、どうやら鬼太郎の父らしく、俺とも面識があるらしかった。しかし、俺自身には身に覚えがない。その真っ白な髪も、鬼太郎そっくりの右目だけしか見えない赤い瞳も、青い着流しも。
微かに覚えているのは着流しの男に鬼太郎を託されたような気がしたあの時。墓場で初めて鬼太郎に出会ったとき。桜を背景に着流しの男に「その子を頼む」と言われた気がしたのだ。多分、それがこの男。ゲゲ郎と名乗る鬼太郎の父なのだろう。
「哭倉村での出来事はつらい記憶が多いから思い出しては欲しくないが、ワシのことは少しばかり思い出して欲しいのぉ」
盆に幽霊のようにのっそりと俺の家に現れて「酒を飲まんか」と誘ってくるこの男のために、この日も俺は律儀にそれなりにいい酒を用意しておいた。それを互いにやったり取ったりしながら飲み交わす。
「俺たちは、あの村で初めて出会ったんだろう? そんなにすぐに固い友情で結ばれる物か?」
友よ、と語りかけてくるゲゲ郎の言葉から察するに、どうやら俺とゲゲ郎は友の中でも上位の相棒だの親友だのと言えそうな程の仲になっていたらしい。確かに、初めての盆にゲゲ郎の姿を見たときにどうも胸の奥に懐かしさのような甘酸っぱい感覚がなくはなかった。
「友情だけでないぞ。愛じゃ」
「は?」
時々ゲゲ郎は大仰な物言いをすることがあった。去年の盆は出会い頭に「愛は見つかったか?」と訊ねられたりもしたのは記憶に新しい。
「ワシと水木は深い愛で結ばれておったんじゃよ」
「どういう意味だ?」
相当俺が怪訝そうな顔をしていたのだろう。ぐっと顔を近付けてきたゲゲ郎が「それはな」と意味深に言葉をとぎらせる。
「こういう愛じゃ」
ちゅ。
俺の額にゲゲ郎の唇が当たり、音を立てて離れていく。それはあまりにも一瞬の出来事で。思わず俺は両目を大きく見開いていた。
すると、みるみるうちに今まであまり実態のなかったゲゲ郎の姿がハッキリと現れ、着流しの着物の裾から半透明になり消えかかっていた足がにょっきりと生え、俺からは触れられなかったその腕をがっしりと掴むことが出来るようになっていた。
「ど、ういうことだ?」
「愛の力じゃな」
したり顔のゲゲ郎をただただ呆然と見返す。口付けられた額が、いや、顔全体が熱い気がしていた。
人間の寿命という物を知った。人間は長くても100年しか生きられないらしい。
「ということは?」
ゲゲ郎は水木の年齢を聞いてからあと何年水木と共に居られるのかを逆算して絶望していた。水木がもし100歳まで生きるとしても、ゲゲ郎と過ごせる年数はたったの60年ちょっとしかないのである。悠久の時を生きる幽霊族から考えれば60年ちょっとという年月はあまりにもあっという間でしかないのだ。
そこで、ゲゲ郎は考えてしまった。幽霊族の血や唾液には悠久の時を過ごさせる効能があるというのだ。それを精製した物が例の血液製剤Mにもなったのだから。
「水木」
だから、ゲゲ郎は時々試すのだ。水木と口付けを交わすとき、あえて自身の唇に、もしくは舌に傷を付けて出血させる。そうして、その血液を唾液と共に流し込むのだ。水木の咥内に。
――少しでも水木との時が長らえるように
どんな手を使ってでも。そう思ってしまうゲゲ郎はあまりにも愚かなのだろうか?
水木に耳が生えた。
いや、元々耳はあるのだが、人間の耳ではなく、兎のような長い耳が頭から生えたのである。
「どうすれば良いだろうか」
水木は帝国血液銀行での同僚であり、隣の席という縁のあるやつである。そして、たまたま住んでいるところが近いこともあり、時々、困ったことがあると家に突撃されるという縁も無くは無いやつである。そうして、今回、謎の兎耳が生えたということで休日の早朝から相談の突撃を受けたのであった。
「とりあえず、今日は休みだから明日になっても耳が取れなかったら考えれば良いんじゃないか?」
寝ぼけ眼の俺はそんな適当な返答を返してしまう。ふわぁっというあくびも付け加えて。しかし、水木は心底困り顔なのだ。
「この耳が生えてから……その、性欲が……」
ぼそぼそと不明瞭に言われた言葉に耳をそばだてる。ぐっと近付くと頭に生えてる水木の兎耳がピクピクと震えた。
「性欲が、すごくて、同居人が……」
顔を真っ赤にして呟く水木の蚊の鳴くような声を聴きながらもしかしてのろけか? と辟易し始めていた。
「恋人と同居していて性欲があって今日が休みなら好きなだけすれば良いだろ?」
帰れ帰れ、と水木の肩を押しやるとそんな些細な仕草でも刺激になるのか、また兎耳がピクピクッと反応していた。
「そうじゃ。帰るぞ、水木」
ぬっと現れたのは白髪の着流しの男。その喋り方から年老いた老人なのかと思いきや、その顔は若々しい(といっても片目しか見えないので年齢不詳ではあるが)。
「こんな男に頼らず、ワシを頼るがいい」
ぐいっと男が水木の肩を抱く。すると、先程までただ困り顔だった水木の表情が一変し、真っ赤になり、益々頭に生えている兎耳がせわしなく動き始めたのだ。
――なるほど。
俺は理解した。この着流しの男というのが水木の同居人であり、きっと、恋人なのだと。大人しく連行されていく水木の背中を見ながら、もう一眠りするかと俺は玄関から居室に向かうのだった。とんだ噛ませ犬にさせられたものだ。
突然、青い雪だるまのような生き物(?)が現れた。その生き物はピンクのドアを腹に付いている大きなポケットから取り出すと「どこでもドアー!」と甲高い声を上げていた。
「あなたたちに会いたいといっている人がいるんだ」
青い雪だるまのような生き物(?)はそう言ってドアを開けた。すると、そこからひょこりと一人の男が入ってくる。
「どうも」
短い前髪、赤い瞳。その赤い瞳はどこか鬼太郎の父、目玉のおやじを思い出させて……。そんなことを水木が考えていると、つい先程まで目玉姿だったはずのゲゲ郎がどろんと人型になっていた。最近は霊力を操作することで自在に人型になれるらしかった。それにしても、である。
急に人型になり、ピンクのドアから現れた茶髪の男を威嚇するように睨み付けているゲゲ郎を見ながら、ただ水木は困惑するしかなかった。
「あんたがこの世界の水木殿かい?」
「帰れ。この水木はワシの水木じゃ」
確かにゲゲ郎とはそれなりに深い仲になっている水木であるが、他人に向かって「ワシの」と言われたのは初めてだ。そちらの言葉の方が水木には衝撃的で絶句していると、茶髪赤目の男は「ふぅん?」と何か訳知り顔で水木の爪先から頭のてっぺんまでをじろじろと見ていた。
「ワシよ。水木殿には幽霊族と交わった者は地獄に落ちるのだと伝えていないのか?」
「水木は死なん。じゃから地獄にも永遠に落ちることはない」
「ちょ、ゲゲ郎、それどういう!?」
ゲゲ郎の言葉を水木が問いただそうとしたのを赤目の男の大笑いでかき消される。天を仰いで「はっはっはっはっはー!」と豪快に笑うものだから、水木もゲゲ郎もすっかりあっけにとられてしまっていた。
「なるほど。ワシもそうすれば妻を地獄にやらずにすんだな」
ふっと男が寂しげな表情をその赤目に湛える。天を仰いで笑っていた豪快さとは裏腹の繊細な溜息をホッとついたかと思うと、にやりと片頬を上げて笑っていた。
「ならば、お主らはお主ららしく仲睦まじゅうな」
それだけ解れば充分、と男が青い生き物(?)を見下ろす。もう良いのかなんだとごちゃごちゃとやりとりをしたかと思うと、元来たようにピンクのドアに手をかけた。
「またたまに顔を出させて貰うぞ」
「一生来るな!」
「それは無理だ」
けけけ、と笑うその笑い方を、どこかで聴いたことのあるような、と水木が思って居る間に男もピンクのドアも消えて無くなっていた。青い生き物(?)がぺこりとお辞儀をする。お邪魔しました、と律儀に言う姿はやはり意思疎通の出来る生き物らしい。やたらと頭がつるつるしているが。
この時水木が会った人物が、まさか別次元の鬼太郎の父だったと彼が知るのはこのもっとずっと後の話である。
カフェ、というものが出来るらしい。しかも、コラボカフェという特別なものが。
俺が哭倉村の記憶を取り戻してからどのくらいになるだろうか? そして、鬼太郎に取り憑いている目玉があの、ゲゲ郎の変わり果てた姿だと知ったのは記憶を取り戻してからそう日にちは経っていなかったと思う。通称、目玉のおやじ、改め、ゲゲ郎自身が「実は……」と話し出したのは満月が美しい秋の夜だった。あの村から東京までゲゲ郎とその妻、岩子さんが這々の体でやって来たこと。それもこれも俺に会うためだったというのに、俺はすっかりゲゲ郎のことも哭倉村のことも忘れ、怯えきって逃げてしまったこと。それにもかかわらず、墓場で拾った鬼太郎を育ててきたこと。それをゲゲ郎がどれだけ感謝しているかということ。
それら全てをほろ酔いの状態で語られて「すまなかった」と涙せずにいられようか?
「泣き上戸はワシの十八番じゃというのに」
酔っ払うとめそめそといつもなら泣いているのは目玉のおやじ、ゲゲ郎の方だったというのに。今日は俺の涙腺の方がよっぽど緩くて。ゲゲ郎はと言えば、その大きな目玉を綻ばせ、全身で微笑んでいるのがよく解った。
月明かりがゲゲ郎を照らす。涙でぼやける視界にはその輪郭がぼんやりと映る。
「そんなに泣くでない。ワシは今とても幸せなんじゃから」
そう微笑む目玉が、一瞬、かつて哭倉村で見た鬼太郎そっくりの銀髪の男、青い着物のゲゲ郎の姿に、満面の笑顔に見えたのは、きっと、俺があまりにも酔っていたからだろう。
まさか、満月の夜だけゲゲ郎が元の姿に戻れるようになりつつあるとは、その時の俺は知らなかったのだった。