さらさらとした風が頬を撫でる。水分の多く含んだ、じっとりとした季節も夕方になれば随分と過ごしやすい。帰路の途中にある商店街が橙に染まる。二人分の影が縦に伸びていた。橙色の端っこが薄っすらと紫がかっているのが、遠くの空で見える。夏が来ているのだ。
 アヤカはさっきから制服のワイシャツが僅かに汗ばんでいるのが気になってしょうがなかった。隣に、リチャードがいるのだから余計に。
「……ねぇ、さっきからちょっと近くない? 歩き辛くないの」
「いいや、全然? 近頃は何かと物騒だろう。こうして近くに居たほうが、何かあった時にすぐに対応できるからな、何かと都合が良いのさ」
 アヤカと同じ制服姿のリチャードは、きらきらと金色の輝く髪を編んで肩に流して笑った。腕を伸ばせば届く距離、どころかちょっとでも動けば簡単に肩が触れる距離だ。さっきからぶつかりそうになるリチャードの肩には、教科書なんか全然入っていないようなスクールバックが掛かっていて、首筋にはアヤカと同じくうっすらと汗が滲んでいるのが見える。さっきまで部活動に打ち込んでいたのだから、当然だ。それなのに、横からは汗の香りどころか、なんだか良い匂いがするような気がして、なんで自分とはこんなに違うんだとひとり悔しく思う。アヤカはただ、リチャードを教室で待っていただけなのに。なんで私の方がこんな、恥ずかしい事気にしなきゃいけないんだ、と唇を噛み締めていれば「アヤカ」と名前を呼ばれた。
「アレはなんだ?」
 指差された方を見れば、商店街の片隅で、さらさらとした風に合わせて、笹の葉と七夕飾りが揺れているのが目に入る。興味深げにリチャードが笹に掛かる短冊へ目を通す。
「『身長が伸びますように』『期末テストが良い点取れますように』『先輩と付き合えますように』…?」
「ああ、そっか。今日は七夕だったね」
「タナバタ?」
 きょとんとした顔のリチャードが短冊を手に首をかしげる。名前からしてわかるように外国出身のリチャードには七夕はあまり馴染みのない祭りなのだろう。
「そう。七月七日には、こうして笹にお願い事を吊るすんだよ。本来は技芸上達をお願いものだったらしいんだけど、今はまぁ、何でもアリって感じのお祭りなんじゃないかな」
「なるほど、面白そうだな! これは誰でも書けるものなのか?」
 きらきらと瞳を輝かせたリチャードは、楽しげに笹に掛かった短冊をひとつひとつ丁寧に見聞していく。その姿に、なんだか大きな猫がおもちゃにじゃれているように見えて、人知れず笑いを誘った。周囲を見渡せば、端っこの方に小さな机と色とりどりの短冊に、マジックペンが置いてある。商店街の催しのひとつとして自由に飾れるようだ。
「そうみたいだね」
「アヤカ、せっかくだから書いていこう」
 さっそくマジックペンを握り締めたリチャードは、水色の短冊を手に取る。青空みたいで、綺麗な色だった。うきうきと鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌なリチャードに、不意にアヤカは疑問が湧いた。
「リチャードはさ、願い事、あるの?」
 何でも欲しいものは自力で手に入れそうな男だ。自分の見目にはあまり関心がありそうな様子はないが、もう既に十二分に整っている方、なのだと思う。部活動の時間や、たまに応援に行く試合ではいつだって女の子たちの黄色い声援が響いている。勉強だって苦労している様子はない。好きな人、はどうなんだろう。こうして地味なアヤカに構うのだから、そう恋愛に興味があるとは思えないが。
 でも、もしリチャードに叶えたい願いがあるのならば、それはチャンスだと思った。アヤカはリチャードに返しきれない恩がある。無理やりだったかもしれないけど、全然本意ではなかったけれど、泣きまではしないものの、嫌がったけれど。それでもそのお節介があったからこそ、今のアヤカがあるのだと思っている。だからもし、リチャードに叶えたい願いがあるのならば、アヤカはその願いを叶える手伝いをしたかった。
 欲しいものがあるのなら、バイトだってなんだってしてあげたかったし、好きな人がいるなら応援したかった。星だなんて大層なものにはなれないが、アヤカの出来るすべてで、リチャードの願いを叶えてあげたかった。それがアヤカに出来る唯一の恩返しだと思ったから。
 そんなアヤカの思惑など知らないリチャードは、う~ん、とペンを口元に当てて考えるように目を瞑った。
「願い事なぁ〜、こうしてアヤカと共に在れる今、さして追加で望むものはそう無いが……」
「…何言ってるの」
「俺は本気だぞ? いや、まぁあれそれ細かいことはあるにはあるが、星にまで願うとなると…」
 欲しいものとか、願いだとかはもう、叶っている気がするんだ。
 穏やかな顔をしたリチャードはそう微笑んだ。やわらかくて、夏の水分をたっぷりと含んだ空みたいな笑い方だった。
「……じゃあ、それにはなんて書くの」
「うーん、そうだなぁ、アヤカは何が良い?」
「え、私?」
 急に話を振られたアヤカは、戸惑いを隠せず狼狽える。リチャードの願いを聞き出すことに必死で、自分のことなど考えていなかった。ずいっ、と手渡されたマジックペンを勢いのまま受け取ってしまい途方に暮れたアヤカを、悪戯な顔をしたリチャードが覗き込む。
「そうだよ。俺だけじゃない、君の願いを聞かせてくれ」
「願いって…短冊だってリチャードが書きたいって言ったんじゃないか。私は別に…」
「アヤカ」
 有無を言わせぬ笑顔だった。
 圧に負けたアヤカは、少しだけよれた空色の短冊を手に、先程のリチャードのようにう~んと眉を寄せる。願いなんて本当に、考えたことない。何かを欲しがる経験も、与えられた経験も乏しい気がする。それに最近では、欲しがる前に差し出されるのが当たり前になってしまった。受け取るまで梃子でも動かぬと仁王立ちするこの男のせいで。だから、アヤカに願い事なんて、ない。
 けれど、ひとつだけ。たったひとつだけ、捻り出すとしたら。不意にかすかな思いが脳裏を過る。細く、頼りない、垂らされた一筋の糸みたいな、願いとすら呼べない気持ち。
「…願い事、とは呼べないかもしれないけど」
「お、何かあるのか?」
「あんたが求めてるようなものじゃないかもしれないよ」
「構わないさ。アヤカが思ったこと、感じたことを何でも教えてくれたら、俺は嬉しいよ」
 何でもないように笑う男に、アヤカはそういうところだ、と思う。そういうところが、アヤカには酷く眩しい。当然だというふうに差し出されるそれが、どれほどアヤカにとって得難いものなのか、この男に伝わる日は来るのだろうか。来なくても良いと、思っているけど。でも、伝えることを諦めることはしたくないな、と思った。
「…あのね、私に優しくしてくれる人たちがいるでしょう」
「ああ」
「お姉ちゃんもそうだし、先生とか…シグマくんも、おさげの女の子も……もちろん、リチャード。あなたも」
「アヤカの人徳故だな! でも、俺が君の力になれているのなら、本当に嬉しいし、俺も誇らしいよ」
 そういって本当に嬉しそうに笑うリチャードに、なんとも言えない気持ちになる。自分にはそんなふうに優しくしてもらえるほどの価値はあるのだろうか。どうしてこんなに良くしてくれるんだろう、と考えるのは随分前に止めた。考えたって答えは出そうになかったから。でも、だからと言ってこの疑問が消えるわけではない。消えるわけではないけれど、飲み込むことは出来るから。
「だからね、そうやって優しさをくれる人たちに、ふさわしい自分になりたいなって」
 優しい人たちに報いれる人でありたい。眩しくてあたたかい人たちに、いつか同じくらいの、何か、価値のあるものを渡せるようになりたい。そうやって人は、営みの中で生活を繰り返すと知ったから。アヤカもその輪の中に入れるようになりたい。
 そうして、いつか。出来るのならば、リチャードの隣に、胸を張って立てる自分になりたい。
 アヤカの願いとすら呼べないような、欲だ。
「…………」
「いつか優しくしてくれた分だけ、私も何か返せるようになれたら良いなって…リチャード?」
「…うん、聞いてるよ。素敵な願いだな、アヤカ」
「そう、思ってくれる?」
「ああ、俺はどんな君の願いも肯定するが……それでも、アヤカのその願いは美しいものだと俺は思うよ」
「ありがとう」
 控えめにはにかんだアヤカに、小さくリチャードは「君は変わらないんだな」と呟いた。その声がアヤカの耳に入ることはなく、やわらかい風に攫われた。橙に染まっていた商店街が紫に色を変える。濃厚な夜の気配がすぐ傍まで来ていた。
「ほら、そうと決まったらちゃんと願いを書かなきゃな。俺が責任をもってアヤカの願いは一番高いところに吊るしてやろう」
「え、別にいいよ。というかリチャードのは? あなたが書きたかったんじゃないの?」
「言ったろ? 俺の願いはもう叶ってるんだ。星にまで願うことは何もないさ」
 あまり納得いかない気持ちで、押し付けられた短冊に散々悩んでから、渋々『胸を張れる人になれますように』と書いた。言葉足らずだが、これぐらいが丁度良いだろう。本来は技芸上達を願う祭りなのだから、概ね間違ってはいないはずだ。アヤカが短冊を書き切ったのを確認したリチャードが宣言通り、一番高いところに堂々とアヤカの願いを吊るす。
 空が暗くなりはじめ、一番星が瞬き始めた暗闇の中で、まるで眩しい青空を仰ぎ見るようにリチャードはアヤカの願い事に目を細めた。なんだか違う世界のものを見ているようなリチャードの姿に、アヤカはそっとリチャードをこちらへ引き戻す様にその手のひらに手を伸ばす。
「帰ろう、リチャード」
「…ああ、そうだな。随分と暗くなってきてしまった」
「うん」
「アヤカの願い、叶うと良いな」
 夜空にぴかぴかと輝く星みたいに、リチャードの金糸が光って見えた。アヤカの願いはあまりにもちっぽけで、独りよがりすぎて。星に願いを託すなんてこと、出来そうになかった。だってアヤカは星に願いを叶えてほしかったわけじゃない。ぴかぴかと眩しいくらいに輝く星に、恥ずかしくない自分でありたかっただけだ。
「私も、リチャードのお願いがずっと叶い続けると良いなって思う」
 アヤカの言葉にリチャードが、手のひらを握り返した。腕を伸ばせば届く距離、どころかちょっとでも動けば簡単に肩が触れる距離で。ずっと横から香っていた良い匂いの中に、ほんの僅かに汗の香りがした気がした。
 さらさらとした風が頬を撫でる。水分の多く含んだ、じっとりとした季節も夜になり涼しさを増す。縦に伸びていた二人の影が闇に溶けて、ひとつになる。暗い紺色に染まった空には、あちらこちらで小さな星々が瞬く。遠くの空で一番星だったはずの光が見えた。夏が来ていた。
カット
Latest / 115:31
カットモードOFF
11:31
瀬をはやみ
誰かいる!うれしい!
53:52
瀬をはやみ
見に来てくれてありがとうございます!
75:24
ななし@dfc49e
すごい…するする書いてらっしゃる…
75:45
瀬をはやみ
全然するするじゃないです!!!!泣
75:57
瀬をはやみ
さっきまでXを眺めてました
76:35
ななし@dfc49e
あ、ななし表示になってる。梓です。実際書かれてるのリアルで見られるのすごい…得難い経験だ…
77:07
瀬をはやみ
わーい!梓さん見に来てくださってえありがとうございます!私も自分が書いてるのを客観視する機会無くて新鮮です
78:48
瀬をはやみ
あの~現パロで狂信者ちゃんのことをアヤカさんは何て呼ぶと思います…?
78:57
瀬をはやみ
お助け……泣泣
79:20
ななし@dfc49e
あー……確かに……おさげのお姉さん…とか?
79:41
瀬をはやみ
ありがとうございます!!!!!!(大声)
79:59
ななし@dfc49e
狂信者ちゃん、頑なに「名乗るほどの者ではない」とか言いそうじゃないですか
80:09
瀬をはやみ
ですよね~泣
87:25
ななし@dfc49e
や~はやい。はやーい。するする書かれてる~
89:50
ななし@dfc49e
91:22
瀬をはやみ
2000字くらいで終わる予定だったんですよ
92:25
ななし@dfc49e
今、文字数いくらくらいです?(すみません文字数表示が見当たらなくて…)結構書かれてますよね…
92:48
瀬をはやみ
いま3500ぐらいですかね
93:38
ななし@dfc49e
!すごい!
105:21
ななし@541898
完成がすごく楽しみです🥳
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七夕リチャアヤ
初公開日: 2026年07月07日
最終更新日: 2026年07月07日
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眠気が勝つか、今日が終わるのが先か
ゆにば行く宿伏になるはず
企画の遅刻参加したいと思っているけど間に合わなかったら普通に投稿予定。ゆにばに行ってひたすら食べまく…
あぼだ