がしがし頭をかきながら、手元にあったマグカップを引き寄せ口をつける。冷え切ってただの苦みしか感じられないその液体をひとまず飲み干し、みかはため息をついた。
「んああ~」
分析官の遊木がまとめてくれた資料はすべて完璧だ。けれど、その証拠からなにを見つけ出すのか。みかが指揮をとり、遊木が必要な情報を残らずかき集め提示する、その結果をもって方針を定める。ふたりが基本となるチームは、もちろん遊木の指揮下にある分析官のチームや、実働部隊は別にあるけれど、シンプルにこのやり方で進めている。だから、みかが行き詰まると全体の動きがスローになってしまうのだ。じわじわと肩が重たくなるような心地のまま、みかはひたすら資料を読み込む。読み直す。見落としはないか。穴はないか。どこか大事なものを読み落としてはいないか。
「んあ、」
ふと、甘い匂いが鼻をかすめた。物騒で無機質な書類ばかりが積み重なり壁には現場の写真や人物の関係図、新聞の切り抜きなどが貼られ数多のふと顔を巡らすと不愛想な写真のなかの男と目が合う。そんな暗く、つまらない部屋の中には、まったく似合いもしない華やかな匂いだった。
「そんなに眉をよせていると癖になっちゃうよ?」
ひょい、と睨みつけていた書類が上からのびてきた手につまみあげられた。あまりに長い間同じ姿勢でいたため、みかは一瞬、人形のように硬直し先ほどまで書類があったはずの、いまはただの何もない空間を見つめ続けることになる。数秒後、はっと我に返って、みかは椅子から立ち上がろうと腰を浮かせた。
その肩に、かるく手が載せられる。決して乱暴でも力強くもない。けれどそれだけで、立ち上がれなくなってしまう。
「和蒜さん……!」
「久しぶりだね」
首だけで振り向いた先、みかを覗き込むようにその男が立っていた。深紅のコートに黒いシャツ。首元にはチェーンの飾りが揺れている。品の良い顔立ちに、完璧な笑みを湛えた口もと。ローズの匂いをまとわせた指先が、みかの肩からゆっくりと首へながれ、素肌をなぞる。その冷たい感触に、ぞくっと肌が震えた。
「どうしてここに、」
先日、とある凶悪犯罪を解決するために裏社会を統べる革命者であり囚人であった和蒜・デニス・健治のもとを訪れた。そこでの会見から、この男がある一種の理想をもち本気で社会を革命しようとしていることを感じ取った。だからといってみかはそれを容認することもできず、だが、彼との会話はいつでもひりひりと刺激的で、緊張感と徒労感を伴うものの、嫌悪だけでなかったことはみか自身も認めざるを得ない。こういった場所でなければ、この男に対してもっと個人的に親しみを感じただろうとさえ思った。
(でも、)
みかは警察に属しており、檻越しに向かい合った男は犯罪者だ。立ち位置は変わらない。いくら彼に興味を持とうとも、接点はそのひと時限り。彼はせいぜい終身刑に減刑され、その後二度と会うこともないだろうと思っていた。だが、この男はみかが事件を解決したと最後の会見をするため階段を降りる直前に、脱獄した。
呆然と相手を見上げているみかをどう思ったのだろう、和蒜は相変わらず冷えた笑みを浮かべたまま、指先をさらに上へ――みかの顎先を撫でるように、動かす。
「ふふ、また違う事件を追いかけまわしているんだね。お巡りさんは大忙しだね」
「っ、そ、そうやなくて、あんたをつかまえへんと!」
咄嗟にホルスターに手を伸ばす。けれど、指先が震えてうまくつかめない。相手から視線を逸らすことも得策とも思えず、ひたすら、うまく動かない指先と動揺を隠すように、彼を睨みつける。落ち着け。落ち着け、ちゃんとあるはずだ。ほら、人差し指に固い感触が触れた。ぐ、と唾を飲み込む。
「みかはお仕事に一生懸命だね、かわいいね」
きれいな指先が、するりと頬を撫でた。その感触があまりにやさしくて、けれど整えられているだろう爪のうすい鋭利さがやわらかい頬をかすかに傷つけていく。つい首をそらすように顔をあげてしまって、菫色の瞳がきゅっと細められたのが見えた。
「和蒜・デニス・健治、あなたを――」
「ねえ、勝負しようか」
コートの影でグリップをぎゅっと握りしめたタイミングで、和蒜がずいっと顔を近づけてきた。整いすぎるほどの美貌が近づいてきてみかはおもわず息を呑む。すっと切れ長の瞳の奥が、けれどどこか笑っていないままにみかを見つめていた。
「また、手伝ってあげようか?」
「なに――」
「君がわからない部分でも私に見えることがある、もちろん逆もまたあるけれど。今回の件、私の助言がほしくない?」
蠱惑的にうっそりと細められる瞳と優し気な声、むせかえるような薔薇のにおい。疲労がピークに達し、そのまま峠をこえていそうなみかは、あまりの情報の多さにうまく処理しきれないでいる。逃亡を続ける極悪犯が目の前にいる。けれど先日の会見で、彼の意見はひどく有用であった。この犯罪者は、他人の気持ちを読むのが上手い。他人の思考を読み取りその先を予想することに優れている。みかの届かないところに手が届く。
(せやけど――)
みかは、グリップを強く握りしめる。けれどいま、影片みかは警察の組織に属している。先日の会見はあくまで上司の命令に従ったまで。それ以外の場で、犯罪者と接触することはみかの立場としては許されないことだ。
白い指先が、頬にかかった黒髪をそっとかきあげていく。耳を露出するように指先がうごき、髪の毛を後ろに流した。
「たまには視野を変えて見たら?」
ふだんは長い前髪で顔を隠しているのだが、和蒜の指先がそれを許さない。左の端の髪をかきあげられ、すこしだけいつもよりクリアになった視界の先で、犯罪者が、革命者が、微笑んでいる。
「――――勝負って、なんやの?」
つられるようにそう尋ねていた。和蒜がにっこり微笑む。小さな顔に不釣り合いなほど口が大きい。食べられそう、といま、急に感じて、うなじが震えた。
「そうだねえ、じゃんけんにしようか」
「……は?」
その答えが予想外で、みかはしばし戸惑う。一方の和蒜は微笑みを崩さないまま、みかの左耳を指先でもてあそんでいる。振り払うべきなのはわかるのに、どうにも体が動かない。グリップをお守りみたいに握りしめて、けれどそれをホルスターから引き抜くこともできない。中途半端な体勢で、相手を見上げるよりなかった。
「うーん、そうだね、じゃあ私はパーをだすよ」
「え、なにを」
みかの戸惑いなど、相手には関係ない。彼は楽しそうにみかに触れていた手を離し、拳をにぎって、振って見せた。
「ほら、一回勝負。いくよ、じゃーんけーん」
「んあ、んああっ」
みかもあわててグリップから手を離し、拳を握る。
(え、じゃんけん? えっと?)
和蒜はパーを出すと言った。素直にそれを信じるならみかはチョキを出すべきだ。けれどもしそれがフェイクだったら? 和蒜はグーをだすかもしれないからみかはパーを出すべきで、だから、ええと。
思考は簡単なのにとめどない。たった三択。けれど、相手がひとつ発言することで確率が分散する。比重がかわる。みかは、短い数秒で考えた。考えて、拳を振る。
「ぽん!」
思わずそう言ってしまったのはみかで、和蒜は何も言わず笑っているだけだった。
「……えっ」
みかは自分の握りこぶしを見た。その先にある大きな手のひらは、開ききっている。背丈も腕の長さも、指の長さですら、みかよりすべて上回っているだろうこの男は、宣言通り手のひらをパーの形にしていた。
あっけにとられたみかの顔を見て、相手はにっこり笑う。
「私の勝ち♡」
「んあ、あぅ……」
「みかは考えすぎちゃったの? それとも緊張して指の力が抜けなかったのかな」
みかの硬く握りしめられたグーを、つめたい手のひらが包み込む。そのまま軽く手を引かれ、あ、と思う間もなくみかは椅子から腰をうかせ、けれどそのまま、先ほどまで向かっていたデスクにあおむけに押し倒されている。足は床についているけれど、背中はぺたりと机の上だ。書類がばさばさと零れ落ちていく。薄暗い天井を遮るように、白すぎる顔がみかを覗き込んだ。
「かわいいね、みかはでも、すぐに視野が狭くなる。集中力があるのはいいことだけれど、そこは欠点にもなりうるから心配」
和蒜は体を倒すように、みかに覆いかぶさった。また数枚書類が床に落ちる音がする。みかは、咄嗟に逃げようと腰をよじるけれど、相手の足が足に絡んでうまく動けない。そのまま長い指先が、みかのシャツに触れた。く、とへそのあたりを上から押されて、布越しなのに、戸惑う。
「……なにが、したいんや。おれを殺したいのん?」
「殺す? なぜ? 私はもっとみかと遊びたいし、そのためにはみかにもっと活躍してもらいたい。それにみかが困っているなら手助けしてあげたいな」
足の間に相手の膝が割り入ってきた。そのまま軽く押し上げられて、ぎょっとして腰をひく。嫌悪感というより、とっさの恐怖だけれど、和蒜はにっこり笑ったまま逃がしてくれない。指先がするするともちあがり、サスペンダーをくぐりぬけ、その下をいたずらするように押していく。意図がわからない行為に戸惑いながら、みかは相手を見つめた。和蒜は、なぜかひどく楽しそうだった。
「おれを――どうしたいのん?」
思わずそう尋ねると、彼が目を細める。
(――――あ、)
いつも微笑みながらも決して笑っていない、油断していない瞳が、ふいに、緩んだように見えた。ひどく楽しそうに、暗闇の中で輝きを増す菫色の瞳がみかをとらえてやまない。
「もっと遊んでほしいだけ」
そのまま彼の親指が、みかの胸の引っかかる部分を押し込んだ。突然の刺激に、みかは戸惑い体を震わせる。
「っ、あ?」
なに、とおびえて体をにがそうとしても全身で抑え込まれてうまくいかない。空いた両手でたとえば殴り掛かれば逃げ出せるのかもしれないが、それはうまくいかないだろうことが予想されて、けれどどうしていいかわからなくて。
「ふふ、かわいい。ねえ、じゃんけんで勝ったから、私の言うことをひとつ聞いてくれる?」
「そ、んな約束、してへん!」
「条件を決めずに勝負にのったのは君のほうだ」
「条件は前もって提示せえへんと公平やない、そんな要求、きけるわけ――」
必死で言い返そうとしているところで、また指先が強くなり、みかの舌がもつれた。その隙を縫うように和蒜がさらに体を倒してくる。顔が近づいて、吐息がかかりそうな距離で覗き込まれて――みかはとっさに目を、閉じた。逃げてしまった。
「――――期待してるの? かわいいね」
あざけるような笑い声が、まつげにかかる。みかが慌てて目を見開くと、気づけば彼の気配が遠ざかっている。がた、とデスクから体を起こしどうにか床に足をつけば、深紅のコートがドアの前まで遠ざかっていた。
彼はなにかを拾い上げる。おそらく先ほど机から零れ落ちた資料の一つだ――そして和蒜は、うっすらと唇を曲げるとその紙を指に挟み、こちらに投げてよこした。みかのところまで届かず、足元にかさりと落ちる。確認するため視線をそらしたみかは、だから和蒜の声だけを聴くことになる。
「プリンターには固有の癖があるんだよ――知っているとは思うけれど」
追いかけるように顔を上げるのと扉が開くのは同時だった。みかは足元の紙がとんでいかないようつま先でふみつけ、グリップを引き抜く。両手で構え相手に銃口を向けたのと、扉が閉まるのはほぼ同時だった。
静寂が耳に痛い。自分の呼吸の荒っぽさだけが耳につく。は、は、とみかは吐息をこぼし、それから、ゆっくりとリボルバーを下におろした。無駄だと知りつつ、スマホを取り出し、ホットコールに連絡をする。
「和蒜・デニス・健治を目撃した――館内から誰一人出さないでくれ」
早口で指示を飛ばしながら、先ほど彼がなげてよこした書類を拾い上げる。事件現場に残されたラッピング用紙は、店で画一的に使用されているものでなくプリンターでプリントされたものだということはわかっている。また、別の現場で発見されたメッセージカードもまた家庭用プリンターが使用されたと推測されていた。
みかは考え込みながら、スマホをタップする。ツーコールののちに「はい、遊木です」と軽やかな返事が聞こえた。
「――――まこくん、いま、ええ? ちょっと頼みたいことがあるんやけど」
頭が回転し始めている。和蒜の確保は、まあ運が良ければ――相手が檻のなかにいるメリットを見つけられた場合は――可能かもしれない。それよりも、彼が示唆した手がかりを追いかけるほうがいいだろう。和蒜の言葉は戯れ程度のものだ。うそかもしれない。からかいかもしれない。
(なんでじゃんけんやったんやろ)
それすら、たぶん、彼の気まぐれなのだ。だとしても。みかの直観は、この方向が正しいとわかっていた。わずかに残った薔薇の匂いは、まもなく消えてしまうだろう。けれど先ほど触れられた布越しの指の感触は、まだ拭い去れずにみかの体にこびりついている。