電車を降りたところでふと思いついて、スマートフォンをポケットから出した。連絡をしておいたほうが、兄にも都合がいいのではないだろうか。
 いやしかし、そこにあるのは理由というほどもなく、ただもう着くぞといくらか甘えた気持ちで伝えたい、そして「待ってるぜ」と彼の声を聞きたいという、下らない気持ち一つだ。でもそういう他愛ないことを思いつく幸福を、いっぱいに味わって悪いこともないだろう。
 ドイツはホームをゆっくり歩いて階段を下りながら、アドレス帳の番号を選び通話をタップした。一回、二回、三回目のコール半ばで、だみ声が「プロイセン!」とがなって答えた。慣れという用心が耳から十センチの距離をとらせていて幸いだった。うるさいと言うこともできたし元気で何よりとため息をつくこともできたが、それより早く電車遅れてんのか、とプロイセンは聞いてきた。確かにDBの時刻表と運行計画は当てにならず、帰宅予定時刻近くなってわざわざ電話を入れてくる理由の一番に挙がるとしたら遅延の報告だろう。
 俺だって逆の立場ならそう聞くだろうな、と思いながらドイツはいいやと実際頭を振った。
「もうグリューネヴァルトだ。すぐ家に着く」
『なんだよ、じゃあどうした?』
 お兄ちゃんが心配かよ、とくつくつ喉を鳴らして、いくらかゆったりとした発音の話し方にプロイセンは切り替えたようだった。これは彼が自分を甘やかすときの癖だった、とりわけ穏やかな気分のときの。何をしているところだっただろうかと考える。犬たちと遊んでいたか、ゲームをしていたか、本を読んでいたというのもあるかも。苛烈な人生を送ってきたひとがのんびりと過ごす現代の一日に、温かな気持ちになった。
「心配されるようなことを日中に?」
『忙しい弟に代わってやった、洗濯と庭仕事が心配っつーならそれだなあ。あ、雨どいのごみ取っといたぜ』
「いまさらあなたに高所は危ないなんて言ってもな」
 ナントカは高いところがではないが、高いところの極致みたいなパイロット資格も持っているプロイセンの身体能力は、現役特殊部隊員も真っ青(というかその教官レベルを凌駕する)だし、掃除を感謝しこそすれ危ないの落ちるのと咎める立場にはなかった。週末にまとめてやろうと思っていた夏の庭の始末も終わらせてくれたようで、秋のガーデニングに向けて一つ先のことを考えられると思うと、ありがたかった。
 まだ夏の名残りが残る、日のある時間帯で、通りは人も車も少なくない。信号待ちに足を止めて、言葉を続けた。
「電話の理由というほどじゃないんだが、土産があるんだ。きっと兄さんも好きだぞ」
 プロイセンはおもしろそうにへえ、と笑ったようだった。クイズにしたつもりはなかったが、彼らしい日常をお楽しみに変える才覚で、当ててやるぜとやる気になったらしかった。花じゃねえの、お得意だろ? いいや。じゃあなんかかわいいもんだろ、ぬいぐるみとか。それは思いつかなかったな!
『もったいぶるなよぅ。あー、消え物かな。ワイン?』
「ああ、近い! いい線だ、フェーダーヴァイサーをもらった」
 パートナーの親戚がプファルツのほうで小さいワイナリーをやっているという職員が、シーズン物だからとボトルに三本ばかり持ってきたのだった。ドイツはその一本を、公平なくじ引きによって手に入れた。今年はまだ飲んでいなくて、結構真剣に天に祈って引いたくじだったので嬉しかった。
 あらましを簡単に伝えると、プロイセンは「Echt?」とちょっと行儀悪く口笛を鳴らした。いろいろな意味にとれるが、悪印象のない口ぶりだった。どうしたと聞き返すと、すごい偶然だぜ、と足音混じりのご機嫌な声が言った。急に立ち上がって、家の中をどこかに移動しているようだった。
『今日、昼間めちゃくちゃ暇(なんで洗濯と庭仕事と雨どいの掃除をしてまだ「めちゃくちゃ暇」なんだとは言うまい、プロイセンだ)でよ。急に俺様の料理の才能が爆発するかもと思ったんだよな』
「おい、まさか本当に爆発は」
『するか! 坊ちゃんと一緒にすんな! ……いや、そんでネットでレシピ見て作ったとこなんだよ』
 ツヴィーベルクーヘン、と他にあり得ない一品をプロイセンは厳かに、はっきりと口にした。
 なんだと、とドイツは思わずごくりと喉を鳴らした。フェーダーヴァイサーと言えばツヴィーベルクーヘン、ツヴィーベルクーヘンと言えばフェーダーヴァイサーというほど、伝統的ドイツ人の一種としては黄金の組み合わせであった。やむを得ないが貰い物のボトルは厳重に一晩置いて、夜のうちにクーヘンの仕込みをしてなんとか明日焼いてしまおうか、とさえ思っていたのだ。それがまさか、なんという偶然! あるいはこれが自分らという、特別に仲のいい兄弟の奇跡かもしれない。
 ドイツは意識して足を速めた。お喋りの間にも歩は進めていたが、これは一刻も早く帰り着かなければならない。夕飯はこの兄弟コラボで決まりだ。
「あと五、いや三分で着く。クーヘンを温めておいてくれ」
 了解の返答を待たずに、さらにぐいっと大股を踏み出す。スマホは切って、ポケットに突っ込んだ。我が家と兄とツヴィーベルクーヘンはもうすぐそこだ。
 「国」という身には、たまにしばしば不思議が起きる。ベルギーやベルンで会議をしていて、行きはICEで数時間かかったものが帰りはほんの一時間ほどしか要しなかったり、何年か前には日本やインドの家で二週間近くものんべんだらりと過ごしていたプロイセンをぼちぼち迷惑がかかるので迎えに行かねばと思った瞬間、ドアを開けたらなぜか彼らの自宅の玄関先だったり、およそ怪異と言っていい。
 しかし急ぐときには便利なもので、ダッシュをかけたつもりまではなかったのに、今日もいつの間にやらドイツはたちまち見慣れた家のアプローチを歩いていた。腕時計を見ると、二十秒と経っていなかった。百メートル走みたいなものである。
「妙だな。まあ、早く着く分にはいいが」
 待ち受けていたように玄関が開いて、「おっ、やっぱ三分いらなかったな!」とプロイセンが顔を出した。彼も「国」の一種とて、首をひねるおかしな出来事にはそれなり慣れているのだ。加えて、お帰りとハグを受けると、ちょっとした疑問はいっそうどうでも良くなった。腕を回した兄の体からは、彼らしからぬ、しかしほっとする、バターとタマネギのにおいがした。
「ただいま。兄さん、いいにおいがする」
「俺はおいしくないけど、うまいもんはあっためてあるぜ」
 着替えて来いよと手の中のワインバッグを回収され、背をぱんと叩かれてさあさあと二階にやられた。スーツをハンガーにかけるのもそこそこに、部屋着になってとんぼ返りする。プロイセンはすでにテーブルで待っていた。
 食卓には早ツヴィーベルクーヘンが大きく切って二枚の皿に載っており、断面をぱっと見る限り、いい出来に見えた。ドイツのほうが料理は得意だが、レシピ通りにやる限り、プロイセンもそうそう下手は打たないのだ。いつか、ラップとか電子レンジとか便利だよな、と「調理」のスタートが火を熾すところからだった時代を体感している人は言ったものである。
 ドイツが席に着くと、プロイセンはボトルをずいと押しやった。貰い物なら、開栓するのはドイツの役目だろう。慎重に運んだ甲斐があって、グラスに注いだときのやわらかな気泡はそれこそ天使の羽根のごとく、うっとりするような小さな音を立てて二人の耳を楽しませた。
 初物である。乾杯、と小さくグラスを上げて、くっとひと口含むと、甘く、そしてしゅわっとやわらかく弾け、かすかなアルコールの味わいを喉に残して軽やかに胃に落ちていった。駆け抜ける秋風のような味わいだった。
「うまい」
「いいな、プファルツ?」
「うん、ブランデンブルクにもらうのより、ちょっと重めだ」
 プロイセンの作る料理は割と塩気の濃いことが多いので、合うだろう。そう思いながらツヴィーベルクーヘンを割って口に運ぶと、やはりちょっと大きめのベーコンや、気持ち多めに入れられただろうバター、生クリームの風味とぴったりだった。キャラウェイの独特の香りが、ドイツ自身が作るものよりやや強いのも彼らしい。
 手酌で二杯目をグラスに注ぎながら、何年か前によぅ、とプロイセンは思い出し笑いした。
「ヴェストが出張で留守で、そのときも自分で作ったんだよ」
「ツヴィーベルクーヘン?」
「おう。ブラン呼んで食ったんだけど」
 その話は聞いたことがなかったと思ってちょっとドイツはムッとしたが、一瞬のもやつきは爽やかなアルコールに流れた。それに、わざわざフェーダーヴァイサーを持ってきてくれたのだろう従兄を思うと、怒るほうが馬鹿馬鹿しい。
 「あんまり、なんかなーって味で微妙で、あいつに悪いことしたな」とプロイセンはフェーダーヴァイサーを飲み、自作のクーヘンを大きな口でばくりとやって、今日はまあまあ、とうなずいた。まあまあというよりかなりいい出来の部類だとドイツは思った。これなら人様に供して悪いことは何もない。
「それなら、週末に招待したらどうだろう、もう一度兄さんが作って」
「あいつ、お前の作るのだと思って浮かれて来るぜ」
「だから、びっくりさせたらいいじゃないか。彼の顔色が変わるところなんて、俺は数えるほども見たことがないぞ」
「かわいそうなブラン、そんな理由かよ」
 あくしゅみ、とプロイセンは笑ったが、おもしろいと思ったようで、思いがけない夕飯の後、ブランデンブルクに招待のSNSを送ったようだった。もちろん、フェーダーヴァイサーをねだったのも言うまでもない。
 その週末、滅多に驚くということのない従兄の「ええ、プロイセンが作ったのか! 前に食べたのは野戦料理みたいだったからねえ!」と丸くなった目に、ドイツはプロイセンと大成功の目配せをして笑ったのだった。ドイツは気分がたいへん良く、それがよくできたほうの兄お手製を先に食べられたからというわけでは、無論あるわけがない。
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