「ついてきて」
「今からか?」
「誰がアンタのこと養ってると思ってんの?」
「分かったら黙って靴を履いて外に出て。
いいわね」
今にも死にそうな顔で命じられた。
「おい」
「信号の赤は止まると聞いたが」
「誰もいない」
道路を見つめながら女が低く呟いた。赤信号を1台の車がそのままの速度で通り抜ける。
女はバサバサと目についたものを手当たり次第にカゴに投げ入れた。
「ねえ」
「向こうでは何飲んでたの」
「水か、薬草を煎じたものか…極稀にワインくらいだな」
「ワイン」
「不味かったら捨てていいから。
なんか飲めそうなの別に買っとくし」
一体どこで何をするつもりなのか尋ねようとして、止めた。
「ねえ、食べてよ」
「………」
フロントガラスから無遠慮に差し込むコンビニの光が、女のやつれた顔に影を残していた。青白い顔は穏やかで、先ほどの張り詰めた様子はいくらか薄れている。髪がボサボサだった。拒む気にはなれなかった。
「美味しい?」
「…甘い。…噛み切れんな」
面白くなさそうにハハと笑って、車が走り出す。凍てつくような寒さだった。
「降りて」
「ここはどこだ」
「星がよく見える場所」
「やっと連れて来れた」
「何故、今連れてきた?」
「さあ…」
「天文やってたって言ってたわね」
「…それがどうした」
「じゃあ冬のダイヤモンドくらいは分かんのね」
「カペラと…」
「そうよ」
「ふん、なるほどな。確かに見えなくもない」
「え? そっちではそういわなかったの」
「聞いたことはない」
「じゃあこっち独特の呼び方なんだ。へー…」
「どう」
「…なんだ」
「綺麗?」
「……何がしたいんだ君は」
「さあ……」
「何がしたいんだかね。私は」
息を吐く。
「…人がいないから回らない業務を一生懸命回すけど、それが追いつかないからタスクはどんどん増えてって、期限切れの業務をまだ抱えていることについて管理職員から厳重注意を受けただけ。そしてそんな環境に嫌気が差してまた人が辞める。だからもっと業務が回らなくなって、もっと余裕がなくなって、私のタスクはもっと溜まってって、上からもっと怒られる。
ほんとになんでもないの。いつも話してることと同じ」
「………」
「ねえ、ねえってば」
ワイン
「飲んでよ。15世紀のヨーロッパ人に、現代のコンビニワインがお気に召すかは分かんないけど」
「………」
別に不味くも美味くもなく、あえて言うなら不味かった。
「まァ、悪くない」
「それだけ? 渋いとか酸っぱいとか苦いとか、なんかないの?」
「…自分で確かめてみればいい」
「飲酒運転は犯罪よ。悪いわね」
「何故謝る。君は法を遵守しただけだろう」
「気遣いを無下にしたことに対しての謝罪よ」
「風味について尋ねた君に対し説明を省こうとしただけだ」
「味の比較について知りたかっただけ。15世紀のヨーロッパで作られたワインの味を知らない私が飲んだって分からないわ」
「それもそうだな」
「バデーニ」
「アンタは元の世界に帰るのよ」
「そのときが来るまで、アンタの衣食住と健康は私が保証する…今更だけどね」
「お金のこと、食べるもの、着るもの、全部気にしなくていい。私が全部なんとかする。もう、それしか…」
「もう、私があなたにできるのはそれしかないみたい」
「それまでいろいろ不便だろうけど、頑張って。私も…」
「…私も頑張る。きっともう、それしかないんだわ」
バデーニには自分の生活の基盤が彼女の収入で成り立っている以上、辞めろなんて言えなかった。職を変えることによって生じる弊害など不明だったためかけられる言葉など無かったし、自分はもちろん、彼女にだって飢えて欲しくはなかった。
多分、そこまで見越してこの話をしているのだろうと思った。自らに心身の健康も保障も預けている相手には、何を言ってもいいと思っているのだ。職を辞する助言がなければ迷わないし、真摯な慰めや励ましに心がへたることもないから。だからそれを提供できない自分に弱音を吐いているのだ。
「………」
バデーニは黙って彼女に自分の上着を着せた。彼女はうおっ、と驚いたあと、上着デカ過ぎない、と笑った。冷え冷えとした宇宙の一部が二人に注がれている。
帰りは赤信号で止まる
「誰もいないが」
「何? 本来止まるものだけどなんか文句ある?」
「一貫性がないな。先ほどは誰もいないと通り過ぎただろう」
「いちいちうるさいな…」
「──あんたがいるでしょ」
「……。そうか」
「そー」