喩えるならば、それは紛れもなく恋だった。
日々の煩わしさを靴下と一緒に波打ち際に脱ぎ捨てて、波に攫われていく細やかな砂の異物さと、まだ芯のある冷たさを素足に感じたあの瞬間。
それまで繋がれていた手が解かれて、潮風が無遠慮に手のひらを撫でたあの瞬間。
水面がきらきらと反射して、振り向いた少年の黒髪さえ眩しかった、あの瞬間に。
僕は、間違いなく恋に落ちていた。
◇
商いをしている両親の仕事の都合で、夏休みまで三週間を切ったタイミングで転校が決まった。
時期も時期、高等学校の編入など珍しいと度々口にされるなかで通う学校の居心地は、けれど決して苦ではなかった。
だから、通学路の途中で立ち尽くしてしまったのはきっと、なにか原因があったとかではない。学校が嫌になったとか、人生がどうでもよくなったとか、人間関係にうんざりしたとか、決してそういうことじゃなく、ただただなんとなくなにも考えずにいつもどおり足を進めることが馬鹿らしくなった。その理由こそが『馬鹿らしい』のだと自覚はすれど、ひとたび正常な思考を投げ出してしまえば身体は怠惰に身を任せて動かない。
どうしたもんか、ともはや他人事感覚で考えあぐねる。まだ朝だというのに昇りすぎている太陽の熱がアスファルトに照り返して、その茹だるような暑さにどうにも思考がまとまらなかった。そのあいだにも不快な汗は背すじを伝い、流れていく。ならばいっそのこと来た道を引き返して、このまま帰宅するのも手だと思った。問題は一度その成功体験を積んでしまうと後々学校をサボることが癖になってしまうかもしれないという危惧だったが、それはそうなったとき己の精神力と損得勘定でなんとかすればいい。
兎にも角にも、今は学校へ向かうための足が一歩も動かないことのほうが重要だった。自覚していなかっただけで新しい環境での疲れが出てきたのかもしれない。いずれにせよこのときの僕は重たい溜息を吐いて踵を返すしか毛頭になかった。
だから、気付かなかったのだ。振り返った先に一人の男子生徒がいたこと。そしてその生徒が、ただ真っ直ぐに僕を見据えていたことに。
その男子生徒の顔には見覚えがあった。同じクラスの生徒で、後ろから二列目の窓際の席。いつも頬杖をついて虚ろな瞳で窓の外を眺めていて、他者との関わりを自ら拒否しているような雰囲気を纏った三白眼の少年——ナツキ・スバル。
「おはようございます。ナツキさん」
「……おはよ」
乾いた喉から出た音は緊張で僅かに上擦ったのがわかった。
なぜなら彼と言葉を交わしたのはこれが最初で、もっと言えば目が合うのだって初めてだからだ。真正面から捉えたナツキさんは、いつかの日に盗み見た横顔よりもずっと幼さの残る顔立ちをしていた。
「遅刻しちゃいますよ」
「お前もだろうが」
「僕はもう帰るので」
は? という間抜けな音を最後に、ナツキさんの表情が鳩が豆鉄砲をくらったような表情で固まる。至極当然の反応だと思った。
「帰んの?」
「はい」
「なんで?」
「なんででしょうねえ」
とぼけた返事が気に入らなかったのか、ナツキさんは数歩こちらに歩み寄って徐に僕の顔を覗き込んだ。そして突然のことに身を固くする僕を品定めするかのような目つきでこちらを見つめたあと「体調悪いわけ?」と問いかけてきた。
「いえ、特には」
「んじゃあ噂の転校生くんは元気いっぱいなのにこれから学校をサボるわけだ?」
「そうなりますね」
こちらが名前を誤りなく呼んだにも関わらず、彼は『噂の転校生くん』などと口にするのが気に食わない。