ひらい
控えめなノックの音に、「はい」と宗は反射で返事をした。手元の刺繍からは目を離さない。しばしの間をおいて、そうっとドアが開く。相手がだれかなんてわかり切っている。このパリのアパルトメントにふだん滞在しているのは自分と彼のふたりだけだ――時々月永などが襲来してくるが、あれはあくまでアトリエの方だ。
「……お師さん、いま、おじゃましてもええ?」
「かまわない」
控えめな声とドアのそうっと開く音が重なる。宗は構わず針を進めた。鳥のシルエットのみ縫い留めるような刺繍は、簡素だが今回はこのくらいでちょうどいい。手前の花もいつもよりぐっと軽やかにしてある。何事もバランスである。宗はつい、華美にしがちな性分ではあるが、同時にそれなりに客観性と審美眼も持ち合わせていると自負している。物事には適切な量があり、それはそれとして美しいものはいくらあってもよい。
そろそろと歩み寄って来る足音を聞きながら、ふと、なんだかいつもよりおとなしいなと思った。なにか用があるのだろうか――言い出しにくい、気の重い用件とか? そこまで考えて、宗はふと指を止める。
「影片、どうした――」
そう顔をあげて、途中で動きが止まった。見慣れた室内履きにいつもであればゆったりとしたスウェットの裾が重なっているところなのだが、今日はやぼったいその布は見えず、すっきりと足首からふくらはぎを包み込むハイソックスが見えた。紺色。そのままするすると視線を這わせると、下腿の途中で布は途切れ、膝の下に細いバンドが巻かれている。白い膝小僧が覗き、ショートパンツの折り目正しい裾が見えたところで、宗はもう一度つま先までじっと見降ろし、それから目を見開いたまま首をそらした。
みかは、困ったような顔をしている。なんだかハイティーンのような幼さだ、と思いながら、服装がまさにそれなのだった。白いシャツは首元までボタンがきっちりとめられ、茶色のベストは品の良いシルエットで飾りの乏しさを補うように細いラインが二本入っている。
「――――靴があっていない」
ひとこと、ようやくそれだけ言うと、みかが眉をふにゃりと下げた。
「んあ~だってぴったりの靴もってへんかったんや」
「買いに行こう」
立ち上がるとなぜかぎょっとしたように首を振られた。
「んあああ、邪魔したいわけやなくて……いや、えっと、それもあるけどその、お出かけしたいわけやなくて!」
「意味が分からない。不完全なのは僕には耐えがたい。だいたいなんだねその恰好は。君の趣味ではないだろう」
「お師さんの趣味っぽい気もするけど」
みかの言葉に、宗は鼻をならし布と針をそっと机に置いた。集中がすっかり切れてしまった。
邪魔をしたかっただと?
(影片の癖に、いい度胸だ)
「ふん、君に僕の何がわかるというのだね、僕を軽んじるのもいい加減にしたまえ。ショートパンツはあと5ミリ短い方が君の足の美しさをよく表現しているだろう。そもそもソックスガーターは必要なのかね?」
「お、おしゃれやもん!」
「ずりさがるのを防ぐための実用品であってそうやってやたらと見せるものではないだろう」
「うう……だってこういうのよくみかけたんやもん、参考にした漫画とか映画とか」
「そもそもよくわからないのだけれど、それはいったいなんだね」
そこでようやく宗が尋ねると、みかが、はーっとため息をついた。
「今度、日本の劇団に勉強もかねて参加するいうたやん」
「ああ、うん、聞いたけど」
「衣装に関して、おれの意見も取り入れてもらえそうなんや。小さい規模やし可能なんやろな」
「勉強になりそうだね、いいじゃないか」
「んん……それで、おれの役なんやけど」
はあ、とため息をつくようにみかが自分の服を見下ろした。宗もつられてもう一度、しみじみとその恰好を眺める。どこからどうみても学生には見える。だが、日本の学生ではない。
「どことなく、ギナジウムっぽさはある。実際のところを僕は知らないけれど」
「あ~せやねえ。おれの役、幽霊やねん」
「は」
幽霊、と繰り返してその顔をまじまじとみる。みかは、わざとらしく両手を身体の前でたらしてみせた。演出にしても古すぎる。
「全寮制の学校に憑りついている幽霊やねん、ほんで、昔そこであった事件を主役の子たちが解き明かす、サスペンスっぽさもありつつちょっとしんみりするストーリーなんよ」
「……はあ」
なんだか陳腐な筋書きに聞こえるが、実際を見て見ないことにはわからない。宗はそれ以上口を挟むのをやめた。脚本を見たい気もしたが、実際に完成した舞台を見るまでとっておきたい気もする。いや、やはり見せてもらおう。この子の演技は正直不安が大きい。ある程度こちらで意見しておいた方がいいかもしれない。
「それで……それで? ああ、衣装について僕の意見を聞きに来たのかね」
「あっ……んと、それもあるんやけどぉ」
みかはそこで、またもしょもしょと口を動かし、両手の指を身体の前で組み合わせた。なにか言い淀んでいる。それは最初からそうなのだが、それにしても。
宗は、じっとその顔を見つめた。みかはなぜか目をあわせず黒目をきょろきょろせわしなげに揺らしている。小さな唇、白い鼻先、長い前髪で隠れがちな両の瞳。
(たとえば)
舞台であればさらに血色を悪くみせるメイクも可能だろう。口をひらけばやかましいが、舞台のそでに黙って立たせておいて、うつむきがちな顔でじっと遠くを見つめていれば――やたらと細い手足も、小さな白い顔も、長めの黒髪も、なるほど、陰鬱な印象を出すにはいいかもしれない。
ふうん、と宗は顎先を撫でた。まあ、監督は悪くない役を与えてくれたのかもしれないと思ったのだ。問題はこれが口を開いた途端その雰囲気がすべて霧散しかねないことだが、それは、まあ、どうにかしてくれ。演出の腕で。
(こんなに美しい幽霊なら、家においておいてもいいかもしれない)
などと宗が考えている間にも一向に口を開かない相手にそろそろ焦れて、宗は息を短く吸った。
「か・げ・ひ・ら」
「は、はひぃ」
んひゃっ、とみかが肩をはねさせた。宗はその戸惑いを逃がさず、じっと睨みつける。
「結局なんなのだね? 言いたいことがあるなら言いたまえよ。僕の邪魔をしにきたんだっけ?」
「んあ、あの……そのぉ」
「影片くぅん? いい加減にしないと僕、怒るけど」
「んあっあう、お、怒られるかもしれへんけど、あの」
「いいから」
「……お、」
小さな口をすぼめて、みかがなにか言いかけた。宗はじっとその続きを待ってやる。押して、ひいて、駆け引きならこちらのほうが上手だ。そもそもこの子が自分に逆らうなどできるはずもない。
「お、お師さんこの格好見たら、その、かまってくれへんかなって思っただけで!」
みかが、ぎゅっと目をつぶって両こぶしもぎゅうっとにぎり腕をぴんと下に伸ばして叫ぶようにそういうので、宗は、瞬いた。
「……うん?」
かまう? この格好?
どういう意味だろう、と考える間に、いったん口をひらいてしまうとあとはもう勢いなのか、こちらもかまわずみかは口早に続けた。
「依頼貰って作りながら、おれ、こういうの得意やないから、でもお師さんならどう作るかなって考えて、作りながらずっと、お師さんなんていってくれるかなって思ってしもて、その、ほ、ほめてくれたり、よろこんでくれたり、せえへんかなって、思って」
「僕が?」
仕事なら依頼主の要望を優先させるべきだ。そう答えるべきなのかもしれなかったけれど、宗はただ、目の前の子の言葉を唖然と聞いていた。しゃべりながら頬がかっと赤くなっているのがわかる。興奮しているのか、いや、恥ずかしいのか、と気付いて、その恥ずかしさの意味を、考えてしまいそうになる。
「で、でも、お師さんの好きそうな格好でも、着てるのがこんなおっきな男やったらあかんよな、もっとかわいい、なずな兄ィみたいな子がええよなって思って、でも、でももしかして褒めてもらえるかもって、んあ~! おれ、ほんまあかん! まぬけや! おじゃましましたぁ!」
言いたいだけ言ってその場で急に方向転換をして逃げ出そうとするので、宗は反射で立ち上がり一歩を踏み出した。我ながら素早い動きだったとその腕を捕まえて、ほっとしながら思う。体をよじり背中を向けた格好のみかが、困ったような顔で振り向いた。なんだか今日は、こんな顔ばかり見ている気がした。
「待ちたまえよ、僕の言葉が聞きたいんだろう」
「んあっあの、でも、おれ」
「ふむ、ベストの縫い目は丁寧だし、ラインの細さも悪くない。裾のふちだけでも刺繍を加えるとさらにエレガントになると思うがね。シャツは少々やぼったいが、制服と考えるならまあそのくらいがいいのだろうか。だがせめて袖のボタンは二つ。襟元のボタンの間隔ももう少し詰めたほうがいい。ショートパンツは先ほども言ったが丈を5ミリつめて。ほかの役者にはそれぞれちょうどいい丈の長さがあるはずだから、それはまた相談しよう。ハイソックスはもう3ミリ丈が長い方がいい。すこしあげれば解決することだ」
宗はその場にしゃがみこみ、彼の足に触れる。みかが震えたようだが、足を動かすとこちらを蹴飛ばすことになるとすぐにわかったらしく、ぐっと動くのをこらえた。宗はソックスガーターにふれ、そのバンドの下に指を滑り込ませる。ぴったりと肌にはりついた内側に入り込むのは、どことなく、背徳感がかすめる。
(……ただの、衣類の調整だ)
宗は誰に言うでもなく心のなかで吐き捨てた。そのまま淡々と右足の調整をすませ、左足に触れる。みかは抵抗せず、ゆっくりとこちらに向き直った。両足のソックスを調整し、うん、と頷いて、跪いたまま顔を上げた。
「どうだね、このほうが美しいだろう」
見上げた先、みかは両手を胸の前で組み合わせぎゅうっと指に力を入れていた。こぼれんばかりに目を見開き、それから、なぜか泣きそうに顔をゆがめる。
「お、お師さん……おれ」
頬が恥じらいのまま赤らんでいる。力を籠めすぎてかすかに震える指先、品の良いベストとシャツ、ショートパンツの裾は折り返して縫い留められ、白い太ももがその中に吸い込まれ翳りを落としている。
(誉めてくれたり喜んでくれたり)
そういうことを、期待していたのだろうか。この子は。人形師に、よくできたねと褒めてもらう人形のような?
でもそのくせ、ひきあいに出すのは仁兎なのか。
(……この子のことがよくわからない)
宗はゆっくりと立ち上がる。今度はいつもどおり見下ろす格好になり、みかが上目遣いにこちらを見上げた。この距離に、もうすっかりなじんでしまっている。いつでもこの子がここにいないと落ち着かない。離れている間はだからいつも、どこか物足りなかった。触れたいときに触れられない、抱きしめたいときに抱きしめられない。
「靴をあつらえるのは明日にしようか」
「う、うん、せやね、おれ、これ、なおしてくる」
ぎこちなく再び逃げ出そうとしたその腰をつかみ、少しだけ体を屈めて肩に担ぎ上げる。まぬけな脚がじたばたと揺れるのが見えた。彼の顔は宗の背中側にあるので声が後ろから響くことになる。
「んえ、な、なにっ」
「なんだったかな、僕に褒められたい?」
「んあー! あ、あぅ、それは忘れてほしいんやけど……!」
「発言には責任が伴うのだよ。僕が好きそうな格好をして目の前に現れておいて、それで? うん? どうしてほしいんだっけ?」
「んあ、んあああ~あのっせやから」
がん、と宗は足で作業部屋のドアをあけた。肩の上でみかが体をこわばらせたのがわかる。怖がらせたいわけではないので、無造作にその尻を叩いて、「落とさないよ」と言っておいた。
「思う存分褒めてあげようじゃないか、ああ、皺はつけないようきちんと脱がせてあげるから心配しないように」
「んあ!? ち、ちが、そういうことじゃ、」
肩の上でもごもご言い訳をする子の体をしっかりつかんだまま、宗はすぐ隣にある寝室のドアをあけて、おもいきり、しめた。