階段を降りる足音がやたらと響く。影片は、つとめて足音を消そうと試みるがそれは決して無にはならない。
 番人替わりのスタッフに身分証を見せる、しかしこの署内で影片みかの顔を知らない刑事はいない。最年少で特別捜査班に回された二人のことを知らないはずもなく、やっかみや嫉妬、嫌悪、様々な視線を投げかけられることにいつしか慣れてしまったみかは、今日もサングラスで目元を隠している。
「一応の確認です」
 不愛想にそう言われ、影片も黙ってサングラスをずらした。相手はじろじろと身分証と目の前に立つ少年の顔を見比べ、放り投げるように身分証をよこす。
 影片も何も言わずただ頭を下げ、さらに階段を降りた。
 一段、二段。照明が最低限しかないしどこか底冷えしている。独房であっても人権は保障されているけれど、それにしても陽の光が届かない場所がこんなに心もとないとは。
 ようやく最後の段を降り切ると、そこは細長く続く廊下がある。壁の代わりにしつらえられたのは鉄格子。空の房も多いが寒々しく、殺気立った不穏な空気を振り払うことはできない。影片はひとつ息を吸い、また静かに歩き出す。靴音を響かせないよう注意深く。自身の気配を顰めるよう、ひそやかに。
 それでも。この廊下はいったいどこまで続いているのだろう? 影片は見取り図を先に確認してきた。だが薄暗く、細い通路はどこか遠近感を狂わせる。ぐらぐらと足元がおぼつかなくなる。どうしてあの階段の上にしか看守がいないのだろうか。これ以上先に、だれも、人間がいないような錯覚を抱きそうになり、影片はまたひとつ首を振る。
「どうしたの、そんなに怯えて」
 ふと。
 声が聞こえた。影片は、はっとして顔を上げる。
 気付けばもう目の前には鉄格子が並んでいた。腕を伸ばせば触れそうなくらいの近さまで無防備に接近してしまっていた。そのことにいまさら気づき、拳を握りしめる。肩からコートを羽織っているのに、また一段と肌寒く感じる。
 鉄格子の向こう、男が座っていた。
 簡素な椅子だった。何の飾り気もない、どこにでもありそうな椅子。だがそれがまるで王室に設えられた特等席のように思えてしまう。
「……和蒜・デニス・健治」
 影片は乾いた声でそう呟く。鉄格子の向こう、切れ長の瞳がすっと細められた。
「大仰だね、いちいちフルネームで呼ばなくともかまわないよ、子猫ちゃん」
 影片が現在携わっているのは連続殺人事件だった。いや、おそらく殺人事件だろうという見込みだ。なにせまだ、人体の一部しか見つかっていない。
 連続殺人犯はたいていサイコパスだ。分析官の遊木の受け売りになるが、影片はそう考えることにしている。彼らは目立たない。社会に溶け込んでいる。連続の意味を見つけること、共通点を探り出し、少しでもほころびを見逃さないこと。追及の手を休めないこと。刑事たちができるのはそんなところだ。それしかない。地道にやるしかない。
 だが、さすがの遊木も、ほかの分析官も、行き詰っている。
 操作の停滞具合を見かねた上官から指令が飛んできたのはそんなタイミングだった。
「和蒜・デニス・健治との会見を許可する」
 チームのリーダーが任されたのだろうと思っていたところで、急に影片が名指しされた。理由は不明。ただ、言われるがまま、影片は資料を読み込み、時間通りにその牢の前まできたところだった。
(和蒜・デニス・健治――)
 影片は仕入れた情報を思い返す。裏社会の権力者。世界の浄化を掲げ、暗躍するテロリスト。殺人もいとわない冷酷な男。彼のために失われた命は数えきれないだろう。また、彼の命を奪おうとするものたちも同様に。
 そんななか、和蒜・デニス・健治を捕らえることができたのは、いったいなんの偶然だったのか。彼はさほど抵抗も見せず、悠々とこちらに下った。そして現在、最も警備の強固なこの最奥に居場所を与えられている。仲間が助けにこようとも感嘆には入り込めない、無論脱獄などもってのほか。
 影片はじっと相手を睨んだ。一方の和蒜は悠々と足を組み替え、その膝に頬杖をつくような格好で唇を曲げる。
「子犬のほうが良かったかな? いぬのおまわりさんって童謡にもあるくらいだものね、こまってしまってわんわんわわーん」
 艶のある美声で突拍子もなく歌いだすが、影片はじっと唇を噛んで耐えた。すでに主導権はあちらに奪われかかっている。それはよくない。影片は、今回の事件に関し情報を得るために彼のもとを訪れているのだ。そこに上官がどんな意図をはりめぐらせているのかは知らない。そもそも、影片は上官のことが大嫌いだった。優秀ではあるがいつも人を食ったような笑みでどんな辛辣で残酷なことも成し遂げてしまう男。
「おしゃべりは嫌い? 私も益体のない話は好きでもないかな」
「……和蒜・デニス・健治、あなたに聞きたいことがある」
「あはっだからフルネームじゃなくていいのに。でも「あなた」呼びはいいね。うん、じゃあ特別に」
 ふ、とその蠱惑的な笑みが消える。急に表情をなくしたような冷たさに背筋がぞくっと冷えた。影片はとっさに銃を探りそうになって、その手を押しとどめる。瞬きもできずに相手を睨みつけると、またくるりと手のひらを返したように彼が微笑む。完璧な、美しい笑みだった。
(――彼もサイコパスか)
 人間の感情を理解できない。だから他人を模倣し、操る術を身に着ける。そういったタイプの人間だろう。影片は一段と警戒を濃くする。本当に、この男からなにを聞きだせばいいのか。
「そのサングラスを外してごらん」
 和蒜が指先を伸ばしてきた。そのまま触れられそうな気がして咄嗟にのけぞってしまう。和蒜は鉄格子からも離れたところに座っていて、当然、その向こうにいる影片に触れられるはずもない。そのことを理解しながら、同時に、恐れている。ああだめだ。この場の支配権を握れない。
「日の光も届かないこんな地の底でサングラスなんて不似合いだよ」
「……あなたには関係がない。それより意見を聞かせてもらいたい事件がある、場合によっては」
「サングラスを外して」
 相手の声を無視して、影片は話を強引に推し進める。主導権を、奪われてはいけない。取り調べではこちらが優位に立つべきだ。
(でも、これは取り調べやろか?)
 上官が何を望んでいるのか――影片には理解しきれていない。だから、判断が遅れる。それでもどうにか腹に力をいれて声を出す。
「……あなたの協力次第によっては、量刑を軽くすることも可能かもしれない。それでも終身刑がせいぜいだろうけれど」
「聞こえないのかな? カゲヒラくん」
 うなじを撫でるような甘い声だった。
 目を見開いてしまう。檻の中の男はうっそりとほほ笑んでいる。
「影片みかくん、でしょう? あは、そんなに驚かれると私も嬉しくなっちゃうな」
ひとまずここまで!
ありがとうございました!
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