団地に帰ると、ふわりと甘い香りが漂ってきていた。水木少年はふんふんと鼻をひくつかせる。どうやらその甘い香りはこれから行こうといていた田中家から漂うようだった。
「ただいま」
田中家に一度帰る事が最近の習慣になりつつある水木はそう言って見慣れたドアを開ける。まるでこの家の本当の息子かのように振る舞う水木を、一緒に帰ってきた本当の息子である鬼太郎も、家の中で何かを作っているらしい鬼太郎の父も取り立てて何か言うことも無かった。
キッチンから鼻歌が聞える。どこかで聴いたことのあるようなそれを水木は明確には思い出せない。何だろうなと考えながら、水木は自分の家と全く同じ間取りのその家の洗面所へ向かった。外から帰ったら手洗いうがい。母から小さい時よりずっと言われ続けた習慣だった。
「父さん、ただいま帰りました」
エプロン姿の父に鬼太郎が声をかける。洗面台は水木が使っているので、鬼太郎はキッチンのシンクで手洗いうがいをすませ、父の作っている何かを横から覗き込む。父は何か茶色い物体をボウルの中でヘラを使って掻き混ぜていた。
「チョコレートですか?」
「ブラウニーを作っておるぞ」
「あ、今日、バレンタインデーですか」
親子がそうやって静かに会話しているところに水木が手洗いをすませてやってくる。確かにカレンダーを確認すれば、今日は2月14日。どおりで小学校で女子どもがそわそわしていたわけだ、と水木は合点がいった。
「バレンタインデーって女子がチョコくれる日じゃ無いのか?」
何でゲゲ郎がブラウニー作ってるんだ? と言外に問いかけた水木を振り返ったゲゲ郎は小さく「おかえり」と微笑む。そのまま型に入れたチョコの生地を温めておいたオーブンに入れて、ブラウニーを焼きはじめた。じっとオーブンの中を見てもまだ生地は膨れては来なかった。煌々と赤いオーブンは見ているだけでも温まる。
「バレンタインデーは愛する者が居る人間が愛する者にチョコを渡す日じゃ。性別は関係ないんじゃぞ?」
自慢げな声音で話すゲゲ郎の様子に、水木はむっと唇を引き結ぶ。思いつく言葉をつい、恨みがましく発してしまっていたかもしれない。
「それもゲゲ郎の相棒からの受け売り?」
すねたような声を出す水木にゲゲ郎が顔を上げる。もう後はオーブンがブラウニーを焼き上げてくれるのを待つだけだ。エプロンを外し、対面キッチンの中から出て水木に近付いてきていた。
「水木はわしがあやつの話をするのは嫌いか?」
「だって、ゲゲ郎はその相棒のこと大事にしてるけど、一度も会いに来たことねぇじゃん」
「あぁ・・・・・・」
ゲゲ郎の話の中にはいつだってゲゲ郎の『相棒』の名前が出てくる。しかし、水木はこの田中一家が越してきてからというもの、その『相棒』がゲゲ郎に会いに来た場面を見たことが無かった。それなのに、水木は『相棒』の教えた料理をゲゲ郎に作ってもらい、『相棒』から聞いた言葉をゲゲ郎から教えられる。それがなんだか妙に癪に障るのだった。
「あの男は、先に逝ってしまったからのぉ」
「いくって・・・・・・」
どこに? と訊こうとしたところで水木少年はハッとした。その遠くを見るような視線はまるで故人を語るかのような遠い視線だったから。
「ごめん。そっか。ゲゲ郎、寂しいな」
悪い、と素直に謝る水木の頭をゲゲ郎の大きな手がぐしゃぐしゃっと撫でる。いつの間にか近くに来ていた鬼太郎が、水木の片手をぎゅっと握っていた。その手は、どちらもひんやりと冷たい。
「今は水木がわしの相棒じゃ。鬼太郎の相棒でもあってもらいたいが」
ぐじゃぐじゃと髪を掻き混ぜられても水木は文句を言わない。ただじっとゲゲ郎を見上げ、それから手を握ってきた鬼太郎を振り向いた。
「鬼太郎も、ゲゲ郎も、俺の相棒だよ。俺の方がずっとゲゲ郎より年下だし、鬼太郎と同い年だから二人を置いてったりしない」
絶対だ。
そう言い切り、ぎゅっと鬼太郎の手を握り返す水木。その真剣な青い眼差しは鬼太郎とゲゲ郎を微笑ませ、ゲゲ郎は鬼太郎ごと水木を抱きしめた。
「水木はいつでもイケメンじゃのぉ」
キッチンでは静かにブラウニーが焼き上がっていく。その甘い香りが部屋一杯に広がる頃には、三人の小腹もすいてくる時間だったようだ。