この場所で暮らしたあひるの末路を知ってから、あのあひるとは話さなくなった。話をしようと思ってもその姿を見つけられない、と言うのが正しいのかもしれない。私から逃げているのか、あれほど追いかけてきていたのに全く姿を見かけないのだ。もしかしたら私が見ない間に男につれていかれてしまったのかと考えたが、男があひるを連れて出て行ったことも夜に扉の開く音がしたことも無かったので、それはありえないとどこか確信していた。
ここで育ったあひるには、羽をもがれるか、食用に加工されるか、どちらかの運命が待っている。外に出た男が教えてくれたのは、か弱いあひるでは抗うことのできない残酷な現実だった。人間の頃は牛や豚を飼育して食べていたけれど、まさか自分がそちら側になってしまうだなんて。あひるになった当初は微塵も考えていなかった。それこそ牛や豚ならまだ分かるが、あひるを食べるだなんてことはほとんど聞いたことが無かったから。かもなら、捌かれて鴨肉にされると思い至れたかもしれない。あひるなんて、あひるでは、そんなこと考え付かない。だからこそ、突き付けられた現実に怯えていた。
あのあひると話すことが出来ない間、私はこの先のことをずっと考えさせられていた。することもできることもない。話す相手がいなければ、自然と考え事が多くなった。
私はこのまま、殺されるだけを待つしかできないのだろうか。美しい毛並みを持つ私は、きっと毛をむしり取られることだろう。それが一体どんなことに使われるのか、枕や布団の羽毛に使用されるのだろうか、というところまでが想像できる範疇だ。それくらいしか使用用途は分からないが、この羽を使って何かをすることは出来ると想像することは出来てしまった。当然認めたくはないが、私はその運命からは抗えないのだ。美しいがゆえに。私のために争わないでとモテる女ぶっていたこともあったが、そんなことをしていた場合では無かったのだ。そうしていた間も、私の命の猶予は短くなっていた。
正直、このまま殺されるのを待っているのは癪だ。一度人間だった故に、のうのうと人間に殺されてしまうのはなんだか納得がいかない。私のお陰でどこかの誰かが安眠できるようになるのかもしれないけれど、そんなことは私の知ったこっちゃではない。
たとえ外にどれだけ残酷な現実が待っていようとも、私は外の世界が見たいのだ。元々は、こんな窮屈なあひる小屋にいたくないと思って決めた脱出だ。外に出たのはあのあひるだけで、私は出られてはいないのだ。あひるが言ったことが本当のことだとも限らない。私を脅かすためにそう言っただけなのかもしれない。
私はこの目で現実を見に行こう。その上で、逃れられない運命からさよならをするのだ。
そのためにも、私はもう一度、あのあひると話をする必要があった。あひる小屋を歩き回り、あの顔を探す。同じような顔に見えていたあひるも、今ではちゃんと見分けがつく。時には後ろ姿で判別をしながらあひるを掻き分け、そうしてようやく、彼を見つけたのだ。
一度立ち止まり、大きく深呼吸をする。つんつんと控えめに背中を叩くと、あひるはゆっくりと振り返った。ほんの数日顔を見ていないだけなのに、久しぶりだと感じたあひるの顔はやつれているようだった。ともにここで育った仲間の果てを知れば、当然のことだろう。あひるの心中を察しつつ、今は私が前に進むために立ち止まっている暇はない。くちばしでいつもの場所を差して見せた。小屋の奥、水桶のある場所だ。あひるはゆっくりと視線を奥に向けると、重たい体を持ち上げるように立ち上がった。差した方へ歩き出したあひるの後を追う。話は最小限に纏めるから、と心の中で彼に話しかけた。
目的地に着くと、あひるは「なに」と言わんばかりに首を傾けた。私はくちばしを水で濡らし、地面に言葉を綴る。
『わたしはここから出ようとおもう。だから、それを手伝ってほしい』
この作戦は、私一人では実行できない。あひるが脱走した時も、私が男の視線を逸らしたから成功することが出来たのだ。
『あなたから外でなにがおこなわれているかをきいても、わたしのいしはかわらない。ここでじっとそのときをまっているよりも、できることをしたいとおもった。だから、あなたにてつだってほしい。あのおとこの気をひいてほしい』
あひるは何度も私の顔を覗き込んでくる。まるで、本当かと私の本心を覗き込もうとしているようだった。落ち着かない様子で辺りをうろちょろした後、あひるもくちばしを濡らす。
『もしみつかったら殺されるかもしれないんだぞ。おれのときはうんよく殺されなかったけれど、あんたのときはどうなるかわからない。そんなきけんをおかしてまでそとにでるひつようはないはずだ』
『たしかにひつようはない。でも、ずっとここにいるのはいやだ。ここにいればうんと長生きができるかもしれない。もしかしたらじゅみょうがつきるまでいられるかもしれない。それでも、ずっとここにいるなんていやなの。おびえながらくらすのは、きっと、ずっと生きている心地がしないとおもうから。生きているうちにできることをしたい。わたしはあなたから外のはなしをきくまえから、外に出たいとおもっていた。あなたからはなしをきいても、おもいはかわってない』
『あんた、見つかったらどうなるかちゃんと分かっているのか。ちゃんとそうぞうしてみろ。つくえのうえにしばりつけられて、じぶんよりも大きなほうちょうがあしのつけねに入ってくるんだ。そのまま足を切りおとされて、ていこうするまもなくもうかたほうも切りおとされる。その時には一本目が切りおとされたいたみで、もう一本が切られるかんかくはないんだ。気づいたときにはりょうあしがなくなっている。にげるための足がなくなって、つぎに羽をもがれるんだ。一本ずつぬかれるのか、それとも皮をていねいにはぎとられるのかは分からない。どちらにしろ、ゆっくりとじぶんのからだのいちぶが、いちぶだったものにかわっていくんだ。どれだけさけんでもたすけなんてこない。死ぬまでずっとひとりだ。そこまで分かってて言っているのか』
『そこまではかんがえていない。そこまでかんがえるとこわいから。そんなこわいおもいをそうぞうするのもじっさいにたいかんするのも、そのときだけでいい。おびえてうごけなくなるのが、いちばんもったいない気がするの。わるいことはぜんぶ、そのときだけでいい。あなた人だったとき、ずっと死ぬのをおびえながら生きていたの? そんなことないでしょ、ずっとも死ぬことはかんがえてなかったでしょ。たまにはかんがえることはあっても、ずっとかんがえるなんて、ありえないわ。じかんのむだよ。そんなことをかんがえているひまがあったら、やりたいことをたくさんやるわ。それと同じよ。あひるになってもかわらない。やりたいことをただやるだけよ。あなたはおびえているかもしれないけれど、わたしはそうではないことを、おぼえていてちょうだい』
怯えてへっぴり腰になっているあひるに言いたいことを書けるだけ書き込んた私は、見せつけのように胸を張って見せた。びくびくと怯えているのがどれほど情けないのか、その身を持って体感するといい。たとえ私が殺されてしまったとしても、美しく勇敢なあひるがいたことを後世に伝えてもらおう。
『分かった。あんたがそこまでいうのならてつだうよ』
文字を書く前にため息をついて、若干呆れた風だったのが気に食わない。あひるを納得させることができないと私は前に進めないので、文句は言うまい。
『ありがとう。ついでにわたしのゆうしをこうせいに言い伝えてくれるとたすかる』
『まだなにもしていないだろう。けっこうはあしたでいいか?』
『できるだけはやいほうがいいから、あしたにしよう。あしたのおひる』
『わかった。けんとうをいのる』
そう言うとあひるは地面を二回つつくと、くちばしを掲げた。なにをしているのかと体を揺らしていると、『こぶしのかわり』と言われてしまった。こぶしのかわりと言われてもそれは口では。しかし他に代わりとなるものはない。まあでも、いいか。私はあひるに倣って、こぶしのかわりにくちばしを交わした。
ひとくぎり