この小屋に土の地面は存在しない。地面に書かれた「あ」の文字は、濡れたくちばしで書かれたものだった。一体誰がと考えたところで、すぐに消えてしまう文字を誰が書いたのかは分かりきっていた。先ほどまで喚くほど泣いていたあひるの声が聞こえない。もう半分ほど消えてしまった文字から視線を上げると、あひるは「ぐわぁ」と鳴いた。
私は慌てて水を探した。隅に置かれている水でくちばしを濡らして、床に文字を書く。
『もじがかけるの?』
水の調節がうまくいかず文字は滲んでしまったが、読めない文字ではない。初めて書いたにしては上出来だ。痛むくちばしを堪えながら、あひるの反応を確認する。あひるは黒い瞳で私をじっと見下ろし続けた後、「ぐわぐわ」と鳴きながら何度も頷いた。
『やっぱりそうだとおもったんだ』
あひるは慣れた風に地面に再び文字を書く。どうやら私のことをずっと気に掛けていたらしい。
彼の話を聞くに、私は元々小屋の隅で丸まっている控えめなあひるだったらしい。誰とも触れ合おうとしなかったあひるが突然泣き喚いたかと思うと、近くにいるあひるたちを追い掛け回し始めた。目の前のあひるも追いかけられたようで、その最中で私はあひるとしての意識を持ち始めたのだ。
『こういうことはよくある。きゅうにあばれだすときは、そのあとに、なかに人が入っていることがおおい』
『じゃあ、これまでもそういうことがあったの?』
『なんども。おれもそのうちの一人だよ』
『ほかには?』
そう言って、地面から周囲に顔を向ける。たくさんのあひるが暮らすあひる小屋の中で、中に人間が入っているあひるが一体どれほどいるのだろうか。あひるの話から推測すると、その数は数匹ではないように思う。改めて小屋にいるあひるに目を向けて、少ししてから視線を戻す。そろそろ書かれているだろう返事を求めて地面に目を向けると、そこにはまだ何も書かれていなかった。不思議に思いあひるを見るが、彼は静かに首を横に振った。まだ知るべきではないという意味なのだろうかと思い、私は追及しなかった。
『あんた、ここから出たがっていたよな。おれには、ここから出るためのさくせんがある。あんたがてつだってくれるなら、ここからだしてやれる。ただし、じょうけんがある』
『じょうけん?』
『あんたが出るまえに、さきにおれがそとに出してほしい』
文字を書く前に、体が反応してしまった。首を小刻みに何度も横に振って、飛んで行くかと思った。目が回りそうだ。
あひるの話に乗って、あひるが先に外に出て行ってしまった場合、私は置いてけぼりを食らってしまう。手伝うことで外に出られるということは、少なくとも二人──いや、ここでは二匹か──が必要ということなのだろう。あひるが先に出て行ってしまった場合、置いて行かれた私はどうやってここから出るというのだろうか。
『ただ、おれはおいていくことはしない。そとがどんなふうになっているかをしりたいんだ。それをかくにんできたら、おれはもどってくる。そのあとに、あんたをそとにつれていってやる』
『あなたがかえってくるというほしょうはないじゃない。すなおにだまされて、あなたのだっしゅつのてつだいをしろと?』
『そとがどうなっているかわからないじょうたいで、でていくのはきけんだとはおもわないか。おれをにえにするつもりでいてくれていい。おれがかえってこなかったら、つかまって死んだとおもってくれ。それくらい、そとはなにがあるかわからない』
『だっそうしただけでしんでしまうの? ここでたいせつにそだてられているのなら、だれかがみつけてつれもどすだけかもしれないじゃない』
『いるのはにんげんだけじゃない。あひるにとっては、ほかのどうぶつにそうぐうするだけで、いのちがあぶない。人のときとおなじだとおもうな』
あひるの言っていることは、一理ある話ばかりだった。少し小屋から出た時、ひんやりとした廊下だったからそこは屋内で、自然と安全だと思い込んでいた。もしかしたら屋内で動物が飼われているかもしれないし、もしそれが外国の豪邸で飼われているような大きな虎だったら、あひるの私はひとたまりもないだろう。人であったときは武装することが出来たが、今は戦うための武器を持つ腕が無い。くちばしで突くぐらいの攻撃では、相手にかゆいと思われるくらいだ。
戦うにはまだ慣れないあひるの今、もう少し危機感を持つことは大切なのかもしれない。
『わかった。あなたにはもうしわけないけれど、私のかわりにいちど、そとのようすみをしてもらうことにする』
『そのきもちでいい。じゃあ、さくせんをせつめいする』
あひるは、地面に文字を書き連ねて、その作戦を説明してくれた。
作戦はとても難しいことは無く、うまくいけば一発で成功できるようなものだった。やはり狙い目は、餌を与えに男がやってくる瞬間だった。扉が開いた瞬間に隙間からすり抜けるには、どうしても男の意識が扉周辺に向けられているため、強行突破は難しい。男の意識をあひる小屋の奥に向けることが出来れば、隙間を縫ってあひる小屋から出ても気づかれないはずだ。
そこで、それぞれ扉のすぐ近くとあひる小屋の一番奥で待機、扉が開いた瞬間に奥で待機していたあひるは鳴き喚いたり走り回ったりして、男の気を引かせる。その隙に扉近くで待機していたあひるが隙間から外に出るのだ。そうすることで男に気づかれないように外に抜け出すことが出来る。二匹が協力することで成せる作戦だ。
おそらく私よりも長くここにいるこのあひるがなにかを企んでいるのであれば、私はまんまとそれに引っかかってしまっているわけだが、先輩とも言えるこのあひるに私がどんな企みで引っかけようとも勝ち目はないだろう。きっと向こうの方がここのことをよく知っている。引っ掛けられたところで悔しいと思う気持ちは少ないだろう、と思ったのも、あひるの言葉に頷いた理由の一つだ。上手く脱走して帰ってこなかったとしても、その結果は分からない。脱走したのか、それとも死んでしまったのか。死んでしまったことにすれば騙されたとは思えない。いい勉強になったと思えばいいことだ。
作戦の決行を明日の昼と決め、それまでの時を待った。聞きたいことはたくさんあったが、怪しまれるかもしれないと言って、あひるは私にぐわぁぐわぁと鳴きながら追いかけたり、他のあひるに埋もれて眠ったりしていた。もうあれを普通のあひるだとは思えない。
決行の時が近づき、私は小屋の奥へ、あひるは扉の近くへ待機する。周囲のあひるたちはいつも通りのように見えるが、どこか私たちの作戦を知っているのではと思えてしまう。私の他に人としての意識のあるあひるがいたのだから、ほかのあひるもそう見えてならないのだ。
ぐわぐわぐわ、と合図が聞こえた。扉近くで待機しているあひるが、男の足音を察知したのだ。私は体を伸ばし、軽く準備体操をする。ぐわぐわ、と喉の調子も確認し、腹に力を込める。
そして、扉がゆっくりと開かれた。
男の姿が見える前に息を大きく吸い込み、「ぐわぁー!!」と鳴いて見せた。泥一つない美しい羽を広げて、辺りに風を起こす。近くにいたあひるが軽く吹き飛んでしまうほどの威力に私も驚いたが、力を緩めることなく何度も羽を大きく動かす。驚いたあひるたちはぐわっぐわっと鳴きながら羽を撒き散らして遠ざかっていく。
「おいおい、どうしたんだ」
あひる小屋に入った瞬間に男の視線が私に向けられたことに気づく。男はそのまま私まで歩み寄ると両手で抱え上げ、広げていた羽を閉じるよう優しく身体を撫でる。
「大人しくしないと、綺麗な羽が台無しだぞ」
撫でてくれる手を心地良く感じながら扉に目を向けると、あひるの小さな尻尾が扉の向こうへ隠れていったのが見えた。扉が閉まりきったのを確認してから、男に頭も撫でるよう擦り付けて催促した。
今日はおしまい