あひるになって数日が経ち、朝日が昇るのと同時に騒がしくなり出すあひるの声で目を覚ますのが当然になった。天井近くの壁につけられた横長の窓から外の明るさを確認する。小屋の外の下半分は茂みで覆われているため、普段の目線から外を伺い知ることは出来ない。ゆっくりと変わっていく空気を感じて、みんな鳴き始めるのだ。朝に弱い私は、みんなと同じように鳴くことが出来ない。少しでも私に人間だったころの性質が残っている気がして、悔しい気持ちにはならなかった。
 さて、いくら綺麗なあひるになれたと言っても、小屋で生活する私はその中でしか行動することが出来ない。犬みたいに散歩に連れて行ってもらうことも、牛みたいに放牧に草原に放たれることもない。わずかに外の空気を感じ取れるこの中が、あひるになった私の世界なのだ。いくらなんでも狭すぎる。世界の端が見えているではないか。こんなところにずっといたら、いつかストレスで白い毛が黒ずむかもしれない、抜け落ちてしまうかもしれない。それだけは勘弁願いたかった。なぜなら、あひるになって唯一「良かった」と思えたことなのだから。あひるであることを認められる価値なのだ。それが無くなってしまった時には、私はついに発狂してしまうかもしれない。
 太陽がおそらく真上に昇った頃、いつもの男が現れた。白い服に身を包んだ男は籠から注射器を取り出すと、一匹ずつ口に餌を流し込む。離乳食のような少しどろどろとした、ねこまんまのような餌だ。今日も変わらず美味しい。続々とあひるに餌を与える男から視線を逸らせば、出入り口の扉があった。この小屋から出るには、あの扉から出るほかない。男があひるに餌をやっている最中は、背中を向けていることが多い。ドアノブを回すことが出来れば、男の目を盗んで小屋から出ることが出来るだろう。問題は、その高さにある。いくら優れた跳躍力を持ったあひるだとしても、あのドアノブに届くことは不可能だろう。さらに、ドアノブを回して扉を開けることなど。どこをどう使ったとしても開けられやしない。せめて引き戸であってくれれば可能性はあっただろう。
 考えあぐねた私が出した結論は、強行突破だった。
 窓からの空気で昼の訪れを感じ取った私は、扉の前で待機した。壁に体を押し当てていると、その向こうから足音が近づいてくるのが感じ取れる。鍵を開ける音の後にガチャリと扉が開き、男が現れる。今だ! と、空いた扉の隙間を抜けようと突っ走ったのだ。思ったほど体は大きくないので、すり抜けるのは簡単だった。
「おっと、危ないな」
 だが、そう簡単に男が見逃してくれるはずが無かった。一目散に駆け出した私に気づいた男にひょいと持ち上げられ、その隙に扉は閉まってしまった。
「お前は美人だから、大人しくしていろな」
 毛並みを整える男の手は優しく、大きな手には安心感があった。
「ほうら、お前からご飯だぞ」
 言われて口を開けると、いつもと同じご飯を流し込んでくれる。その後も頭や背中を撫でられ、久しぶりに感じた人の温もりに浸っていた。あひるになってから人に触れられるのは初めてだった。撫でてほしいと思ったことは無いけれど、一度撫でられるとその手が癖になる。慣れているのか抱き方には安定感があり、力を抜いて体を預けることが出来る。男らしくごつごつとした手が羽の隙間に入り込んで直接肌を撫でたときは、白目をむいてしまいそうだった。
 下ろされた後も、体に男の手の感覚が残っている。人に撫でられる動物の気持ちを感じられたところで、本来の目的はそれではないことを思い出す。
 扉を開けることが出来るのは、あの男だけだ。となると男が出入りする瞬間を狙うのが一番早いのだが、男との距離が近くなるので、先ほどのように捕まえられてしまう。扉が開いた瞬間に男の気を引くことが出来ればいいのだが、この小屋には当然のことあひるしかいない。
 一体どうしたものかと小屋の隅で丸くなる。最近気づいたことなのだが、体を丸めると大変落ち着くのだ。眠る時と同じ体勢だから、安心感があるのかもしれない。ぐわぐわと鳴き喚くあひるの声も気にならなくなるほど、考えに集中できる。
 はてさて、どうやってここから抜け出して見せようか。ぐわぁぐわぁ。男の目を掻い潜って。ぐわぁぐわぁ。どうにか気を引くことが出来れば。ぐわぁぐわぁ。いいのだが。ぐわぁぐわぁ。
 前言撤回だ、集中できない。いつもならすっと自分の世界に入ることが出来るのに、どうも鳴き声が入り込んでくる。何事かと丸めていた体を伸ばした時、黒い瞳と目が合った。その瞬間、これまでで一番大きな鳴き声を浴びたのだ。
「ぐわぁ!」
 思わずくちばしで目の前のあひるの顔を徹底的に小突いた。あひるのくちばしはそんなに尖っていないので、怪我をすることは無いので手加減は必要ない。距離を取ることが出来た頃によくよく見れば、あの一回り大きな体をしたあひるだと気付いた。この間は私に求愛しているのだと思って空想を膨らませていたけれど、今はただただうるさいあひるでしかない。いくら意中の女だからといっても、声を掛けていい時と悪い時の判別は必要だ。これでは、好きな子にいたずらをしてしまう中学生と同じではないか。
 依然鳴き続けるあひるにうるさいと伝えようとしたところで、「ぐわぁ」と目の前のあひると同じようなことしかできない。自分の鳴き声が交じってうるさくなるだけだ。ここは、私が美しいあひるだということを思い出そう。こういう時、いい女は静かに去っていくものだ。余裕のある笑顔を浮かべて、髪をなびかせて去る、これに限るだろう。なびかせる髪は無いので、体を震わせて艶のある毛並みを見せびらかす。目の前のあひるに少しだけ視線を向けたあと、ふっと笑みを浮かべて──多分上手くは出来ていない気はするが──、その場から離れた。落ち着いて、しかし迅速に。聞こえなくなったあひるの鳴き声に安心したのも束の間、先ほどよりも大きな鳴き声に背中を押される。本当に一匹かと思われるほどの声量だ。
 あまりにもしつこい。しつこい男は嫌いだと──空想の中で──言ったはずだ。こういう時、世の美人はどうしているのだろう。このまま無視をするべきか一言言ってやるべきか悩んでいる間も、背後からはぐわぐわと途切れることない鳴き声が聞こえてくる。どれだけ集中しても脳が鳴き声に侵食されてしまう。
 ついに、自分は美しいという気持ちだけでは心の余裕を保てなくなり、これはこれからのこやつのためにも一言言ってやらねばならんと思い、振り返ってあひるを睨みつけた。そんなに騒がしくしていちゃ振り返る女も振り返らない──、そう喉まで言葉が出かかった時、視界に入ったのは久しく見ていないものだった。
 あひるは鳴くのをやめると、とんとんと地面を突く。そこにはたった一文字、「あ」と書かれていた。
【中】
今日はおしまい
カット
Latest / 62:21
カットモードOFF
文字サイズ
向き
チャットコメント通知