ほう、
と、日向がひとつ息を吐いた。
小張元少将の昔語りは御伽噺のようで、洒脱な客間をあかいろに彩る。もう、日が暮れている。
「当時は厳島の巫女だと思うていたが、今となっては、あれはもっと……」
そこで言葉を切ったが、三人が三人とも理解していた。
「巫女よりも、もっと、神に近い」
否、神そのもの
ひとではないものを身に宿す 尸童
すっ、と今度は少将が息を吸う。
「あの日以来、彼の女とは見えておらん。そして、時が経てば経つ程に、幾ら思い出そうとしても彼の女の顔が解らなくなった。少年のような女だったのだが……それさえ、何処かで」
見失う。
崩れていく女の記憶。
少将は、細く息を吐く。それは彼にとっても哀しいことだった。然し、其れは彼の女の意志でもあると思えば、受け入れる以外にない。
生きて帰っておいでと、
彼の時、たったひとり、そう言って呉れたひと。少将はすっと瞼を閉じた。
「……母御前でも、言うて呉れなんだ」
ぽつんと、こぼれた言葉は、声は。孤独の手触りが解るほどの。我知らず、瑞垣でさえ僅かに腰を上げていた。あまりに其れは、と……だが無論、彼よりずっと早く動く影がある。
日向の長い腕が、
少将が瞼を開いて、ひた、と日向を見据えた。
日向が差し出した手を、少将はきっぱりと断った。
それに従者は刺されたような貌をして、主人は寂しく笑った。
二人の短い遣り取りに、彼らの来し方が凝縮されていた。余人が関われるものではなかろうが、瑞垣は胸を衝かれ、紡ぐ言葉も見失う。
過ぎた時を巻き戻すのを辞めた少将は、切れ長の目に力を込めた。
いま語るべきは、と。
「彼の女が“在る”と云うたのだ。壇ノ浦に、彼の剣は在るのだろう」
間違いない。
其れには日向も、瑞垣も、浅く頷いた。まるで御伽草子のような話であっても、小張少将が信じるに足るだけのものがあった、ということだ。
正史には、壇ノ浦で失われた剣は二度と姿を現さないが、其処に神器が沈んだことは誰もが知っている。探す者も、頼朝だけではなく相応に居たはずだ。また鎌倉幕府が滅び、南北に朝廷が別れて争った時代には、また丹念に探されたに違いない。その後も何度も求められ、それでも姿を現さなかった幻の神器。
その女が語った落人としての平資盛は、琵琶弾きの娘と共に天叢雲剣を監視していたという。娘を失ってからはそれも辞めた。その資盛も人知れず死ぬ。壇ノ浦に沈んだ剣の在処を知る者はいなくなる……
だのに、それは“在る”のだ。
「待っている……のでしょうか、己の持ち主を」
ぽつりと、日向の声が、水面に広がる波紋のように。部屋の庭に面した半分は赤く、残りの半分は黒い。家令は黒に属し、瑞垣は赤に属している。
「さて……人が持つには能わぬと、彼の女は云うたが……そうであっても、本当に存在するとなれば、宮城の連中にとってはそのままにしてはおけぬだろう。だが、あそこが探しても今に至るまで見つかっておらなんだ。待っている、と云えるのやもしれん」
己を持つに相応しい相手を。
「ですが、」
そこで漸く、瑞垣は口を挟んだ。それならば、今の状況はなんとする?
此の上海にその宝剣が持ち込まれたという噂
「それが虚偽であるならば、いったい誰が、何の為に」
現状、皇室、政府、軍関係者、三方から望まれているレガリアだ。その存在を仄めかす噂でさえ、こうも此の上海をざわめかせている。
赤と黒に染め分けられた元少将は、自らの顎に指を掛け、眉根を寄せた。
「彼の女の言い分を信じれば、おいそれと動かせるものではないはずだ。それに、わざわざ此処(上海)に持ち込む理由がなかろう。何故、此処なのか……それを考えた方が早いな」
不意に、瑞垣は先達ての鳥獣戯画にまつわる事件を思い出す。彼の時、此の部屋で彼らから聞かされた別の物語。
モノと人の縁と、云ったか。
そこでつい、瑞垣が日向に目を向けると、黒衣の家令もこちらを認め、僅かに微笑んだ。
「ええ、これも……縁でございましょう」
「えにし?」
更に訝しげに聞き返す主人に、日向は落ち着いた声で応えた。
「旦那様は資盛殿の末でございますれば。その厳島の御仁のお話からすると、資盛殿は琵琶弾きの娘が身罷った際に言い交わしたはずです。必ず、来世での再会を」
自らを投げ出して神に命乞いをした男と、自らの命を贄に引き止めた女と。二世を契るに足る想いではないかと云う日向に、何故か少将は半信半疑の様子だ。
「……するか?」
「しますよ。したでしょう。するんです」
畳みかけてから、日向はひとつ咳払いをすると、主人ではなく瑞垣に語りかけた。
「縁がモノを呼び寄せることはよくあること。資盛殿と琵琶弾きの娘の契りから、資盛殿の末である旦那様と琵琶弾きの娘の縁が交われば、モノ……剣の縁も甦るやも知れません」
「えっ……」
瑞垣は思わず声を上げていた。
小張少将が平家に連なる武人として、厳島の巫女姫が此の上海にどうして繋がるのか? 一体、何処にその縁が、と聞き返そうとすると、少将は「嗚呼」と今度はしたり顔で頷いた。
「成る程、そうか。剣ではなく其方が先ということか」
「ええ、先ずはそちらでしょう。神器云々というのは、むしろその結果と見た方が妥当かと」
日向のその答えに、少将も瑞垣に真っ直ぐ目を向けた。えっ、と瑞垣の口から疑問符が漏れる。二人にひたと見据えられ、眼を動かすこともままならぬ。
「お前、心当たりはあるか?」
「恐らく身近にあるはずです、琵琶弾きの娘の縁が」
日向にはしかと断定されるが、まるで心当たりはない。何度も主従の整った顔を見比べるが、本当に思いつくアテはない。
「……私に?」
仕方なく問い返すが、そうだ、と少将は淡泊に肯定する。
「もし、人であれば……左右の瞳の色が違うはずです。人の場合、そうはっきりと色が異なる程ではないかもしれませんが、過去を見る目と未来を見る目