しんと冷えた空気は、まだ夜の名残が濃い。
しかし、既に春の盛りを迎えた今では、肌をなぜる風も柔らかかった。もう、若緑の葉も多くなった桜並木の下を、信一郎は黙ったまま歩いていた。
朝稽古の帰りであった。ひとくさり汗をかいたあとだが、心はむしろ萎えている。名残りの桜の花びらが、一枚、また一枚と降り注ぐのもかまわずに、彼は黙々と歩いていた。
心浮き立つ季節は、露西亜との開戦の予兆で不穏であった。
その筈なのに、妙に世論が明るいのも信一郎にとっては気に食わない。明らかに……おかしいのだ。国力の違いは明らかで、利益(メリット)も少ない。もっと他に取るべき道はあるはずだ。
なのに、もう開戦は既定路線として扱われている。
歯噛みする心持ちは、信一郎の歩みに現れていた。
花の色や香りを味わうでも無く、用水の流れを聞くでもなく。信一郎は脇目もふらず、一心に風を起こしそうな程の早足で歩いていたが、不意に、眼前で影が動いた。
犬猫の類ではない。風に揺れる枝葉でもない。目を眇めた信一郎の前に、鮮やかな桜色が差した。
「申し」
と、囁く声はくすぐったいような響きであった。
いつの間にか、桜並木の間に女が立って居る。
さらりとなびいた黒髪の隙間から、はっとするほど白い顔が覗いた。切れ長の瞳に、紅色の唇は微かに笑みをたたえている。
「学生さん?」
小首を傾げる様は、どこかあどけないほどで。結い上げていない髪も相まって、年の頃はよく判らない。信一郎は少し眉根を寄せた。
彼の警戒が伝わったか、女は今度こそ艶やかに微笑んだ。
「ごめんなさいね、急に声を掛けたりして。ちょっと難儀をしていたものだから」
そう言うと、女は自らの足を半歩、差し出す。桜色の裾、白い八掛より、更に白い脹ら脛がちらりと垣間見えるが、その足元の草履はふっつりと、鼻緒が切れている。
「嗚呼」
信一郎も漸く、息を吐いた。成る程、婦女子が出歩くには少し早い時分ではあるが、朝の早い商家もあろう。近所のつもりで出たところで鼻緒が損じれば、それは難儀だ。
それではと信一郎が手を貸そうとするが、生憎、鼻緒を挿げるような技は持ってはおらぬ。女の手を取ってはみたが、さてと思案していると、
「相済みませんが、負ぶって下さる? うちはすぐ近くですの」
と、女はやはり笑うのだった。
桜並木を女を背負って歩く。
通い慣れた道ではあるが、女の重みと温みが妙に生々しく、信一郎も己が歩みが何やらぎこちなく感じた。奇妙な高揚があった。少し、風も出てきたようで、降ってくる花弁も増えたような。
女はしきりに謝ってはいたが、学生とは云え、見も知らぬ若造に身を預けるとは肝が太い。
「学生さんも、随分とお早いのね」
「……朝稽古が」
「あら、熱心でいらっしゃる」
まろく響く女の声が、耳元で聞こえた。ひとくさり、話をしたように思うが、女は名乗らなかった。信一郎も特になにも、
何も。
桜並木はまだ続いていた。
「本当にごめんなさいね、もう近いわ」
そう繰り返す女に、曖昧に頷いた。少し、背に掛かる重みが増したような気がして、信一郎は微かに力を入れると、不意に頭上をかすめる風が。
「……カラス?」
薄紅の花びらを縫うように、黒い羽が。
うすべに、の。
桜?
おかしい。
と、信一郎は唐突に気付く。桜が、満開になっている。先程、並木に差し掛かった頃には、花は盛りを過ぎていたはずだ。新緑が刺さるほどだったのに。
今ではもう、桜並木は満開の、たわわに花をつけているではないか!
顔を向ければ、正面に満開の桜が延々と続いている。
終わりは何処だ?
その刹那、背中がずしりと重くなった。
耳にかかる女の息が荒い。幽かに、かすかに生臭いような臭いが、する。背に縋る女の腕は、妙に太くなった感覚さえ。
「申し」
今度は信一郎が誰何する番であった。
しかし女は応えなかった。
「お宅は……もう近いのですか?」
それでも、再び問うた。信じたかった。
その背に負っているのは、女か、鬼か。
このまま、振り返らずにいれば、それは未だ女であるかもしらぬ。
然し、振り返った瞬間に、女は鬼に変じるのではないか。
そこで、信一郎もとうとう気付く。
女が鬼に成ったのではない。
男が、女を鬼に為るのだ。
だから、男は女を振り返る。
鬼が居た。
髪はとぐろを巻くようにうねっていた。肩に食い込む指の爪も、回された腕(かいな)も人のものでは既になかった。金の眼から血が滴っている。紅い唇から覗く舌は割れていた。
何より、その額には、角が。
ひとには終ぞ有り得ないものが。
間違いなく、それは鬼だった。
轟々と、風が鳴っている。
満開の桜が渦を巻くように散っている。世界が薄紅の花びらで閉ざされるほど。信一郎は必死に目を開けようとするが、花びらと風が邪魔をする。
そうして鬼はその太い両手を伸ばし、信一郎の首を摑んだ。人の子には有り得ぬ万力で締め上げる。息が詰まった。
信一郎は鬼を振り払おうと身を反すが、どうと倒れた。鬼は馬乗りになり、更に首を絞めてくる。息が出来ぬ。
残った力で丸太のような鬼の腕を摑むと、信一郎は鬼の目をのぞき込む。
鬼の目に苦悶する己が映っていた。
金色の眼から溢れる血は、一体なんの血だろうか。
「お主、悲しいのか」
知らず、信一郎は呟いていた。
女が鬼に堕ちたのではなく、男が女を鬼に為たのであれば。
女は何の為に鬼に成ったのか?
「……待っていたのか?」
否、信じていたのか。
いつか、男の真が得られると。
哀れな、とは云えぬ。安易な憐憫は意味も無い。信一郎は再び、鬼の眼差しを正面から受け止める。
鬼は泣いていた。
「すまぬ。それでも……おれはお主と一緒には行けぬ」
おまえの男ではないから。
別の誰かが待っているから。
そう言って、信一郎は微笑んだ。