若利くんが夏生まれだと聞いたとき、あぁ、なるほど、と思った。
春の柔らかな光でもなく、秋の暮れていく光でもなく、もちろん、冬の乾きくすんだ光でもない。夏の、突き抜ける空に輝く緑の葉とそれを透かす木漏れ日。目をすがめたくなるほど強烈な夏の光。それこそが最強の男、牛島若利には似合うと思ったんだ。
ただ、東京の夏はいただけない。あまりにも暑すぎるし、何より湿気がうざったい。折角作ったホールケーキも保冷剤を大量に入れてやっと持ち歩ける程度だ。せめてもの救いは、移動中の電車内が寒すぎるほど冷房が効いていたからケーキが悪くなる不安は解消されたけれど。
「誕生日おめでトー!」
4号のホールケーキを手土産に、事前に聞いていた若利くんの寮に突撃する。寮と言っても、白鳥沢とは異なり、普通のアパートを寮として貸し出しているだけの大学寮は突撃訪問がしやすかった。
白鳥沢を卒業してから、俺たちは東京に出てきていた。しかし、若利くんは大学の学生寮に、俺は都内の狭いシェアハウスに住んでいたし、何より秋の留学に向けて俺は猛勉強をしていたので、直接会うのは卒業式ぶりだった。
でも、約4ヶ月ぶりのマブダチとの直接の再会に薄い玄関ドアを開けたままポカンとしていた若利くんが、最初に動き始めた時の言葉が「ありがとう」だったのは予想通りだった。
8月13日。
お盆ど真ん中なその日は、寮に若利くんが居ることもリサーチ済みだ。だから、お手製のホールケーキを持参して簡素なアパートに突撃訪問したのである。
ミンミンと蝉が背後で鳴く中、部屋の中からはひんやりとした冷房の風がすぅっと足下を這い出てきていた。顔と足下の温度差に逆に額に汗が浮かんだ。
「とりあえず、部屋入れテ? ケーキ、溶ける」
「あぁ、そうか、悪い」
小さな部屋の小さな入り口を完全に塞いでいた巨体をずらして若利くんは俺が中に入るスペースを空けてくる。そこから益々室内の冷たい空気が外に漏れ出て少し生き返った心持ちだ。若利くんとドアの僅かな隙間をスルリと通り抜けて、俺はズカズカ上がり込む。初めて来たのに勝手知ったる、と言う気持ちになるのはなぜだろう?
予想通りの簡素な作りの屋内に、飾りっ気のない家具が並んでいる。床に敷いてあるヨガマットのような物の周りに置かれているトレーニング用品が唯一ここに人が住んでいる雰囲気を醸し出している。それがなければ引っ越し前のモデルルームのようだ。
小さなキッチンスペースに一人暮らし用の小さな冷蔵庫がちょこんと置かれていた。玄関の鍵を閉めてきた若利くんをくるりと振り向く。
「ケーキ、冷蔵庫に入れちゃって良い?」
「構わない」
4号のホールケーキが入るかと少し心配だったが、どうやら杞憂だった様だ。開けた冷蔵庫はほとんど物が入っていない。ドアポケットに牛乳やスポーツドリンクが並んでいるが、肝心な棚の方には余り物が入っておらず、ケーキを入れた箱がすんなりと中央に入れることが出来ていた。
「若利くん、あんまり自炊してない?」
「近々、海外遠征試合があるので片付けた」
「マジか。活躍してンね?」
「ありがとう」
何でも無いことのようにお礼を言う若利くんを及川辺りが今ここで見たりしたら「嫌味な奴だな!」と評価するかもしれない。けど、活躍してるのは事実だし、もうバレーをしていない俺にとっては、マブダチが仙台から東京に活躍の場を移しても活躍し続けている事実はただただ誇らしいだけだ。会えなかった4ヶ月。若利くんもきっと、彼らしく真摯に努力を続けていた証だろう。
「外の空気でぬるくなっちゃったからちょっと冷やしてからケーキ食べヨ?」
「解った」
昼ご飯の時間にはもう遅い。ただ、おやつの時間にはまだ早い時間だ。しばらく会っていなかった時を埋めるように世間話でもすれば良いだろう。話したいことは山ほどある。ヨガマットの中央に座れば、若利くんも俺の向かいに片膝を立てて座った。半ズボンの裾から見える引き締まった腿と膝。たった4ヶ月でも見違えるように成長している。きっと、高校の時以上に筋肉を付けたのだろう。ということは、高校時代よりももっとずっと美しい跳躍が出来るようになっている。
「天童は、今どこに住んでいるんだ?」
「方南町って駅、解る?」
「地下鉄だろうか?」
「とりあえず杉並区」
ここらへん、とスマホで地図アプリを見せると、若利くんが「あまり遠くないな」と現在地の点滅を見ながら納得する。このくらいの距離だと解ったからこそケーキなんぞ作ってきたのだ。苦学生であまり豪華なデコレーションケーキを買えそうに無かったという理由もあるけれど。
「こんなに近いならもっと前に会いに行けば良かった」
「あ。なら、今度うちのシェアハウスでパーティーするから来なヨ。いろんな国籍の人居るし楽しーヨ!」
都内での生活にシェアハウスを選んだのは家賃を抑える事や1年に満たない短期間で退去するだろうという理由もあったが、様々な国籍の友人が欲しかったのもある。高校では学ばなかったフランス語を少しでも流暢に話したい。話せなければ渡仏なんて無謀すぎると解っていたからこそ、外国籍入居OKな今のシェアハウスに住むことを決めていた。おかげでドミトリールームで一緒のネマニとは主にフランス語で会話をしていた。
「そういうパーティーはよくやるのか?」
「入居者の出入りが激しいからネ。出る人と入る人が決まったらやるンだヨ」
「誰か退去するのか?」
スルリと問われた言葉に、あ、と思った。そのまま「あ~……」と天井を見上げる。言うかどうか悩んで、しかし、マブダチに嘘をつくこともはぐらかすことも違うと思った。
「退去ね、すンの……俺」
「天童が?」
パチパチッと何度か若利くんが瞬きをした。その素早い動きを見ながら、俺は「よし」と心の中で決心をしていた。俺もパチパチッと素早い瞬きをする。それから、カッと目を見開いた。
「俺ね? フランス行くンだ。向こうのガッコ入るヨ」
思い切って言った一言に若利くんは「そうか」と静かに頷く。
フランスの製菓学校に受かった。秋から始まる新学期に向けて、この夏の終わりかそのちょっと前には日本を発つ。進路を気にしてくれていた明くんと、お金を出してくれる両親には進路の話をしたけど、その他の人には今までフランス行きを話していない。もちろん、マブダチの若利くんにも。今までは。
海外遠征をしている若利くんならきっと解るはずだ。フランスがどれだけ遠くてどれだけ日本と違うところか。そこに俺は単身、飛び込むと決めた。
しばらくの沈黙。エアコンの動作音と壁掛け時計の秒針の音。それから俺がふぅっと吐いた長い吐息。簡素な部屋の中に微かな音だけが広がる。
その長い沈黙の中で数回、若利くんがゆっくりと瞬きをしていた。窓からの夏の日差しがその精悍な顔を明るく照らせば、彼の前髪と眉が緑に輝くようだった。
「天童は、何になるんだ?」
さらさらとエアコンの風でたなびくレースのカーテンが若利くんの顔に影を作る。
「ショコラティエ。チョコレート作る人だヨ」
俺が少し動くと、その影も若利くんの顔に少しだけかかった。
「ケーキでは無いのか?」
「時々ケーキも作るカモだけど、チョコ」
白鳥沢を卒業してから、同じ東京に居ながら俺は若利くんに会う機会が無かった。一度会う機会を逃してしまえば、気軽に会えなくなるのだから不思議な物だ。しかも、会ってしまったらフランス行きが叶わないような奇妙な直感まで沸きあがったのだから本当に奇妙だ。だから、今まで会わなかった。本当に忙しくもあったけれど。
そうして思い出した。若利くんが夏生まれであること。誕生日くらい祝おうかな、と思えるくらいに余裕が出てきた頃に。つまり、俺のフランス行きが確定した時。思った。いや、決心していた。夏に若利くんに「さよなら」を言う。君の生まれた季節に、僕は、この国を後にする。そう、決心していた。
「だから今日のケーキもチョコケーキにしたヨ」
「そうか、ありがとう」
若利くんが、ふわりと微笑む。彼の使う「ありがとう」という言葉はいつでも奥が深くて温かい。その言葉だけでどんな感情も表してしまうのだから便利な物だ。まぁ、それを汲み取れない人も居るのかもしれないけど。今の俺は若利くんの深い「ありがとう」とその自然な微笑みを胸に刻んでいた。
そろそろ冷えただろうか? と冷蔵庫を覗き込む。ぬるくなっていた箱の表面はすっかり冷え、溶けかけていた茶色いクリームは元通りのしゃっきりとした形に戻っていた。
「どうやッテ食べる? このままフォークぶっさして食べるのも豪気で良いと思うケド」
「そんな食べ方はしたことが無いな」
「じゃぁ、やろう!」
ホールケーキを折りたたみ式のローテーブルの上に載せて互いの間に置く。若利くんが出してくれたフォークだけをそれぞれ持って、取り皿も用意せずにそのままホールケーキにフォークをぶっさす事に決めた。さすがに俺もそんなホールケーキの食べ方は初めてだ。
「では、このケーキは俺の誕生日と天童の合格祝いを兼ねてということなんだな」
おめでとう、と続けざまに言われて、ハッとする。自分では全くそんなつもりは無かったが、もしかしたらそうしたいと思って作ったのかもしれない。大都会で活躍を続けていそうなマブダチの誕生日を祝いたかった気持ちも嘘ではない。けれど、それをチョコレートケーキにしたのは自分への祝福の意味も無意識に含んでいたのかもしれなかった。
「素敵な誕生日だ。ありがとう」
いただきます、と行儀良く手を合わせるにもかかわらず、その後、若利くんは遠慮も何もなくフォークをホールケーキ中央にぶっさす。そして、そのままざくざくと半分に円を切ると、手前側から大まかに切り分け、大きな口でもぐもぐとケーキを頬張っていた。
「美味い」
「マジ? やっぱ、結構上手くいったと思ったンだよネ~?」
俺も遅ればせながら自分の手前側の半円にフォークをぶっさす。若利くんほどの大口は開けられなさそうなので、食べやすい大きさに切ったケーキを口に運ぶ。チョコクリームが口の中でとろけ、ふわふわのスポンジも甘い香りを口内に広げた。
「俺、天才?」
「天才だな」
褒めて、と促せば若利くんは何のてらいも無く俺を褒めてくれた。それだけそのケーキを気に入ってくれたのだろう。美味い美味いと見る見る間に平らげてしまう様はいかにも壮観だ。クリームが頬に付いても気にしないその食べっぷり。夏生まれの人間のパワーを感じられる光景。この豪快な食べ方にして良かったとほくそ笑む。
なんだか、フランスでの生活も上手くいくような気がしていた。
「すぐは無理だと思うけど、いつかフランスに遊びに来てヨ」
「もちろんだ」
「時間が合ったらまたこうやってケーキ焼くヨ」
「楽しみだな」
少し長い離別になるのかもしれないけれど。それでもきっと俺たちの関係は変わらない。今日だってこんなにも昔と同じように会えるのだから。フランスで若利くんに会うときは、やっぱりこういう夏が良い。木漏れ日が美しい明るい夏の日差しの中、どこまでもまっすぐなこの人と再会したい。
だから。
俺たちは、さよならを言う代わりに、またネ、とハグを交わした。