学校という閉じられた空間には何かと眉唾な噂が流れる物である。
例えば、4時44分奥から4番目の4階のトイレにはトイレの花子さんがいるとか。音楽室の肖像画が夜には一斉に歌い出すとか。11月22日に二号棟の屋上のフェンスに恋人と二人でおそろいの南京錠をかけると永遠の恋になるとか。
そういった真実とは思えなさそうな噂でも、時には試してみたくなる物もあるのが人間というやつで。
天童覚は一つの噂を耳にしていた。卒業式前日の午前零時、白鳥沢学園本館の多目的教室の黒板から海岸線が見える。それを見た者はあり得ない願い事が一つだけ叶うというものだった。
ラッキーなことに、白鳥沢学園は全寮制である。寮と校舎もそんなに遠くは離れていない。消灯時の点呼さえ上手くかいくぐれば、午前零時に校舎に忍び込むことはできそうであった。
ただ、寮の規則を破ってまで深夜の校舎に忍び込む者はめったにいない。それこそ、よっぽどの願いがない者はそんなリスクは負わないだろう。
しかし、天童には叶えたい願いがあった。それは、自分の努力だけではどうにもならない類いの願いであったから。
まずは点呼の問題である。白鳥沢男子寮の点呼は午後9時。点呼が終ると、全ての出入り口に施錠される。その点呼を過ぎるやむを得ない用事がある者(実家に帰っており帰りが遅くなるとか)以外はその後、出入りはできなくなっている。もちろん、出入り口には警備員が配置され、申請した者のみが帰寮を許される。午後9時以降の外出なんてもっての外だ。
しかし、実はこれには抜け道が一つある。それは窓である。各部屋の窓の鍵は何時だろうが開いている。高3になると全生徒が一人部屋になるので、同室者がうっかり窓の鍵を閉めてしまって戻れなくなることもない。
ただ、その次の問題は窓の高さなのであった。天童の寮室は3階である。2階であればもしかしたら上り下りすることも可能だったかもしれないが、3階なのである。いくら古典的にロープやら引き裂いたシーツをつなげた物やら使っても簡単に上り下りできる物では無い。
そこで天童が目を付けたのが、同じフロアの最奥の部屋。そこは実は無人部屋となっていて、寮生がいない。そして、その角部屋からならば近くに生えている木に飛び移ることが可能なのである。身長の低い人間なら難しい距離であるが、なんと言っても、天童は180cmを優に超える長身なのである。目一杯に手足を伸ばせば、角の部屋からすぐそばに生える木まで飛び移ることができていた。
さて、次の問題である。
いくら寮と校舎が近いからと言って、同じ敷地内というわけではない。校舎のある区間は夜間は校門が閉じられ、高い塀に囲まれている。ついでに言えば、校舎自体も施錠されているのである。
ここでも天童の目に止まったのは、大きな樹木だ。杜の都仙台にあるだけあり、樹木が多く植えられている白鳥沢学園校内だ。ぐるりと塀に沿って歩いてみれば、塀から大きく枝をはみ出させた木の1本や2本はある物である。その木を活用し、天童は校舎の塀を乗り越え、そして、本校舎の脇にまで辿り着くことができていた。
時間は午後11時。まだ少し余裕がありそうだった。
そこから先の行動に関しては、実は、日中から天童は用意をしていた。本校舎1階の隅の男子トイレ。そこの窓の鍵をこっそり開けて置いていたのである。まさかトイレの中まで窓の施錠の確認をしないのだろう。そもそも、そんなところの鍵を開ける生徒がほとんどいないのだ。教員や警備員もそこまで確認しないのが常なのかもしれない。日中に開けて置いたそこが、まだ開いたままなのを確認したとき、天童は自身の計画が成功するだろう事にほくそ笑んだ。
トイレの小さな窓から本校舎に忍び込む。夜の学校、しかもトイレという所はかなり薄気味が悪かったが、気にしないことにして多目的教室を目指す。
本校社の多目的教室は、三つある。噂はその三つの内のどの教室なのかは示していないが、三つの教室は隣接しているのだ。三つ程度なら端から見て回っても午前零時を過ぎてしまう事は無さそうだろう。
時刻は11時半。まず、一番東側の多目的教室に入る。教卓の方の黒板にも、その反対側の黒板にも、何の変化も無い。時間が経つと何かかるのかもしれないが、とりあえず、天童は次の教室を見ることにした。
真ん中の教室は東側の教室よりも少し大きい。教卓側の黒板とその反対の黒板の間には蛇腹のカーテンがあり、しかも、それが閉められていたため、教卓側のドアと後方のドアをそれぞれ開けて黒板を確認する必要があった。しかも、後方の黒板には布のカーテンが掛かっており、それを開かなくては黒板がどうなっているか見えない。薄暗がりの中、期待に胸を躍らされながら開いた薄い布のカーテンの先。真っ黒な黒板は。ただの黒板でしかなかった。
最も西側にある多目的教室。そこに来たとき、もう既に午前零時が迫ろうとしていた。想像していたよりも時間のかかってしまった確認作業に、少しだけ天童の気が焦る。
中央の多目的教室とほど同じ作りの西側の教室は、やはり、教卓側は何もなかった。しかし、後方の黒板。そのカーテンをそぉっと開いたとき、思わず天童は息を飲んでいた。
確かにそこにハッキリと海岸線が描かれていたのである。それから、登り来る太陽と『卒業おめでとう』の文字。
天童は思わずあっけにとられていた。
それはきっと、教員の誰かが描いた物なのだろう。明日に控えた卒業式のため、前日にこうやって精密に描き、そして、カーテンで厳重に隠していたのだ。
噂という物は、蓋を開けてしまえばこんな物なのである。ここまでリスクを負ってやって来たが、なんと、あっけない幕引きだっただろうか?
「天童?」
しかし、こんな所にいるはずのない人物の声を聴き、天童は1mほど飛び上がった。
ピカッとライトに照らされる。
「わ、わかとしくん! 何でこんな所に?」
「天童がこっそりと寮を抜け出したらしいと聞いて追いかけてきた」
「寮長には?」
「このことを知っているのは瀬見と俺だけだ」
「良かったぁ……」
「何でこんな所に……?」
ホッとしたところで、ピピピッと小さく天童のスマホが鳴った。午前零時だ。どうやら、願い事は叶えられそうにない。
「とにかく帰ろう。寮長に見つからないうちに」
「ゴメン、若利くん。心配かけて」
「全くだ。卒業式前日に寮を抜け出すなんて、そのまま雲隠れでもするんじゃないかと瀬見が危惧していた」
「んなことしねぇよ」
「よかった」
帰ろう、と片手を出してくれたのを、天童は思わず握り返してしまう。
「天童が、雲隠れしないでくれて、良かった」
ふっと笑った牛島の笑顔を見て、もしかして、と願い事を思い出す。
「俺、若利くんと両思いになりたくてこんなことしたんだけど、もしかして、願い、叶ってる?」
そうかもな、と答えた牛島の後ろ姿を、天童は忘れないことだろう。
カット
Latest / 69:14
カットモードOFF