昼休みの廊下。
ふと気が付くと、窓に赤ん坊が腰かけていた。
「き゜ゃーーーーーーーーーーーーーー!!!!」という感じの声なき声を上げていたら目を見開いた幼馴染と目が遭ったのが数分前。
とにかく保護しなければいけないと、抱え上げて駆けだしたのが数秒前。
忘れられがちな運動神経をいかんなく発揮し、鳴宮湊は弓道場の裏手へと来ていた。
少々離れたそこへたどり着くのは本来それなりに時間がかかることのはずなのだが、これてしまった。人間の可能性に感謝であり、申し訳なくもあり。
新春、をとうに通り過ぎ、そろそろ暑さが体を焦がす中、肩を激しく上下させる。
「っは…はあ…」
眼下に広がる光景。
腕の中にいるのは、ちょうど2カ月程度の赤ん坊だった。
美しい、黒と青を混ぜた髪に、ふにゃふにゃとしたどこを触っても柔らかいからだ。
首もまだ座っていないながら、その瞳にはすでに理知の光が宿っている。
それは、見知った人と酷似した姿。
そして、見知った人とは全く違う姿。
その背中から映えるのは異形の触腕。
その目に宿るのは、星と月。
闇夜と八ツ星と月、それをまろやかな|祝福と呪い《白》で包んだ、柔らかい幼子の姿。
自分が愛し、この世に一人と定めた運命。
師匠兼世界で一番愛おしい恋人(なお返事は保留(され)中)。
その赤ん坊の姿をした、世界を侵略する怪物が、この世界に現れた。
だけど、その瞳から、目をそらさなかった。
反らせなかった、が一番正しいだろうが、そこに自分の意思がなかったとは言い切れない。
その瞳が、その丸い瞳が、その目の中に宿る月が、恐ろしくなかったと言われれば、そりゃあ嘘になるかもしれないけど。
それでも、その瞳が、蒼さが、匂い立つすべてが。
愛おしいくらい、叫びだしたくなるくらい、自分のいとおしい人だと、それと同じだと、理解してしまえたので。
なので、鳴宮湊にできることは、静かにだけど確かに、ぎゅうっとそのやわこい体を断じて何があっても決して潰さないようにと、抱きしめることだけだったのだ。
それはそれとして。
「ま、マサさん、どうしてここに…?」
【んう…わかんねえ…おれ、きづいたらここに…】
あ、これ嘘だな。
と、心のどこかがつぶやいた。
どうしてそう思ったのかはてんでわからないが、嘘ということだけが分かった。
だけれどそれはともかくとして。
「まあ、そっか…じゃあ、帰る方法ってわかってるの?わかんないんだったらすごく困るんだけど…。」
【いや、わかるよ。わかるけど…あの、湊?】
「うん、なあに?」
【…なんでそんなぷにぷにしてくるの…?】
「いや、だって…ねえ?」
【ねえ、じゃないんだよなあ。】
そう言いながらも、彼が逃げる様子はない。
知っている。その触腕が、どれだけ強く世界を打ち据えるのか。
知っている。彼の小さな体が、どれだけ簡単に世界をゆがめるのか。
|見たことがないのに知っている《・・・・・・・・・・・・・・・・》。
そして、|それを恐れたことは、一度としてない《・・・・・・・・・ ・・・・・・・・》。
なので、彼がいまここで逃げないのは、ただ単純に嫌がってないのだと湊は判断したのである。
まあ最も、ただ単純に自分が弱すぎて下手に動けないだけとかありそうだが。
それにはまあ、目をつむっておこうと思う。うん。
なぜここに来たのかはわからないが、帰る手段はあり。
もちもちぷにぷにしても、なお、逃げるなどの気配はなし。
と、すると。
つまり、これは。
「…」
右見て。左見て。上見て下見て後ろ見て前見る。
そんでもってもいっちょ右左。
―――異常なし。
つまり。
いや、まて。その前に。
「…マサ…キさん。」
【は、はい。】
「…ちょっとだけさわって、いい?」
【み、みなと、めぇこわい…】
ごめんなさい。
でも、ちょっと。
願望が目の前で叶いそう、なので。
一寸辛抱たまらんというか、なんというかかんというか。
【…いい、よ。】
「うん。」
【いや、うんじゃなくて…はぁ。
…いいよ。みなと。さわって?】
身をくねらせるように。
その、ふくふくぷにぷにとした手を、そっと自分の手に重ねられた。
一応赤ん坊の姿であるというのに、信じられないくらいに色っぽい仕草だった。
だけど顔は赤くて、そういう姿に、思わず心がぎゅうッとなって。
「失礼しますっ!」
【うおおおおっ?!】
気が付いたら、そのお腹に顔をうずめていた。
うわ、無臭だ。
というか、嗅いだことのない匂いだった。
海水と薬草のような、だけどなにかこう、不快ではない臭い。
どこか遠くで嗅いだような、だけどどこでもないような。
そんな、懐かしいような香りが、風のようにふわりと鼻孔を包み込んだ。
フシギだ。しいて言うなら無臭と言える。だが不思議と、悪くない。
そして言うまでもないかもしれないが、そのぷにぷにもちもちの体ときたら本当にたまらない!
生後弐か月というのは、実のところそこまで肉付きが善いわけではない。
だが、目の前の彼ときたらそんなの知らんこっちゃとばっかりに、どこもかしこもムニムニなのだ。ちょうどいい肉加減。ちぎりパンって感じではないが、んむんむするのにちょうどいい塩梅である。
何よりも、服装がかわいい。
夏服なのだろう。前に見た薄ピンクの物ではなく、半袖半ズボンのように整えられた水色。
と、ちょっとの丈だというのにかわいらしくリボンまであしらわれている太もも丈の靴下。
正直に言おう。
世界一かわいい。
どうひいき目に見てもこの人が世界で一番かわいい。
親バカと言われる方々の気持ちが今分かった。
こんなの、世界中通り越して”””全て”””に自慢しないと気が済まない。
「はあああ…♡カワイイ…♡」
【んむう…おまえきょうなんかきゃらちがくないか…?】
「いや…だっていつもは触れないし…もちもちもしにくいし…♡」
【…いつもさわってるだろ?】
「確かにおれもさわってるけどさあ…」
でも、こうして直接物理世界で触れるとなると話が違ってくるのだ。
いつもは何というか、夢で覗き見ているような気持ちで、感覚もどことなく透明な壁を隔てたかのような心地だし。
っていうかいつもフィードバック返してきやがらないしな、|おれ《・・》。
そういうわけで。
「ああ~…もちもちだ…カワイイ…」
【はいはい。きもちい?】
「うん…♡きもちい…♡はぁ~~~いつもはちょっとマサさんの前だともちもちしにくいから…」
「そうか。気持ちいいか?」
「うん…♡はあ…かわいい…うん?」
あれ?
いまなんかかっこの種類が違ったな?
そしてなんか、頭上から、のような気が…?
背筋を、汗が伝い落ちるのを感じた。
「マサさん、違うんですよこれは。」
「はい。何が違うんだろうな、ちょっと聞いていいか?」
「浮気ではないんだ。なぜならこの人もマサさんだから」
「はい。」
「ただちょっとだけいつもとフニフニもちもちぷにぷにの種類が違うだけっていうか、おれはマサさんの胸のもちもちも大好きっていうか、それでもこのマサさんのフニフニも大好きっていうか。」
「はい。」
「ーーーところでなんでこんなところにいるんでしょうか。」
表を上げれば、部活動にはまだまだ高い日。
と、それをバッグに微笑む、自分の世界で一番愛おしい人の姿。
逆行で姿が見えにくいが、なんとなくわかる。
あ、やばい。
目、笑ってない。
【いうまでもないだろ。こいつ、かまってちゃんなんだから。】
「湊、そいつ貸してみ?」
「いやです。」
|副音声が聞こえた気がして、湊はぎゅうっと懐のいのちを抱きしめた。
ついでに、にやりとゆがんだ口角をぷにっとほほをつかむことでやめさせる。
目の前の人の目は、それはそれはもうさえわたっていて、なんというか冬の海だった。
いつかどこかで見たことのある。世界中を殺そうとする人の笑みに酷似している気がする。
恐怖。
おそらくここに、常人の男子高校生がいたならば、失神さえ不可避だろう。
実際ちょっと怖すぎてシニソウ。
だが鳴宮湊はもう知っている。
この人は、たかだか自分一人に好かれないだけで、世界中ぶっ壊してやろうだなんて本気で考える、本当に本当に|面倒くさい《カワイイ》人なのだと。
なお|後半部分のは惚れた弱みだが前半部分は|純然たる《ただの》事実である。
―――ということなので、早急にこの修羅場を解消しない限り、鳴宮湊とこの世界に深刻なダメージはまぬがれえぬう!
何より、懐の”いのち”が大変に大変な目に合う。それは望まない。絶対にだ。
だって鳴宮湊は欲張りなのだ。
愛する人ならば、どんな存在であろうと欲しい。
その幸福と、出来れば「ここにいていいのだ」なんて言う、実に当たり前の感触が。
というわけで、世界の命運はこの肩に託された!
とはいえども、実は攻略法は簡単で。
依然通りすがりの誰かに聞いた、とっておきの方法があるのだ。
それは―――…
「マサさん。」
「なんだ?湊。」
「ん…おいで!」
「【えっ。】」
ば、と両手…ではなく、右腕を広げた。
むろん、左手は|彼を抱きかかえたままだ。
出来ればこちらから駆け寄って抱きしめられればいいのだろうけれども、たとえ2,3歩ですらないとしても左手の|いのち《・・・》を抱きしめたまま駆け寄れるだけの子育て的経験値ステータスは湊にはない。よしんば取り落とすなんて想像するだけでおぞましい。
と、いうことで広げるだけにとどめたわけだが、それだけでもおそらく目の前の人(と懐のいのち)には十二分だったらしい。
少なくとも、目の前の人には。
「――――――――…。」
押し黙るように。
もしくは、息をのむように、その目が見開かれる。
ざ、と足音の砂利を踏む音がする。|前ではなく、|後ろ《・・》に。
それを見て。
ああ、やっぱり。
聞いた通りだ。
と思った。
かつて、誰かに聞いた言葉が脳の後ろにリフレインする。
「あいつは、人に甘やかされそうになると、逃げ出すんだよ。」
少なくとも俺はそれで5000兆回逃げられたゾ☆というおどけた笑顔を抜きにして、それでもその言葉に嘘はないのだろう。
そしてそれは、自分でさえも例外ではない。
この人は、愛を手向けられようとすると、逃げ出そうとする。
それが、たとえ|鳴宮湊であろうとも。
自分が目の前の特別な人だと信じて疑わないスタイルは、我ながら笑ってしまいそうになるくらいに傲慢で強欲だけど。
それでも、それを疑いたくない。
この人の唯一絶対、特別な感情のうちの一つは、絶対絶対おれがいい。
告白を何千回もフられておいて、何を言うんだろうと脳の隅で誰かが笑うけれど。
それでもいい。
それでもいいので、おれが特別がいいのだ。
と、言うことで。
「ん!」
「――――…」
静かに。
もう一度主張した腕を見ながら、もう一度足が後ろに行きそうになる。
分かっていたけど、涙が出そうになる。
のを、静かに。
何かが止めた。
「あ…」
それは、左手に抱えていた体温だった。
小さな、動かすことすらためらわれるような細っこい腕足が、そっと自分の腕を抱きしめている。
背中からは2対の触腕が同じように巻き付いて、同じく腕を抱きしめている。
そっと、縋るように、もしくは落ちないようにしているよと示すように回された腕は、柔らかくて、静かで、だけどそこに体温はない。
ただ、ぬくもりだけがある。
物理法則に左右されない。そんな暖かさ。
そんな赤子の視線が、目の前の青年に語り掛けている。
【…おれがうばっちゃうけど、いいの?】と。
そう言いながら自分の腕に体を寄せる動きは、『未成熟な|肉体』など戯言でしかないと一掃するような淫靡さで。
思わずごくりと唾をのんだ。
おかしいな?健全なことしかされてないのに、すさまじい喉の渇きを覚える。
というか間違いなくエッチな意図もある。やめてください、男子高校生には刺激が強すぎます!
確かに童貞はもう卒業してるけど!
目線をやれない分、腕を軽く揺すって抗議の意を示すと、くすくすと微笑のように彼の体が揺れた。ような気がした。
そしてそれは、目の前の人にも抜群の効き目を奏したようで。
「―――ほぅ?」
どこかで聞いたような、感嘆のため息のような声。
ただしその声も瞳もすべてが冷たく、おぞましいくらい、黒々しい。
輝かしい星空も、美しい月も、すべてが隠れた朔の日を思わせる。
冷たい目は、しかし湊のことを見ていない。
懐の、|赤ん坊だけを見つめている。
のが。
自業自得半分とはいえ無性に、気にくわなかったので。
「マサさん!」
「えっ、あ」
「こっち!」
夜を切り裂くように声を上げた。
もう一度、バッと広げた腕を強調するようにして、呼びかけた。
見開く目に向かって、もう一度。
今度は、しっかりと目を見て。
逆光であることも相まって難しいことだったが、
此処で仕留めねばあとはないぞと、どこかの誰かがささやいていた。
タイムラグは、数舜。
セミが鳴くには寒く、鳥が鳴くには暑いこの気候は、誰も鳴かない無音である。
むろん、人の影もない。
此処には誰もいない。
自分たち以外には。
見渡して、それを確認したのだろう。
目の前の、自分よりよほど年を重ねていて、それでも。
それでも、まるで迷子のように目をすがめた青年は、そっとこちらへ身をかがめた。
足元は一歩も動かない。それでも頭がぎりぎり湊の膝に届くのが、何とも口惜しいというか、悔しい。
それほどの恵まれた体格差をもってしてもなお、迷子の子供のように思えるのは、なぜだろうか。
左手の赤ん坊が、呆れたように息を吐いた。
ような、気がした。
「湊、そういえば昼休みどこ行ってたの?」
「え゜っ、あ、っちょっと………怪物懐柔に…?」
「は?」