夕暮れの風が少し暖かくなってきている。3月も中盤になれば、東北宮城と言えども少しくらい春めいて、梅が咲き、桜の開花の気配に人々が浮き足立ち始める。
そういう時期に、白鳥沢学園寮はにわかに賑やかになり始めるのだ。
それは、退寮であったり、来年度の新入生の見学であったり。中学寮からの引っ越しもある。去る者のノスタルジックと来る者の希望が入り交じるこの時期。まだ芝生の生えそろわない寮の出入り口を様々な年齢の学生たちが、もしくは、保護者が行き交う。
そんな慌ただしい人の中を、天童覚はジャージにパーカーという身軽な姿でのらりくらりと歩いていた。
「わっかとしく~ん!」
彼は、既に卒業後は都内の専門学校に進学することが決定している。なので、同じく、都内の大学進学を決めている牛島若利の部屋に度々訪れ、相も変わらずジャンプを貸し借りしたり、牛島の退寮準備の邪魔をしたりする余裕があるのだ。一方、練習試合や進学先の大学の合宿などが重なり、ギリギリまで退寮のための準備ができていなかった牛島は、その日もあくせくと部屋の片付けをしていたのである。
「なンか、手伝うことある?」
「いや」
「いらない物、またメ○カリで売ったげヨっか?」
「いや。もうない」
「ソ?」
まるで邪魔をしているかのような天童を、しかし、牛島は追い払おうともしない。通りがかりで見かねた瀬見が一度「邪魔なら邪魔って言った方が良いぞ?」とアドバイスしていたが、どうやら邪魔ではないらしい。
「天童が、いるとなぜか片付けが捗る気がするんだ」
「ホントか~?」
それなら良いけど、と瀬見は自分の部屋に戻っていく。そういうときに限って、天童は何も言わない。ただ、そのきょろりとした白目を巡らせて瀬見と牛島のやりとりを静かに見ていた。
牛島は何事もなかったかのように、また、荷物を段ボールに詰める作業に戻る。4つにする予定の段ボールの2つめをその時、彼は詰め込んでいた。
「若利くんは、東京で一人暮らし?」
そうやって天童が牛島に声をかけても、彼の手が止まることはない。代わりに、静かに牛島は「いや、また大学の寮に入る」とだけ答えていた。
「ジャ~、寂しくないネ?」
天童は視線もやらない牛島の様子を気にもとめない。ただ、部屋のあちこちを眺め、ベッドに我が物顔で腰掛け、脚をぶらぶらとさせていた。その指先には、もう昔あったテーピングは無くなっている。
「……天童は、寮ではないのか?」
チラリと天童の指先を見た牛島が一つの疑問を口にしていた。やっと、2つめの段ボールが満杯になる。残りの2つに何を入れようかと牛島は部屋を見回していた。
「んっとネェ。半年したら渡仏すっから、家賃中途半端になっちゃうジャン? だから、シェアハウス住むんだ」
「シェアハウス……?」
聞き慣れない単語に、さすがに牛島の手が止まり、視線が上がる。
「一軒家とかに5人くらい他人が集まって住むんだよ。長屋みたいな感じ? 場所によるけど、ほとんどが風呂トイレリビング共用みたいな」
「賑やかそうだな」
「掃除がメンドーって言ってた」
白鳥沢寮は主に、共用部分の掃除は業者が行っていた。だから、生徒たちは自分たちの部屋を掃除するだけで良かったのだ。しかし、シェアハウスという物は違う。共用部分も含め、住む者たちが順繰りに掃除をしたりゴミ捨てをしたりする物らしい。
「そうか。天童は、いつでも俺の知らないことに挑戦するな」
ふわりと、仙台の風が薫った。かすかに香るのは梅の香り。それは寮の裏庭に咲く真っ赤な梅の木だった。カーテンがパタパタと揺れる。
「東京は、もう暖かいのカナ?」
「この前、大学の合宿に行ったときはこちらよりは暖かかったぞ」
「ソッカ……」
同じ東京といえども、牛島と天童はお互いにどのあたりに行くのかを知らない。牛島の寮に関しては調べれば解るのだろうが、どうしても天童はあえてそれを調べる気になれなかった。
「俺、家とかガッコの人と、仲良く……デキっかな?」
天童には過去、友人というものが上手くできなかった経験がある。それを牛島は全く知らない。また、天童も牛島が天童ほどに仲の良い友人が天童と会うまで居なかったことを知らない。
「大丈夫だろう」
しかし、牛島は言い切る。3つめの段ボールは練習着類を詰め込むことにしていた。そこには、白鳥沢で使用していたユニフォームもある。
「天童なら、大丈夫だ」
天童の真っ赤な瞳をまっすぐに見つめ、そして、オリーブグリーンの瞳に金の光を潜ませて、言い切る。天童なら大丈夫だ、と。
「なんか、若利くんに言われると無敵! って感じすンね!」
「そうか?」
「ありがと」
「……どういたしまして?」
「よくわかってねぇンかい!」
ぎゃはは、とはじけたように笑う天童の鼻が弾むように膨らむ。それから、くしゅんと大きなくしゃみを一つ。もしかしたらカーテンを揺らす梅の香りの風が強すぎたのかもしれなかった。
「ソだ。俺、若利くんに言ってネェこと、もう一つあるんだけど?」
天童が急にそう言い出すと、意外なことに牛島も「そうか。俺もだ」と相づちを打っていた。そのことに天童は軽く目を見開く。
「え? 若利くんもあるの? じゃぁ、せぇの! で言う?」
「いいぞ」
「「せぇの!」」
「若利くん大好き!」「天童のことが好きだ」
重なった言葉に、天童は「あれ?」と。牛島は「ん?」と聞き返していた。大きく言い切られた天童の言葉にかき消されて牛島の言葉がよく聞こえなかったのかもしれなかった。
「いま、若利くん、俺のこと好きッつッた?」
「言ったな。天童も俺のことが好きだと言った」
「好き、じゃないヨ。大好き」
「そうか、すまん」
その時、あさってな部分に関して謝罪する牛島の滑稽さを天童はとくに取り沙汰し無かった。それより、せぇの! の後に互いが言った言葉の意味の方が彼らにとっては重要だったからだ。
「俺の好きってサ、チューしたいとかお付き合いしたいの『好き』だけど、若利くんは?」
「そうだな。同じ意味だ」
「マジ!?」
あはは! と天童の明るい笑い声が響く、それは開け放たれた窓からもしかしたら風に乗って外にまで響いていたかもしれない。
「じゃぁ、告白記念にチューして良い?」
「そうだな」
いままで部屋の隅で作業をしていた牛島が、すっくりと立ち上がる。そうして、天童との距離を詰め、静かに天童をみおろした。
すっと静かに天童のまぶたが落ちる。そうか、キスをするときは目をつむるのだなと牛島もそれにならい、まぶたを閉じてそっと天童の唇に自分の唇を寄せた。
ちゅ。
小さなリップ音。
遠くから人々の喧噪が聞こえていた。隣の部屋では何か荷物を持ち出す賑やかな物音。
いつも騒がしいはずの天童の周りが、その時ばかりは音が消えてしまったようであった。
「キス、しちゃったネ?」
「嫌か?」
「若利くんは?」
「またしたい」
「いまは駄目だヨ」
また今度ね、と微笑む天童の表情を、牛島は初めて見るもののようにぼんやりと眺めていた。そのいかにも惚けた様子を、天童がまた笑う。暖かくなり始めた宮城の風のような笑顔だった。
それをしっかりと目に焼き付けた牛島は、また箱詰め作業に取りかかっていた。
「あと、天童。東京のどこに行くか教えろ。時間を合わせてデートでもするぞ」
そして、3つめの段ボールを詰め終わった牛島は言い切る。
「わぉ。若利くん、急に積極的じゃん!」
「駄目か?」
「すげぇ好き!」
仙台から遠い東京に行こうとも、もしくは、もっと遠いどこかに行こうとも。
きっと、彼らはこの一瞬を忘れないことだろう。