2019年。天童覚が渡仏してから6年と少し。そのくらいの年月が経つと、それなりに彼の仕事の自由もきくようになってくることだろう。
ヨーロッパにはメーデーというやつと、終戦記念日というやつがあって、それが祝日だったりする。それが日本のゴールデンウィークというやつに近いこと、そこで天童の恋人である牛島若利が出場する黒鷲旗という大会があることに気付いた天童は、早速、上司に休暇のお伺いを立てることにした。
それが確か、3月の半ばくらいのことだっただろうか?
『Monsieur、5月1日から8日まで休んでもいいカナ?』
『おう。休め休め。そもそも1日も8日も祝日だろ? 日本でも帰るのか?』
『うん。ソー』
大事な人に会いに行くんだ。
そっと微笑む天童の彼らしくない様子に、しかし、上司である髭モジャのマルコーは苦虫を噛み潰したような表情になる。
『俺ら芸術家にはAimerは大事だが、あんまり腑抜けになって帰ってくるなよ?』
天童が専門学校を卒業して4年。天童はほとんどの時間をコンペと修行に費やしてきた。もちろん、日本などに帰る暇などないくらいに懸命に。その月日のほとんどを見てきたマルコーはある意味、師匠のような存在でもある。だから、いつもは不敵にしか笑わない天童が、恋人の話をする時だけ穏やかに微笑むのを見て心配になってしまったのだろう。今まで、遠距離恋愛をしていてもそれらしくない冷めた態度をとっていた天童が、しかし、急に日本などに帰ってしまって変な里心がついてしまわないだろうか? と。
だが、そんな師匠の心配をつゆ知らず。
天童はきょろりと視線を巡らせ、それから、いつも通りの不遜にも見える笑みでマルコーの薄くなり始めた後頭部を見下ろしていた。
『わかってるヨ。俺が誰だと思ってンの?』
その表情は、マルコーの店に突然『頼もー!』と入ってきた時と全く同じであったのだ。マルコーのショコラに一目惚れして弟子になりたいのだと言ってきた正にその時と同じ瞳。
『そうだな、サトリ。いいインスピレーションを貰ってくることだな』
『トーゼン!』
何よりも、その年は、牛島若利の日本国内で最後の黒鷲旗になるだろうと言われていたから。
日本でのバレーボールの知名度は海外に比べてなぜか低い。だから、一流選手になればなるほど、彼らは海外リーグに移籍してしまうのだ。
高校卒業と共に帰化した及川、大学卒業を待っていた牛島よりも一足先に海外リーグに移っていた影山。それに続き、牛島若利もまた、2019年の終わりを待たずに海外リーグへの移籍を決めていた。
だから、その年の黒鷲旗、日本国内バレーボールリーグの総決戦とも言われるその、大阪で行われる大会に牛島が出場するのがきっと、その年の5月が最後であると言われていたのだ。
「最後の年も有終の美で飾りたい」
「たい、っていうより、飾る、ってつもりなンでショ? 若利くん」
「もちろんだ」
休みが取れた報告を兼ねて通話した際、牛島は相変わらずの不遜にも聞こえ応答ですぐにそう答えていた。
「じゃぁ、俺、応援に行くからなんかイー感じの宿とっといてヨ?」
「わかった」
大学での一人暮らし、それから、社会人となってからの2年弱。その間に牛島もなかなかに世間慣れしてきたようであった。それを天童が実感したのは、牛島の選んだ大阪での宿がこぢんまりとした、しかし、綺麗に整えられた程良いサイズの1軒屋丸々貸しという物件だったのを目の当たりにしたときであった。
「イー感じジャン?」
「キッチンが広く、リビングが広いのがいいところだ」
「確かに、若利くんは好きに筋トレできっし、俺は好きにキッチン使えンね?」
そうだな、と低く呟く牛島は、先にこの宿に来ていた。そのため、もう既にリビングにはいくつかの筋トレグッズが並べられ、冷蔵庫には牛乳やキャベツなどのいくつかの食材が綺麗に収められていた。もちろん、牛島お気に入りのプロテインもカウンターの上に鎮座していた。
しかも、その1軒家の場所も悪くない。繁華街からは遠く、しかし、試合のある丸善インテックアリーナ大阪へのアクセスはいい。関空からも1度の乗り換えで来ることが出来たそこは、国際線に乗ってやや疲れ気味の天童にもありがたい立地であった。
おかげで、ロングフライト後の疲れも酷くなく、明日の試合から見に行けそうである。
「折角ならグループ戦から見たいからネ」
「五色のチームも出ているしな」
「お~! ちゅとむ、元気?」
「元気そうだな」
「そりゃ見応えありそーだ!」
そうやって、久々の天童と牛島の逢瀬は小さな1軒家で始まったのだった。
黒鷲旗は5月1日から6日まで行われる。前半3日間は各グループの中での総当たり戦による順位決定戦だ。そこで勝ち抜いた8チームが決勝リーグへの進出となる。ここで黒鷲旗の面白いところは、社会人チームだけでなく、大学チームもグループに含まれ、意外とリーグ戦まで勝ち残るということだろう。有名大学に進学していた牛島は数年前までは大学チームに在籍し、リーグ戦上位までチームを導いていた。
もちろん、前半の3日間よりも、後半のリーグ戦の方が試合のレベルも勝ち上がることの難しさも格段に違う。何より、リーグ戦。一度負けてしまえば次の試合はない。
有終の美を飾る、と宣言していた牛島でさえ、ピリピリとした雰囲気を醸し出し始めたのも無理はなかったことだろう。
そんなとき、恋人であり、二人きりで1軒家に宿を取っている天童は一つの名案に思い至った。
折角だから、と家の面積に比べるとやや大きめなバスタブにたっぷりの湯を張り、そうして、そこに鮮やかな緑の細長い葉を浮かべたのだ。
その日は、5月5日。決勝戦前日の夜でもあり、そして、日本では「こどもの日」でもあるのだ。だから、いわゆる菖蒲湯というやつをやろう、と天童が思いついたのだった。
「折角こんなデカいバスタブなんだから一緒に入ろ~ヨ?」
普通のバスタあブであれば、天童と牛島の二人が同時に入ることはなかなかに難しい。しかし、その家のバスタブはゆったりと作られ、長身の二人が向かい合って脚を伸ばしても端にぶつからずにすむほどであったのだ。ならば、恋人同士である彼らが共に入らないわけがない。にもかかわらず、1日からの4日間、彼らはあえて別々に入浴していたのだ。
「若利くん、菖蒲湯の由来って知ってる?」
さっさと身体を洗い終えた天童が、湯船の中から牛島に問いかける。天童に遅れて洗体を済ませた牛島が、その長い足を湯船の中にぼちゃりと入れれば、ざっぱりと湯が縁から溢れていった。
「子供が健康に強く育つようにというおまじないなのだろう?」
湯が溢れるのも気にせずに牛島がその身体を深く湯船に沈める。流れ出る湯の勢いに任せて流れ出してしまいそうだった菖蒲の葉を、天童はさっと拾い上げていた。
「そーそ! だから、若利くんが明日も強くあれますヨーに!」
そうして、お湯でふやけるということを知らないまっすぐなその緑の葉を、天童はペチペチと牛島の身体のあちこちに打ち付けていく。
「悪霊、たいさーん! 明日も頑張れー!」
神社の神主のお祓いか何かのようにそうやって菖蒲の葉を振る天童を見て、思わず牛島はクスリと笑っていた。
「なんだそのおまじないは」
「え? やンなかった? 俺ンち、俺がちっちぇ時、菖蒲湯入るとばあちゃんがこうやってお祓いしてくれたヨ?」
「やらないな」
「へ~?」
「だが、いい香りだ」
「でショ?」
ぺちぺち、と天童の持つ菖蒲の葉先が牛島の左肩を優しく撫でる。その先を牛島が掴むと、天童は興味を失ったかのように菖蒲の葉を手放していた。
「ずっと若利くんのチーム、見てたけど、いいチームだよね。強い」
そうして、くるりと背を向けて牛島の胸に背をもたせかける。あまり熱くしなかった湯の中で、牛島の他人よりも少し高いぬくもりが天童の背に伝わった。
「そうだな。離れがたい」
「ナニナニ? センチメンタル?」
ぐるりと斜め後ろを振り向く天童の視線の先で、牛島はなんとも言いがたい表情を浮かべていた。その、洗い立ての前髪からぽたぽたと小さなしずくが頬に落ちる。
「……そうかもしれない」
零れるようにそう呟く牛島の神妙さとは裏腹に、天童はからかうように「素直ジャン?」と笑った。
「俺はいつでも素直だ」
「俺と違ッテ?」
「そうかもな」
「言うようになったネェ? 若利くん」
「俺も誕生日が来れば25だ」
「うん。俺も」
俺の方が先におにーさんになっちゃうネェ?
いつだって天童の言葉は牛島を少しからかうようで。いや、天童という男はいつだって他人をどこか少しからかいながら生きているところがある。けれど、それを打ち破るのがいつだって牛島若利の仕事だった。
ぎゅっと、そのまま天童を背後から抱きしめる。突然の、そして、今まで全く無かった素肌同士の触れ合いに、もう子供ではない天童の鼓動が跳ねたのも仕方のないことだろう。
「リーグ中は、えっちしネェんじゃなかったの?」
「しない。抱きしめているだけだ」
「勃っちゃうンですケド……?」
「そうだな」
いまだけは。
天童の肩口に埋められた牛島の唇が小さくそう呟く。センチメンタルと緊張と高揚と喜びともしかしたら今後の海外に飛び出す恐怖と。そんな物を全部一緒に天童の薄い身体と共に抱きしめて。
子供の時から長く住んでいた宮城も、大学生になってからずっと住んでいる東京も離れて、遠いワルシャワの地に飛ぶ予定の未来を見据えながら。
「明日も勝つぞ」
ざっぱりと湯船から立ち上がる美しい肢体の男を見上げ、天童はにんやりと彼らしい笑みで愛する男を見上げていた。
「トーゼン!」
ゆるりと勃ち上がる互いのモノに気付きながらも、それを慰め合うのは試合が終ってからだとわかっているから。
いまだけは、まだ、マブダチの距離で。
そのまま浴室から出て行く牛島に習い、天童もそこを後にする。湯船に浮かばせていた菖蒲の葉だけ拾い上げて。もう不要だろう残り少ない湯船の中の湯は栓を抜いて流してしまった。
先にバスタオルで身体を拭いていた牛島が、脱衣所に来た天童をチラリと見やり「明日以降は容赦しない」と小さく宣言する。それは、きっと、明日当たるチームへの「容赦」ではなく。
「試合に勝ったら考えてやんヨ」
俺はツエー男にしか抱かれてやンねぇから。
宣言した天童は、さっさともう一枚のバスタオルを引き出し、その身体に巻いてリビングへと向かう。小さな脱衣所で二人で身体を拭けるほど彼らは小さくないから。
でも、お互いに知っている。その距離が拒絶でないことを。
そう。
離れた距離は、互いへの強さへの、信頼。