「レインコートって持ってたっけ?」
 夕食後、ソファで寝転びながらさほど見る気もないテレビを見ていると寝室の方からドブの声が聞こえた。振り返ると半端に開かれた扉の向こうから、クローゼットを開く音が聞こえる。あったけど、と言いながら寝室を覗くと、ドブはさっきまで着ていた部屋着ではなく、黒のトレーナーとパンツに着替えていた。
 クローゼットの前まで行き、端に掛けていた黄色のハードシェルを取り出す。昨年、弟と山に行った際に使用して以来一度も袖を通していない。自分のものなのでドブの体型に合うとは思わなかったが、どうしても雨具が必要ならば着られない事もないだろう。レインウェアも衣装ケースの奥にあるのだが、通気性の良い夏物のそれは今の時期には寒い。
 ドブは俺が取り出したハードシェルを一瞥すると「派手だな」と言った。すぐにクローゼットの方に向き直る。
「雨降んなら傘でいいじゃん。てか今から出るのか」
「うん」
 男はクローゼットに掛かっている服を一通り見た後、まあいつものでいいかと呟いた。リビングに戻ると「今夜の金曜ロードショーは、千と千尋の神隠し」という女性の声がテレビから聞こえ、聞き覚えのある歌が流れだす。目まぐるしく画面が切り替わるアニメーションのCMを見て、玄関に向かっていたドブは「千と千尋だ」と言って振り返り、テレビのリモコンを取った。手早く操作して録画予約のボタンを押す。
「好きなの?」
「ん?」
「千と千尋」
「まあまあ。ジブリだとラピュタが一番だな」
 ドブはリモコンを置く。俺はふうんと適当に頷きつつ、そういえば弟もジブリだとラピュタが一番好きだったなと思いだした。幼いころは家に会ったラピュタのビデオをデッキに入れてよく観ていた。弟はシータを救出してから空中海賊の船に乗り、竜の巣を抜けてラピュタに辿り着く場面が好きで、よくテープを巻き戻しては繰り返し観ていた。
 弟とは出所後も度々会っていたのだが、一番最近だとつい先週に会っていた。引っ越して以降なんだかんだと双方の都合がつかず会えていなかったのが、先週ようやく土曜日に休みが取れたからと弟が言い、久しぶりに一緒に服を見るなどした。その際、隠しておくわけにもいかず引っ越したことを告げると案の定弟は新しい部屋に訪れたいと言った。部屋が散らかっているから今はダメだと断っても、じゃあ一緒に片付けるといってきかない弟に、土曜の午後の喫茶店でコーヒーを飲みつつ俺はついにドブが部屋に居ることを話してしまったのだった。
「ドブ? なんで?」
「暴対法で部屋を借りるのも難儀してるっていうから、その間だけ部屋の一部を貸してんの」
「兄ちゃんが?」
「他に行くとこないんだと」
 俺がそう言うと弟は嘘だと言って怪訝な顔で俺を見た。そして、ならば猶更部屋に行き、ドブに一言言いたいと言ってきた。
「あいつソファに寝かせてるし、ほんとにまだ荷解き済んでないし散らかってて、人を呼べる状況じゃねえんだよ」
「じゃあドブにやらせたらいいだろ。暴対法がとか言うんなら、どうせ暇してるんだろうし」
「あいつはあいつで仕事してて」
「え、なんの」
「前世話していたチェーン店のマネージャーだと」
「……犯罪じゃないよな」
「違うって。大丈夫だから」
 ドブが世話している店を聞かれ、俺は以前ドブが電話口で出していた店の名前を教えた。弟はそれをメモし、しぶしぶと言った様子で部屋に来るのを諦めた。
「近いうちに会わせろよな」
 喫茶店を出て駅に向かう道中、弟はそう言って俺を見た。ああ、と応える俺から目を離さない。
「あいつも償ったわけだし、昔の事で、今、とやかく言うつもりはない。でも今度はないよ」
 改札を抜け駅に入る。俺と弟では方向が逆なので、ここで別れることになる。歩みを止めた弟は同じく立ち止った俺に向き直った。
「今度、今度兄ちゃんを巻き込んで何かやったら、俺は許さない。ドブも、兄ちゃんも許さないよ」
 弟は真剣な表情でまっすぐ俺を見てそう言った。そしてすぐにその表情を崩し、いつもの柔らかな顔で「また」と手を振っていた。
 廊下を覗くと黒のダウンジャケットを着てマスクをつけたドブがそのまま玄関の扉に手をかけるのが見えたので、俺はおいと言って傘を取った。
「雨降るんだろ?」
「え?」
「カッパがどうのって言ってたじゃん」
「ああ。傘は邪魔になるからなあ。まあ大したことねえよ」
 ドブはいつも履いているスニーカーをトントンと鳴らす。スニーカーの色も黒いため、全身黒ずくめだった。先ほどのレインコート云々は、例の古傷予報でかなりの雨量を予見したからではなかったのか。
「俺も出る」
「あ?」
 気が付くとそう言っていた。ドブは俺を見て一瞬言葉に詰まった様子だったが、すぐに「そうだな、手伝いが要るかもしれない」と言ってコートスタンドから俺の黒のコートを取った。
「カッパはいいや、多分大丈夫だろ」
 そう言って男は扉を開く。すぐに室内に冷たい空気が流れ込んだ。
 マンションを出た時にはてっきりタクシーを呼んでいるものだと思っていたが、ドブは駅まで歩いて現金で二人分の切符を買い、そのうちの一枚を渡してきた。二人で黙ってホームに行き、ちょうど来た電車に乗り込んだ。そういえば、電車に乗るドブを見るのは初めてかも知れなかった。
 車窓には黒の背景にうっすら車内の人たちが映り込み、夜の街の光が線となって流れていく。マスクをして大人しく俯いているおかげか、誰も俺の隣に座る男がドブだとは気づいていないようだった。目の前に座って目を瞑るサラリーマン風の男、その隣のスマホで何か入力している男、立ってスマホをぼんやり見つめている若い女、その隣にいる疲れた顔でスマホをスクロールしている女。近くの乗客の顔をそっと盗み見ている自分に気が付き、なぜ自分が気を遣わなければいけないのかと思った。ドブの方は俯いてはいるが涼しい様子で、スマホで地図を開いて見ていた。
「鍵についてるやつ」
 いきなりドブが小声で話しかけてきた。「え?」と返すとドブはちらりとこちらに視線を寄越し、「キーホルダー」と言う。
「アヒルの」
「ああ、育英会の」
「まだ持ってんだな」
 いきなり何を言い出すんだと思い、隣の男の顔を見つめる。ドブは先ほどと同じく手元のスマホに視線を落としていたが、画面には何も映っていなかった。俯く男の顔からは何の感情も読み取れない。
「ずっと持ってたぞ。お前が気づいてなかっただけだろ」
 あのアヒルのキーホルダーは出所前こそいつも大事にポケットに入れていたが、出所してからは制服もないので部屋の鍵に付けていた。以前よりも動かすことが多くなり、出所時に返してもらった時にはまだ塗装が綺麗だった箇所も、少し剥げて薄くなっている。出所前と同じく離さず持っているもので、よほどボロくなったとしてもこれからも持ち続けるだろうものだった。
 あれがどうしたのかと問うと、ドブは「いや、いいなと思ってさ」と言って、視線を手元から窓の外に移した。つられて、窓の外を見る。駅舎とホームに立つ人が流れていくのが見えて、その速度はどんどん落ちる。やがて電車が完全に停車すると、目の前に立っていた女二人が出ていき、代わりに別の女が入って来て俺の前に立った。新しく来た女は先ほどの女と同じくスマホを横にして画面を見つめる。つまらなさそうな顔をしている。
 ふと、引っ越しの際に、ずいぶん色んなものを引き連れてきてしまったことを思い出した。いつの間にか増えてしまっていた衣類や、ドブが買った家具や家電、職場の人に貰ったはいいが調理の仕方が分からず放置しているインスタント食品、むかし弟がくれた時計、靴、置物。大きなものから小さなものまで、様々なものが部屋から湧いて出てきた。もちろん要らないものは捨てたのだが、それでもかなりの量を新居に移す羽目になり手間取った。それに比べるとドブの荷物と言えばボストンバッグと紙袋ひとつに入る服くらいで、ずいぶん身軽なものだった。こいつの増やした家具と家電はなんだかんだで俺のものということになっているし、この男個人のものは、俺の部屋に来た時からほとんど増えていないことに気が付いた。
「そう言えばお前、ゲームは? 前の部屋に置いてたやつ」
「邪魔だから売った」
 すんなりとドブは答える。確か荷物を梱包する時にはすでに見当たらなかったのでその時には売っていたのだろう。とはいえ、今の部屋のテレビの前にもいつのまにかゲーム機器が置かれている。俺が知らない間に買って、部屋の荷解きに紛れてしれっと設置されていた。
 考えてみればドブのセーフハウスも物が少なかった。絵や間接照明など、生活に不要なものはあれどいつも片付いていた。拠点を移してもそれは同じで、インテリアや家具や食器は似たトーンのものだったが、部屋が変わるたびに微妙に違うものへと変わっていた。
「お前荷物少ないよな」
「大門が多すぎるだけだろ」
 言われるとそうかもしれないが、自分は普通の範疇だと思った。指名手配犯としての生活が長いと、いつでも鞄ひとつ持って逃亡できるよう身軽でいる癖がつくのだろう。そっちの方が異常だと思った。
 次の到着駅を告げるアナウンスが車内に響く。「降りるぞ」とドブは言って、停車と同時に立ち上がった。
 ドブについて繁華街を抜け、細い道から裏に入る。大通りこそ明るく人通りがあるが、一歩外れれば外灯は少なく暗い。ビルとビルの間にできた隙間のような道を抜け、すぐにまた幅のある道に出たが、暗く人影はなかった。外灯もなく、曇り空の為月明りもなく、向こうに見える建物の窓から漏れる明かりや曲がった道の先にあるらしい明かりのおかげで辛うじて道の様子が見渡せる。二車線ある道路には路駐している車が数台見えた。ドブはそのうちの一台、黒のバンに歩み寄った。
「おい」
 まさか車上荒らしなんてしないだろうが、つい大きな声が出た。ドブは俺をにらむと寄ってきた。
「静かにしろ」
「何してんだよ」
 ドブは俺の肩を抱いて車の影にしゃがみ込んだ。車体に押し付けられるように身を寄せられながらドブの見ている方を向くと、向かいの工事中のビルの防音パネルの中から男が二人出てくるのが見えた。二人は辺りを伺いつつ歩道から車道へと速足で進み、路駐していた車にそれぞれ乗り込んだ。急いでいたのだろう、俺たちがいる事に気づく様子もなく車はすぐにその場を去った。
 車が角を曲がるのを見るなりドブは立ち上がり、バンの中を覗き込んだ。習って覗いてみると後部座席にはレンチなどの工具と、何かの布が折りたたまれて置かれている。座席の下には麻縄も見えた。ガラスを触ると暖かい。すぐさっきまでエンジンがかかっていた様子だった。
「何……」
 これは一体何なのかドブに聞こうとしたが、ドブは道路を横断し工場の方に向かって行ったので聞けなかった。急いで後についていく。薄い灰色の防音壁は二メートルのほどの高さがあり、その少し内側には防音シートが張られていた。改修工事中につきご迷惑をおかけいたしますという看板が、壁に取り付けられている。ドブは看板の横を通り過ぎ、先ほど男たちが出て来たあたりに向かって行った。一部、パネルがずれて入れる箇所がある。その隙間に体を滑り込ませるようにして中に進むドブに続いた。
 防音パネルの内側はコンクリートと金属の骨組みだけとなった建物があった。コンクリートの土台の上には手袋やヘルメットが放置されていて、手前の端の方に簡易トイレが置かれている。骨組みの内側からは、ぼんやりと曇った暗い空が見いた。星も月も見えず、黒い空に比較的白っぽい部分が雲なのだろう、それがゆっくりと流れていくのが辛うじて見えた。防音パネルの中は外よりもさらに暗く、奥がよく見えない。俺はスマホを取り出して背面のライトを点灯させた。途端、前方の骨組みの内側に立つドブの足元に、倒れている人間を認めた。
 すぐにドブに駆け寄ると、倒れている男の荒い息が聞こえる。ドブの影が黒く伸び、白い防音シートに歪んだ形として現れた。
「明かり、落とした方が良いな」
 ドブがそう言ってしゃがみ込むと、倒れている大柄の男が触るなと喚いた。大男のジャージの柄と頬の傷には見覚えがある。身をよじって上体を起こし、荒い息を吐いてドブを睨む大男は関口だった。その傍で影となって倒れている小柄な男の細い体も覚えがある。矢野と関口、なぜかその二人が、工事現場の黒い土の上で倒れていたのだった。
 ニュースなどでは見ることはあったが、あの橋で殴られたきり直接みる機会がなかった二人が何故こんなところで倒れているのか。突然の事に動けずにいると、照らされている関口の白い手が、赤く濡れている事に気が付いた。
「明かり」
 ドブは俺を見る。俺は急いでバックライトの明度を数段落とした。眩しい光が鈍い光となり、二人の様子が見えずらくなる。しかし、先ほど血を流していると気づいた途端、それまでは分からなかった男たちの体の下に血が広がっているのが見えた。
「だから止めとけっつっただろ」
 ドブは矢野に手を伸ばす。関口は鋭くその手を払った。
「おいおい、助けに来たんだぞ俺は。どこ撃たれた」
 関口はドブを睨んだまま答えない。矢野は意識を失っているのか、目を閉じてぐったりと横になっている。完全に脱力しているようだが、肩がかすかに上下しているので生きてはいるようだった。
「お前ら動けねえんだろ。車の鍵よこせ、ヤブに連れてってやる。それなりの金は貰うがな」
「あんたの世話にはなりたくねえな」
「言ってる場合か。大門、さっきの車はこいつらのだ。運ぶぞ」
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