夢が醒める前に
「もういいかーい?」
遠くからそんな子どもの声が聞こえた。
「まーだだよー」
この場所から動く気は一切ないが、まだ準備ができていないからそう答える。
少し経ってまた、もういいかーい、と聞こえた。先程よりも近くで聞こえたそれに、移動する準備をする。まーだだよー、と言いながら、その声から遠ざかるように走った。それなのに、声はずっと追いかけてきて、逃げる場所なんてどこにもないんだと思い知らされる。
はぁ、はぁ、と息を切らしてたどり着いたそこには一人の子どもがうずくまっていた。追いかける声は後ろからどんどんと近づいてきていて、その子にも逃げるように声をかけようとした。
「君も早く逃げ、て……」
うずくまっていたその子を見るとそれはたしかに幼い頃の自分で、そこでようやく思い出す。
ああ、これは夢だ、と。子どもの頃から繰り返し何度も何度も見た夢だった。
終わることのないかくれんぼに、得体の知れない何かに追われて、最後には自分を見つける。そんな悪夢に似たような夢だった。
ああ、なんだ夢か。なんて思えたらどれだけよかったか。何故だか嫌な感じが拭えないし、走りすぎて横腹が痛いのが夢じゃないと教えているようで、嫌な予感がした。
「もういいかーい?」
真後ろから、声が聞こえた。まだ、だよ、震えながらそう答えれば、そいつは笑った。
「ねえ、ダメだよ。まだ、気づいちゃダメ。まともになっちゃダメ。正気になっちゃダメだよ。……だってこれは、『夢』なんだから」
ひどく嬉しそうな愉しそうな声に、ひゅっと喉が鳴る。
気づいてはいけないのは、きっとこれが現実だから。夢なんて最初から見てなんかいなかったんだ。繰り返し見てきたこれはずっと、ずっと現実で。これ以上おかしくならないように夢だと思い込んでいたのだ。
「もう、いいかーい?」
耳元でそう囁くような声が聞こえた。
「もう、いいよ」
諦めたようにそう言えば、そいつは呆れたようにため息をついた。
「だからダメって言ったのに。何回目?」
決して正気に戻ってはいけない。
この世界ではおかしいのも、狂うのも大歓迎さ。
でも、一つだけ忠告しておこう。決して正気には戻らないことだ。それはきっと君の身も心も滅ぼす。
だから、今日もおもしろおかしく、頭を狂わせて好き放題するんだ。正気に戻る前に、夢から醒める前になんかもう戻れないんだから。