梅に蕾が付き始め、寒暖が交互にやってくるこの季節。
 俺たち三年の学年末考査もボロボロになりながら終えると、卒業式まで……さらにいえば大学の入学式まで、楽園が如きフリータイムに突入する。
 この期間をどう過ごすのかも人によるだろう。意識の高い奴らはこんな時期にも勉強だったりトレーニングを欠かさないのだろうし、それ以外の多くの学生はこのモラトリアムを遊びで有効に使うはずだ。
 さて、じゃあそんな俺はというと、折角だからと自動車学校に通い始めることにした。
 目指すは普通免許。目当ては車それ自体というよりも原付だ。あれば移動がぐっと楽になって行動範囲が広げられる。まぁ大学進んでも一応野球は続けるつもりだから、持ってた方がいいというのもあるけど。
 とはいえこの時期は人が多い。学習室には俺らみたいな高校生から大学生まで、結構な数で埋まっている。大概は友達同士で来るおかげで室内は騒々しい。
 もちろん俺もそうやって来てるわけだけど、生憎と連れ合いは離席中。早速、運転練習の洗礼を浴びていることだろう。もっとも、一時間もしたら今度は俺が洗礼を浴びる番だが。
 それまでの間は座学をして時間を潰すことになるのだが、これがつまらん。肘を付きながら教材をぱらぱらと適当に眺めていても全然頭に入らない。
 思わず欠伸をしていると、学習室の扉ががらりと開く。
 音に反応してなんとなしに視線をやる。――欠伸をしていたものだから、驚いた拍子に「かふっ」と小さな音が漏れた。
 見覚えのある彼女は入り口で空いてる席を探すかのように室内を見渡す――目が合ってしまった。
 俺は硬直する。彼女も硬直する。
 内心での探り合い、というか困惑か。それも当然だろう。
 俺も彼女に思うところがないわけではない。ないが、それでも片想いしてた相手だ。無視することもできずに小さく手を挙げると、彼女はホッとしたように表情を緩めて歩み寄ってきた。
「久し振りだな、小糸」
 そう呼びかけると彼女――小糸は短くなった髪を揺らしながら手を挙げ返す。
「そっちこそ久し振り。隣いい?」
「おう」
 幸いにも、横は連れ合いのために空けてある。全然問題はなかった。
 小糸は「それじゃあ」と席に座る。
「まさか同じとこに来るなんて」
 鞄から教材を用意しながら、小糸はそう言って苦笑いを浮かべた。
 確かに、それは同意だ。
「まぁこの辺りで自動車学校って少ないからなぁ」
「なに取るの?」
「AT。小糸は?」
「わたしも。大学行ったら色んなとこ行きたいし」
「ってことはもう決まってんだ」
「まぁね。そっちは?」
「俺も一応な」
 そんな風にしばらく会話が続く。高校でのことや大学のこと、菜月のこと。
 表面上は旧友との穏やかなやり取りに見えることだろう。だけど、中学の頃を思うと、ぎこちなさが隠せていないのは自明だった。
 当然だろう。俺は小糸に告白して、振られたんだから。
 俺にとっても、小糸にとっても、どんな態度で接すればいいのか、いまいち距離感を測りあぐねている。そりゃあ当たり障りのない話しかできないというものだ。
 しばらく会話を交わしたあと、小糸が「そろそろやらなきゃだ」と教材に向き合うのも無理はない。いや、そもそも自動車学校はそういうところなのだから小糸が正しいのだけれど。
 俺もそれに倣って教材に向き合う。が、隣が小糸というので妙に落ち着かない。
 結局この日は座学に集中することができなかった。
 小糸も短期集中プランを組んでいたのか、毎日のように顔を見ることになった。もちろんスケジュールによっては話せない日もあったけれど、日を重ねるごとに気まずい空気は薄らいでいった。
 しかし厄介なことに、俺は自分で思ってたよりも未練がましい奴だったらしい。
 もうすっかり忘れていたはずの気持ちが、小糸に会って話をする度に色を帯びていく。
「なぁ小糸。今誰かと付き合ってたりする?」
 ようやくそれを聞いたのは、二人とも仮免の試験に合格し、自動車学校卒業の目途も立った頃だった。
 あの時と同じだ。もうすぐ会えなくなる期日が近付いてから切り出す当たり、まるで変わってない。それでも言わないで後悔するよりかマシなはずだと、訊ねたのだ。
 突然の問いかけに小糸は、わずかに目を大きくしたあと、「あー」と目を逸らした。
 三十秒ほど、俺たちの間に沈黙が流れただろうか。
「……うん」
 絞り出すような声で小糸は、困ったような苦い笑顔を向けた。
「……………………そ、っか」
 それ以上なにが言えるだろう。
 果たして俺は小糸に、二回も振られることになった。いや、今回は告白すらしてないのだから、もっとひどいのだが。
 おかげで少し前に事情を吐かされていた連れ合いには、からかい交じりに励まされることになってしまった。この時ばかりは、酒が呑みたいと本気で思ったくらいだ。
 翌日からはまたしてもギクシャクした空気に逆戻りしてしまった。小糸は俺を避けるようなことをしなかったけど、むしろ気を遣わせたことに惨めな気分になる。
 そんな空気をいくらか引きずったまま、あっという間に本免試験の日になった。進捗が同じだった俺と小糸は、自動車学校の送迎車に乗って試験会場へと向かった。
 試験会場は人の賑わいが絶えない。そこに漂う緊張感に思わずこちらも緊張が移ってしまう。
 まぁ落ちたところで一年間は何度でも受験することはできるけど、できれば一発で取りたいものだ。折角の休み期間なのだし。
 ちらりと横を見る。それは小糸も同じようで、わずかながら緊張してる様子が見て取れた。
 ……もう小糸にとって、俺は恋愛対象じゃないんだろう。そのくらい分かってる。
 そこでしつこくアプローチできるようなら、そもそも中学の時だって卒業式まで告白できないなんて自体にならなかっただろう。情けない話だけど。
 だけど。
「一発で取ろうな」
 隣の席で、頭一つ分小さな彼女に、俺は小さく声をかける。
 ……それでも。好きな人を応援するくらいは、しておきたかった。
 たとえなんの見返りがなくとも。自己満足でも。
 よっぽど驚いたのか、小糸は目を丸くして俺を見つめ返したあと、あの悪戯めいた笑顔を浮かべた。
「……うん。がんばろ」
 拳をこつんとぶつけ合う。こんなことをしたのは、中学の体育祭振りだった。
 /
 無事に筆記と実技の試験を突破し、本免を取ることができた。
 いや、実技は縁石に乗り上げてちょっとヒヤッとしたけど。それ以外のミスはなくなんとか首一つつながった形だ。
 ともあれあとは面倒な事務処理だけ。
 そんなわけで証明写真を待機する長蛇の列に並んでいると、後ろから小糸の声がからかってきた。
「合格おめでとう」
 振り返ると、手を掲げられる。俺もそれに応じてハイタッチした。
「おう、そっちもおめっと」
「これで安心して卒業できるよ」
「ようやく長い長い春休みだな」
 と、軽口を叩いていたところで、小糸がスマホを取り出す。スマホは振動していて、画面を見た小糸は慌てて耳に当てた。
「もしもし? ……あ、もう終わったんだ。早いね。……え?」
 流石に相手の声は聞こえない。口に手を当てて小声で答える小糸は、不意に驚きに声を跳ねさせた。
「もういるの? サプライズって……まだ証明写真とかあるから待っててよ」
 慌てた様子で電話を切った小糸は、はぁと一つ溜め息を吐く。
 ……その声に、聞いたことのない熱が込められてるのを、俺は聞いてしまった。
 訊くべきか、訊くまいか、しょうもない逡巡の末に、俺は口を開く。
「……恋人?」
 それを聞いた小糸は、あの困ったような笑顔を浮かべる。
 その頬には、わずかに紅で染められていた。
「……まぁ、うん」
 ……あぁ。完敗だ。
 小糸にこんな顔をさせるなんて。
 どんな奴なんだろう。このままいけば顔を拝むことくらいはできそうだけど。でも。
「ほら、先」
 自分に呆れた溜め息を吐き、俺は列から少しずれる。
「え、いいの?」
「こっちはもう暇だしな」
 せめてそう強がる。
 ……結局、相手の顔を見たところでなにになるわけでもない。むしろ敗北感に打ちひしがれそうだ。
 なら逃げた方がいい。それに……せめて小糸には、かっこ付けていたかった。今更手遅れに過ぎるけれど。
「……ありがと」
 少しの間躊躇っていた小糸は、やがてはにかんで先に進む。
 間もなくして小糸は写真ブースに入っていく。そうして出てきた小糸は、俺を見て手を振った。
「それじゃお先に。……またね」
「……おー。またな」
 手を振り返す。小糸は笑顔を浮かべ、駆け出していった。
 ……いいんだ。元から振られてたんだし。これで。
 小糸を最後まで見送っていた俺は、「次の人」と呼ばれて彼女とは逆方向に歩き出す。
 ……証明写真には、ちょっとだけ険しい表情が飾られることになった。
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