老化による衰えは、度々色んな形で痛感する。
まずは息切れ、疲労回復の低下に始まり、次に食事量や油への抵抗感、足腰と柔軟性の不自由に至る。
が、私の場合強く衰えを実感したのは、目だった。
眉をひそめても新聞を寄せても離しても文字が見辛くなってようやく、自らが老いたのだと理解した。
膝の上に座っていた斑が、落ち着かない私を不満そうに見上げていたので、新聞を卓上に放り投げてご機嫌を取る。手元に視線を落とさずとも、もはや手慣れたものだ。間を置かずして斑はごろごろと咽喉を鳴らし始めた。
撫でる手をそのままに、掛け時計へと視線をやる。盤上の数字はやはりぼやけている。
確かに以前のように背筋をしゃんと伸ばすのも辛くなってきたし、足腰も幾分弱ったとはいえ、家の中を程々に歩き回れる程度には元気だと認識していた。まだ物忘れなどは目立たなかったというのも大きい。
それを、こんな形で痛感させられた。
そこまで言っておいてなんだが、本や新聞が特別好きというわけではない。ただ、眼鏡もいらない生活を長らく過ごしていた私にとって、それは老いをとても強く感じさせる出来事だった。
ふと振り返れば、最近色々と鈍くなってたことに気付く。まだ大丈夫だろうと思っていた生け花を枯らしてしまってたり――最近の暑さは昔と違うから、その感覚で推し量ってたのもあるのかもしれない――息子のゴルフクラブが増えてるのに気付くのが遅れたり。
孫がいつの間にか、大学で誕生日を祝えるような友達と出会えていたこともそうだ。
私には人を見抜く目があるというのがちょっとした自負だった。この大きな旧家を取り仕切ることができたのも、この目があったからこそだと思ってる。
その目ももう年らしく、疲れてしまったようだった。
ついさっき見たばかりの孫の目を思い返す。瑞々しい輝きに満ちていた。あのような初々しい目は、もうできまい。
……いいや、それこそ気力の衰えだ。
あそこまでの輝きはなくとも、できないわけじゃない。老いはなくすばかりであっても、それだけではない。老いるほどの長い時間を生きることは、それだけ新しいものに出会うことでもある。
孫もそうだ。この斑と錆もそうだ。
くあ、と欠伸を漏らす斑も、もう猫としてはいい年だ。いつ迎えが来てもおかしくない。ひょっとしたら私よりも早いかもしれない。
だけど、この斑がいたから、楽しかった日々もある。
一つ、二つ、柔らかく頭を撫でてから、斑を膝の上から降ろす。のんびりしていたところを邪魔され不服そうに睨み付ける斑に、なんだいまだ元気じゃないかと一笑した。
なら私もまだまだいける。重い気力と体を、ふっと息を吐いて持ち上げた。
さて、差し当たっては。
老眼鏡を買いに行こう。家で眼鏡をかけてるのは孫だけだから、教えてもらいながらでもいいかもしれない。帰りには藤代さんとお茶をしてもいいだろう。
老いるほど楽しみが増えるものだと咽喉で笑いながら、私は斑の先導を受けて孫を探し始めた。